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氏神様参拝382


おはようございます。
今朝は参拝はお休みです
氏神様参拝395、玄米食454、縄跳び023です。
アーユルヴェーダ習慣066です。
ジョギングは2日に一回です。
ジョギング001です。

最初にお詫びと言いますか、昨日のブログで23時まで手を動かして、と書きましたが、ちょっと盛り過ぎだったと思います。😮‍💨
7〜8年前くらいまでは確かにそんな時も多かったですが、最近はコロナということもあり、早めに帰宅する日が多いです。

ただ、25年間ほどを俯瞰すれば、非常に忙しい時も多くて、さらに、考え方やバックボーンが違う方との調整に気を使う時間が多かったということが言いたかったのです。

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ジョギングは2日に一回のペースで続けていけたらな、と思います。今朝は筋肉痛ですが、運動するとやはり気持ちが良いです。
高校生までは運動していたので、やはり運動すると、精神状態も良いです。

でも、運動ばかりしていると、テンションが上がり緻密なことを考えるのが嫌になるので、バランスを取りたいと思います。運動しないと重箱の隅を突くような細かさが出てきます。
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ここ数年は物事を考える際の「全体の構造と細部」の統合について考えたり、表現する勉強、というかトレーニングをしてきました。その成果のひとつが論文です。
ここ数年は自己の認知や思考の癖についての試行錯誤を多く行っており、その試行錯誤の揺れが、関係者に不安定な波動を送り、諸々の不安を掻き立てたのかも知れません。反省です。
この一年はお経を読み始めたことによって、心の安定に意識がフォーカスされてきました。

「認識や認知」と「脳の使い方」の統合が長い間のテーマだったように思います。脳の言語能力が高いと、論理や思考の癖が先走り、事実とは違うことを説明することがあります。昨日の23時まで手を動かしている、もその例かも知れません。

若い頃は小説をたくさん読んでいて、小説はフィクションですから、脳が気持ち良いように文章や物語が構成されているので、その癖で話をすることも多かったのではないか、と思います。それがやや誤解を生むこともあったかもしれません。

大学に入ってからは、アルバイトをするなど、社会との接点が増えて、(現実)社会と知識との統合や知識の再構築が行われます。

そして他者へのプレゼンテーションを通して、第三者の認識と自己の認識の違いということに意識が向かい、その過程で客観とは何か、ということを考えていくわけです。

科学が、主観と客観ということを考えて、客観を重視するのは、主観による認知の暴走による社会の不利益を防ぐためと考えられます。
科学は主観は必要としない、というふうに考えると、それはまた逆の暴走になるように思われます。主観というか自己がある程度確立しないと科学もまた暴走して利用されることになるかもしれません。
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昨日の、神様がおられると思う、というのも、何か声が聞こえたり、見えたりというわけではありません。

仏教とか神道とかの考え方は大勢の人が社会を営むにあたり有用な考え方が説かれていて、少なくともこれを守ることで、社会に対して不利益な意識の暴走をする可能性が低くなると思われます。

また神様を崇敬するという意識は、生活の意識を高めるので、緻密で高度な判断を可能にする、ということも経験的にあるように思います。神様に見られているということが心を育てます。いわゆる集合無意識にアクセスすることは、心の安定につながり、心の安定は、社会に有益な活動を促進させることも可能です。


そのような状態を常にキープできるようになると、高度な価値判断を誤りなく常にできるようになり、神仏が宿ると捉えるのかも知れないなと思います。

心を育てない宗教は、依存を生むのでこれからは発展しにくいのかもしれない、と思ってしまいました。

皆様のご開運を謹んでお祈り致します。
今日もありがとうございます😊🙇‍♀️

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