フェニキア人の歴史
地中海における海上貿易や植民地を考える上で、フェニキアについて触れないわけにはいかない。「フェニキア」とはギリシア語で「赤紫」のことで、フェニキア人が最初期に居住していた地中海東北部沿岸で採れた貝の染料から名づけられたと推測されている。
現在のシリア、イスラエル、レバノンに相当するこの地域では、レバノンの国旗にも描かれている「レバノンスギ」が重要な輸出品として伐採されていた。レバノンスギは腐食しにくく、太くて堅い材質のため、船や神殿などの建築資材に最適だった。ちなみに、エジプトのクフ王のピラミッド近くに見つかった「太陽の船」はこのレバノンスギでできている。
このように船の建材として有用な木材を産出したこともあって、フェニキア人は優秀な船を作り、航海術にもたけていた。そして、地中海沿岸部を結ぶ交易網を発達させたのである。後期青銅器時代(紀元前1500年頃~前1200年頃)には、ウガリットやビュブロスなどの都市国家を造り、エジプトやエーゲ海の国々と海上貿易を行なっていた。
このころのフェニキア人の食生活は、関係の深かったエジプトなどのオリエントの影響を強く受けている。穀物としては、小麦・大麦・エンマー小麦やレンズマメなどの豆類が食べられていた。これらは粥やパン・ガレットとして消費されたようである。
また、ニンニク、タマネギ、キュウリなどの野菜類や、ナツメヤシ、イチジク、リンゴ、ザクロなどの果実類も栽培され食卓に上っていた。特に「フェニキアのイチジク」は極めて美味な果物としてエジプトで絶賛されていたとの記録がある。
肉は広い牧草地で飼育されていたウシ、ヒツジ、ヤギなどの家畜から得ていたようだ。沿岸部であることから、魚も貴重なタンパク源だったと考えられる。中でも、魚ではないがクジラの漁が行われ、フェニキアで消費されるとともに、輸出品や献上品として隣国に運ばれていたようだ。
フェニキア人が住んでいた地域は、旧約聖書で約束の地(カナン)と呼ばれる「乳と蜜の流れる場所」とされていることから、乳製品と蜂蜜の生産量や消費量が髙かったと推測される。実際にウガリットの文献にはチーズの記載が残されている。
また、ブドウの栽培も盛んで、高品質のワインを生産して、近隣諸国に輸出していた。
以上のように繁栄していたフェニキア人の国々は、オリエントや地中海を襲った紀元前1200年頃の社会変動によって衰退してゆく。その後フェニキア人は地中海東部を南下してシドンやティルスなどの都市を建設するとともに、地中海の西部に進出し、紀元前9~前8世紀には北アフリカ沿岸やイベリア半島の南沿岸に、新たな植民地や都市国家を築くことで復興してゆく。
植民地の中でも特に重要なのが、ティルスを母市として紀元前800年頃に北アフリカに建設されたカルタゴである。この頃から、同じように地中海での植民活動を開始したギリシア人との抗争が始まる。
尚、カルタゴについてはローマとの戦争(ポエニ戦争)に関連して、別途記載する予定である。