食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

味噌汁の誕生-中世日本の食(12)

2021-01-28 23:34:40 | 第三章 中世の食の革命
味噌汁の誕生-中世日本の食(12)
日本人の食事と言うと「ご飯」と「味噌汁」に「おかず」のパターンが多いと思います。

この中でご飯は弥生時代から食べられていましたが、日本人が味噌汁を飲むようになるのは中世になってからです。

ところで、味噌汁の材料の味噌には白味噌や赤味噌、あるいは米味噌・麦味噌・豆味噌などいろいろな種類があって、地域によって味噌の好みが分かれています。ちなみに私は京都出身なので、白味噌の味噌汁が一番好きです(特に、タマネギを具にした白味噌の味噌汁が大好物です)。

今回はこのような味噌の違いに触れながら、味噌汁と味噌の歴史について見て行きたいと思います。



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味噌の原型とされているものが中国発祥の「醤(じゃん/しょう/ひしお)」と呼ばれるものだ。これは食材を塩漬けにして発酵させたものの総称で、液状になったものを調味料として肉や魚、野菜などに塗って食べていた。701年に天武天皇が定めた『大宝律令』には「醤院」という宮中の醤の保管所について記されているため、醤はこの時代までに日本に伝えられていたと考えられる。

また、『大宝律令』や奈良時代の木簡、平安時代に編纂された『延喜式』には「未醤」という食品の名があり、これが「味噌」の直接の先祖と考えられている。未醬はその名の通り、塩漬けした大豆が醤になる前、すなわち液状になる前の固形の食品であったと推測されている。つまり、甘納豆のように大豆の姿をとどめていて、手や箸でつまんで食べたのではないかと言われている。

この未醬が「味噌」と呼ばれるようになるのは平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけてである。なお、味噌(未醬)は、日本人が醤の作り方を改良することで独自に開発した食品という説が有力である。

ここで味噌の作り方について簡単に見ておこう。

味噌には材料によって「米味噌」「麦味噌」「豆味噌」の三種類があるが、それぞれ「米麹」「麦麹」「豆麹」を使って発酵させた味噌のことだ。ちなみに最初の味噌(未醬)は、延喜式の記録から米麹を使った米味噌と考えられている。

米麹は蒸したコメに麹菌を繁殖させたものだ。米味噌づくりではこの米麹を蒸した(あるいはゆがいた)ダイズと混ぜ合わせることで、麹菌のタンパク質分解酵素を働かせてダイズタンパク質を分解している。米味噌ではコメのデンプンが分解してできたブドウ糖が多く含まれているため、甘味があるのが特徴だ。

ちなみに、麦味噌は蒸したオオムギに麹菌を繁殖させた麦麹を使用したもので、ムギ特有の香ばしい風味がある。一方、豆味噌は蒸したダイズに麹菌を繁殖させた豆麹を使用したもので、マメのタンパク質から生まれた深いうま味が特徴だ。また、豆味噌づくりには長い醸造期間が必要で、その間にメラノイジンと総称される褐色の物質ができるため、とても濃い色になる。

味噌には「白味噌」と「赤味噌」という分け方もある。

白味噌は、使用する米麹の量を多くすることで醸造期間を短縮したもので、その結果メラノイジンがほとんどできないため色白になるのだ。一方の赤味噌は醸造期間が長いのでメラノイジンがたくさんできて、褐色が強くなるというわけだ。

白味噌は平安時代中頃に京都で誕生したと考えられているが、甘いものが少なかった時代のため貴族たちが好んで食べたという。

さて、鎌倉時代なると、いよいよ「味噌汁」が誕生する。

この味噌汁を作るのに必要だったのが、禅僧が中国より持ち帰ったすり鉢だ。それまでは粒状態だった味噌のダイズをすり鉢によってすりつぶすことで、水に溶けやすくなり味噌汁を作れるようになったのである。

と味噌汁の登場によって「一汁一菜(主食、汁もの、おかず、香の物)」という鎌倉武士の食事の基本が確立されたと言われている。

さらに室町時代になると、味噌汁が庶民の食卓に登場するようになる。これは大豆の生産量が増えて、農民たちが自家製の味噌を作るようになったからである。また、酒造りの進歩などによって品質の良い麹菌が簡単に手に入るようになったことも関係している。さらに、すり鉢が各家庭に普及したことも理由としてあげられる。

なお、すり鉢の普及によって味噌汁だけでなく、いくつもの新しい料理が生まれた。例えば、スリゴマで作った「ゴマ和え」や魚のすり身で作った「蒲鉾(かまぼこ)」、干しダイ・干しダラなどを火であぶって肉をほぐした「ふくめ」(「でんぶ」の原型の一つ)などが室町時代に誕生した。

室町時代には、ご飯に味噌汁をかけた「汁かけご飯」が一般的な食べ方になった。武家奉公人としての心得や諸作法などをまとめた『宗五大草紙』には、「武家にては必ず飯わんに汁かけ候」とある。

味噌玉をお湯に溶かせばすぐに栄養価の高い味噌汁を作れるため、戦国時代には携帯食として重宝されていた。言い伝えによれば、石田三成は「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたることなし」と言ったとされる。

豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、伊達政宗もそろって味噌づくりを奨励しており、戦国時代にはとても重要な食品とみなされていたのである。