エジプト・ヨーロッパ・アジアの古代文明の盛衰
次に、メソポタミア以外の文明がどのような経過をたどったか見て行こう。
エジプトではナイル川の氾濫水が豊富にあったため、塩害は起こらず農産物の生産量も維持された。しかし、オリエントで勢力を拡大した他国により次第に干渉を受けることになる。やがて紀元前663年に、メソポタミアのチグリス川上流地帯を起源とするアッシリアが鉄製の戦車と騎馬を使った強い軍事力によってメソポタミアとエジプトを含むオリエント世界を統一し、最初の世界国家を樹立した。その後、紀元前525年には、遊牧民国家のペルシア帝国(アケメネス朝)がオリエントの支配者となった。
その頃地中海東部の沿岸では、ポリスと呼ばれる大小の都市国家が繁栄していた。この繁栄に寄与したのが後に詳しく見ていく交易と植民地だ。ポリスはお互いに競合しながらも言語と宗教が同じで、共同でオリンピックを開催するなど、共通性の高い古代ギリシア社会を形成していた。
やがて、ギリシア北部の遊牧民国家のマケドニアが勢力を拡大する。紀元前4世紀にはマケドニア王のアレクサンドロスが東方遠征を行い、ペルシア帝国を滅ぼしてギリシアからオリエントにまたがる大帝国を建設した。しかし、アレクサンドロス大王の死後、マケドニアは弱体化した。
それに代わって地中海で勢力を拡大したのが古代ローマだ。エジプトを含む地中海沿岸域に加えてヨーロッパ内陸部にも領土を広げ、最盛期にはブリテン島(現在のイングランド)まで支配した。一方、西南アジアでは新しいペルシア帝国(アルサケス朝・ササン朝)が誕生する。
アジアに目を向けてみると、インダス文明は紀元前1800年頃から衰退期に入り、紀元前1500年頃に滅亡する。しかし、その原因はよく分かっていない。その後、遊牧民のインド・アーリア人が侵入し、紀元前6世紀ごろにガンジス川流域に都市国家を建設する。
中国文明は存続し続け、夏・殷・周・秦などの国家が支配者となる。存続の理由として、黄河の治水が比較的うまく進んだことと、広大な森林の豊かな資源を利用できたことなどが考えられている。