カルタゴとローマの戦い
食の歴史に直接関係ないが、ここで古代ローマが地中海の支配権を獲得してゆく経緯を見ていこう。
ローマが地中海を支配するようになる上で重要だった存在がカルタゴだ。カルタゴは紀元前814年に、地中海東部のフェニキア人の都市国家ティルスの植民都市として作られたという伝承があるが、実際はそれよりも後の建設と考えられている。
カルタゴはちょうど地中海の中央部に存在し、地中海西部と本国のある東部との海上貿易の中継基地としての役割を担っていた。
アケメネス朝ペルシアとギリシアが戦ったペルシア戦争ではフェニキア人はペルシア軍の海上部隊の主戦力だったが、カルタゴもペルシア側につき、シチリア島にあったギリシア植民都市シラクサを攻撃した。しかし紀元前480年、ペルシア軍がサラミスの海戦でアテネ軍に敗れたその日に、シチリアではカルタゴ軍の30万もの兵がギリシア軍によって敗死させられた。これをヒメラの戦いと呼ぶ。
この戦いの後もシチリアを舞台に、カルタゴとギリシアの戦いが断続的に繰り返された。
ペルシア戦争後はアテネ海軍が力をつけて東地中海を支配したため、フェニキア人は西地中海で主に活動した。そして、紀元前4世紀に母国のティルスがマケドニアのアレクサンドロスに征服されると、多数のフェニキア人がカルタゴに移住し、それ以後はフェニキア人の本拠地として繁栄し一大帝国を築いていった。この繁栄を支えたのがイベリア半島南部やアフリカ北部に作られたカルタゴの植民都市からの物資や税である。
一方、ローマは紀元前753年にロムルスが建国したと伝承される。元々は小さな村落だったが、他民族のエルトリア人によって征服され都市化された。紀元前509年には、エトルリア人の王を追放して共和政に移行した。その後、イタリア半島を統一する戦いを始め、紀元前312年にはアッピア街道を建設して南イタリアへの進出を進める。
このようなローマの南下におびやかされたギリシア系植民市(マグナ・グラエキア)は、ギリシア本土のエペイロス王ピュロスに援軍を依頼した。ピュロスはマケドニア軍と共同してローマ軍と戦い、いくつかの戦いでは勝利するも、ローマは粘り強く戦い続けた。その後、カルタゴがローマに援軍を送ったために劣勢に立ったピュロスは結局撤退した。実は、紀元前500年頃のローマが弱小な都市国家だった頃からカルタゴとの間には両国の権益を定めた条約が結ばれていたようだ。
ピュロス軍との戦いをカルタゴの援軍によって勝利したローマは南イタリアを支配した。ところが、シチリア島を支配する様子を見せたカルタゴに対して紀元前264年にローマが軍艦を派遣したことによって、200年以上にわたって続いた両国間の友好関係が終焉を迎えた。第一次ポエニ戦争(紀元前264~前241年)の始まりである。
カルタゴはシチリア島最大の都市のシラクサ(シュラクサイ)と共にローマ軍と戦ったが、ローマ軍のシチリア島上陸を許した結果、シラクサは逆にローマと同盟を結んでしまった。不利に立ったカルタゴはシチリア南部の都市アクラガスを拠点としてローマ軍と戦うが、ここでも敗れてアクラガスを占領されてしまう。
当初は、ローマは世界征服を視野に入れていなかったが、このシチリア島南部の占領によって領土拡大の姿勢に拍車がかかったのではないかと言われている。
当時、フェニキアの艦船は地中海で最強を誇っていた。その頃の戦法は、船の硬い先端を相手の船にぶつけて破壊・撃沈するものだった。造船経験が無かったローマは拿捕したフェニキアの船を参考に軍艦を建造したが、ここで新しい「装置」を開発する。それが「カラス」と呼ばれる相手の船に乗り込んで戦うための通路だ。つまり、体当たりではなく、相手の船に乗り込んで兵士同士が戦うという新しい戦法を編み出したのだ。これを使えば、陸戦が得意なローマ軍が優位に戦える。そして、紀元前260年にローマ艦隊とカルタゴ艦隊はシチリア島北東のミュライ沖で激突し、常勝だったカルタゴが大敗北を喫する(ミュライ海戦)。
