生子のがん退治

47歳。昨年乳がん左乳房全摘手術と胆嚢全摘手術を連続でやっちまったの。がんなんかにゃ負けねえぞっ!!

旦那と母

2005-02-06 18:55:58 | Weblog
私が乳がんになってから、旦那は人が変わったように私に尽くしてくれました。彼はそれまでの悪業を断ち切るようにまともになりました(今は、また元通りですが・・・)。

私が乳がんの宣告を受けたその日のこと、旦那は、帰るとすぐに台所へ直行し、冷蔵庫にあった野菜を全部鍋に放りいれて煮込みはじめました。そしてある程度まで煮詰めてできたスープを私に「飲め」といって渡します。彼の言うところの「がん克服スープ」です。今思えばかえって病気が悪くなるような配合?でした。だって、じゃがいも、人参、タマネギ、ブロッコリーにほうれん草をひととおり洗っただけで皮付きのまま煮込んだモノなんです。でもその時は、なぜか「効きそう」な気がしました。煮詰めてどろどろになった野菜も「食え」と言って差し出します。私は食べれませんでした。すると旦那は、それにカレールーを加えて「がん克服カレー」にしちゃいました(笑)。これはおいしかったです。

翌日から旦那は、あちこちの書店に行って「がんの本」のコーナーに行き、数冊のがんの本を選んで買って帰りました。そして旦那は電車の中で読み、帰宅してからも夢中で読んでいました。私をなんとしてでも「死なせないため」に知識をつけたいからでした。私が気落ちしないようにと、読んだ知識の「安全な部分」だけを私に話して聞かせます。

書店に並ぶ、がんの本は、ほとんどが患者の心の救いにはなりません。決してがんになられた本人が読むモノではありません。だって、たいていは「正直に書く」あまり、残酷な結末で結ぶモノが多いんです。経験者の方ならわかると思いますが、読むのが怖くなってしまいます。

反面、目障りがよく、希望に結びつけられるモノも多いんです。ここに落とし穴があるんです。

「末期癌を○○で克服!」的なモノは、そのほとんどが眉唾物です。○○の中には、メシマコブだとかイペだとか変な名前の植物が入ります。明らかにそれらが配合された「食品?」の宣伝なんです。中には新聞広告はありますが、実際には書店で売っていない本も多いんです。本当に詐欺っぽいんです。それらは確かに「身体にいい」モノなんですが、末期がんを克服するかと言うと???です。私はお医者さんではないのでわかりませんが、こういった類のモノを、私は許せないのです。

前にも書きましたが、私の母は「気と漢方で治す」という東中野の漢方医を信頼していました。「ある方法」で、がんか否かを判別し、その結果に沿って漢方薬を配合してくれるのです。判別するためのその「方法」は有名な方法で、それを実践する病院は結構たくさんあります。しかし、誰が見ても「陳腐」なモノです。「西洋医学は嘘だ」と否定し、東洋医学のみを肯定します。そういえば西洋医学の中にもK医師のように「がんは下手に切ると増殖して、余命が縮むから手術するな」っていう方もいますね。

東中野の漢方医は母だけでなく父や妹にも「電磁波除け」というお守りを売りました。小さな電子部品の一部のようなモノがちいさなビニール袋に入れられていました。明らかにインチキでしょう?「電磁波でがんになる」という、ここだけ西洋的な屁理屈で、彼はそんなモノを売りつけたのです。誰でも電磁波は全身をシールドしないと意味がないことぐらいはわかるでしょう?母は弱虫でした。当たり前です。誰でもがんだって言われれば、慌てて何かに救いを求めたくなるでしょう。でも母は、「できるだけ痛い思いをしたくない」と、西洋医学から逃げてしまったんです。

旦那は言います。「おまえの命を心配するように、俺は、お義母さんの心配もしてあげればよかったんだ」って。あのとき、適切な処置をしていれば、延命できたのかもしれません。今となってはどうしようもないことです。母の乳がんは初期のものでした。地元の病院で温存手術し、千葉市の病院で放射線を数回かけて治療する計画でした。2回くらい放射線を受けた母は、副作用がひどかった。被爆のようなものだって思ったそうです。母は原発事故と放射線を結びつけて考えるようになったんです。そんなとき、親戚(母の腹違いの姉妹)が「東中野にいい医者がいる」って言ってきたんです。

母は、その言葉に救いを見いだそうと、父とすぐに東中野の治療院に通うようになります。母は真から医師を信頼していました。でもがんは徐々に増殖していたんです。それでも数年は無事?でしたが、次第に動けなくなってしまいます。気がつくと呼吸困難にまでなっていました。

もうひとつ母にとって不幸な出来事がありました。母は地元の市会議員を1期務めたんですが、2期目は落選してしまうんです。おまけに妹が、親戚が住んでいる西葛西で一人暮らしを始めたんです。議員落選の強度の落ち込みと妹の心配が重なって、母はほとんど動けなくなってしまいます。