それからの戦いは双方ともに消耗戦におちいるが、先に根負けしたのはカルタゴで、紀元前241年にカルタゴに圧倒的不利な条件で和平が結ばれた。その結果、ローマはシチリア島東部などを支配下におさめた。
さらに、カルタゴが雇った傭兵の賃金不払いをきっかけに始まった植民都市の反乱に乗じて、ローマはコルシカ島とサルデーニャ島を占領してしまった。カルタゴにとって両島を失うことは西地中海の航行が制限されることを意味しており、何らかの対策を打つ必要があった。
そこで、カルタゴの一氏族のバルカ家がイベリア半島(スペイン)に渡り、そこでの支配権を確立することによってローマに対抗しようとする。25歳という若さでバルカ家の当主となったハンニバル(紀元前247~前183年)はついにローマとの戦争を開始する。これが第二次ポエニ戦争(紀元前218~前201年)だ。この戦争はハンニバルによって行われたため、ハンニバル戦争とも呼ばれる。
彼は多数の象を引き連れてイベリア半島からアルプスを越えて進軍し、イタリア半島に到達する。その距離は約1600キロメートルと見積もられており、5か月間を要した。その間に多数の兵士が死に、当初は歩兵5万、騎兵9千だったのが、歩兵2万、騎兵6千までに減っていたという。これは到底ローマに対抗できうる戦力ではなかった。
しかし、ハンニバルは騎兵を用いた巧みな戦術でローマ軍を圧倒していった。ガリア人の部族を味方につけ、数で優位に立つローマ軍に対して連戦連勝をおさめながらローマへ向けて進軍を続ける。そして、ついに紀元前216年にローマから数日の距離にあるカンナエでハンニバル軍とローマ軍の決戦が行われた(カンナエの戦い)。ここでもハンニバルは、巧みな戦術でローマ軍を壊滅状態に追い込んだ。もはやローマにハンニバル軍に対抗できる戦力は残されていなかった。
ところが、快進撃を続けていたハンニバルは急に歩みを緩める。そのまま進軍すればローマを占領できたはずだが、それをやめてイタリア南部や周囲の国々に同盟を持ちかけた。最終的にイタリア南部、マケドニアやシラクサなどの国々が同盟の誘いに乗ってローマ包囲網が形成されたが、ローマが体勢を立て直す猶予を与えてしまった。ハンニバルの政治的な未熟さが招いたミスだと言われている。
スキピオ(紀元前236~前183年)に率いられたローマ軍はスペインを守っていたハンニバルの弟を打ち破り、そのままスペインを支配下におさめるとともに、アフリカのカルタゴ植民地も征服していった。さらに、ローマ包囲軍を形成していた国々も順に降伏させ、地中海における覇権を確立していく。そして、最終的にカルタゴから南西5日ほどにあるザマで決戦が行われた結果、ハンニバルは敗北し(ザマの戦い)、第二次ポエニ戦争は終結した。
この講和条約ではカルタゴのアフリカでの植民地支配は守られたが、ローマの許しのない限り他国との戦争を行わないことや、50年間にわたる巨額の賠償金の支払いなどが定められた。
それから少し時が流れ、ローマが海外領土のさらなる拡大のためにカルタゴの地をねらっていた折、カルタゴが講和条約を破ってアフリカのヌミディア王国と戦争を起こした。これを発端として対カルタゴ戦が開始される。ローマはカルタゴに全兵器・全艦船と食料の大部分、そして人質として300名の貴族の子供の引き渡しを命じた。それに粛々と応じたカルタゴに対して、ローマはさらにカルタゴ自体の引き渡しを命じたため、カルタゴ市民は激怒し籠城戦が始まった。第三次ポエニ戦争(紀元前149~前146年)の始まりである。
4年間に及ぶ激しい籠城戦の後、城壁は破られ、ローマ軍はカルタゴ内に突撃した。あらゆる建物は破壊され燃やし尽くされた。神殿に逃げ込むことで生き残った5万5千人の市民もすべて奴隷として売り払われた。また、カルタゴの農地には二度と作物が育たないように塩がまかれたという。
こうして地中海に一大勢力を築いたフェニキア人の帝国は滅亡し、それを踏み台としてローマが地中海の覇者として君臨してゆくのである。