両親は、東中野の漢方医を紹介した親戚の薦めで、苦労して建てた鎌ヶ谷の家を売却。さらにその親戚に1000万円の購入費を借りて、親戚と妹が住む西葛西に新しくできたマンションを購入して移り住んでしまいました。妹も一人暮らしをやめて、両親と一緒に住むようになります。私たち夫婦は自己破産してお金がなかったので、鎌ヶ谷に残されたようになりました。

今でも思い出すのは、両親が鎌ヶ谷の家まで荷物を取りに帰ってきた日です。ちょうどみぞれが降る寒い日でした。母は40年以上住んだ家の前に立ち、売却してしまったその家を寂しそうに見ていました。私は泣いてしまいました。母はそんな私を見て「なんね?」と優しく言いました。ごめんね。お母さん。

母が西葛西に移り住むと、さらに病気は悪化しました。父のサポートなしでは、ほとんど動けなくなっていました。

そんなある日、父が風邪をひいて凄い熱が出ました。すぐに地元の病院に入院しました。父が入院した翌日、今度は母が倒れてしまいました。父と同じ病院に緊急入院した母の容態は最悪でした。病院に駆けつけた私たちに医師は、「肺全体ががんになっています。いつ亡くなってもおかしくない」と言いました。私たちは唖然としました。でも両親は漢方医の意見を尊重していました。東中野の漢方医は「がんではない。かびですから、引き続き漢方治療すれば治ります」と言ったのです。母の精神的な救いにはなったでしょうね。

母は、酸素吸入器を付けていないと呼吸も満足にできなくなってしまいました。病院は親切に対応してくれましたが、母は入院中「西洋医学の薬は飲まない」と言って、漢方医の薬ばかり飲んでいました。医師や看護婦には嫌われていました。病院にいづらくなった母は、自宅で酸素吸入器を借りて治療をするようになりました。しかしその後、また容態が悪化して、同じ病院に再入院してしまいます。その時、お金を借りた親戚が、苦しむ母の病床までやってきて「貸した1000万円を返してくれ」って言ったんです。私たちは怒りました。

旦那は、「病床までやってきて、お義母さんの精神的負担を増やして死期を早めることになったら犯罪だ。すぐに破産した時の弁護士に相談してみろ」って言います。私と妹は弁護士に相談しました。弁護士はすぐに動いてくれて、親戚と交渉に入りました。すると親戚は自分たちのことを棚に上げて怒りました。「なぜ弁護士まで立てるのか?」と逆に自分たちも弁護士を立ててしまいます。最悪でした。そのうちに母は亡くなってしまいます。

母の葬儀の日、葛西の葬儀場に親戚がやってきました。私たちは口もききませんでした。母の義母(私のおばあちゃん)は、よろよろと母のお棺まで歩み寄り「○子、よかったね。もう苦しまなくてもいいんだ。よかったね」って泣き叫ぶんです。親戚は慌てて止めに入りました。おばあちゃんは可哀相でしたね。でも今更どうしようもないんです。

火葬場には親戚のひとりのご主人だけがやって来ましたが瑞江の火葬場に着くと、もう姿はありませんでした。火葬場では、母はすぐに炉に入れられました。母が焼かれる間、私と旦那は火葬場の外に出て、母の「煙」を見に行きました。でも今は煙がほとんど出ないんですね。それでも私と旦那は煙突に向かって手を合わせました。よく晴れた気持ちのいい日でした。

旦那

2005-02-06 18:48:39 | Weblog
手術後、結構長い時間、私は「痛い痛い」って泣いてばかりいたようです。涙もボロボロです。自分ではまったく覚えていないんです。痛がる私の手を義妹や父がずっと握ってくれていました。旦那は恥ずかしがって手を出せなかったそうです(笑)。

そうこうしている内に私の妹も病院に来てくれました。こいつは私よりも仕事をとっちゃう奴です。義妹には申し訳なくて・・・。 それからも私はずうっと痛がっている。看護婦さんは「まだ痛がってる。痛がりやさんですね」って笑っていたそうです。その日は、意識がきちんと戻るまで、私はずうっと痛がっていました。意識が戻るまで酸素マスクを付けっぱなしだったので、旦那は面白がって携帯電話で私を撮影していました。あのやろう!その写真は「ひどすぎる」ので、ここには掲載できません(笑)。だって、マスクだけでなく、脇の下から流れ出る血やリンパ液を溜める袋と、おしっこを溜めるカテーテルが付きっぱなしなんですよ。おまけに点滴も付いています。全身ホースや袋だらけなんです。

さて、意識が戻ってからは、今度は現実の痛みが私を襲います。本当に痛い。だって、左のおっぱいを全部取っちゃったんですからね!って今は冗談言えますが、そのときは辛かったですよ。だっておっぱいなくなっちゃったんですよ!肉体的な痛みもそうですが、精神的な痛みが私を襲います。これから先、当たり前だけど自分のおっぱい見なくちゃならない。見れます?そして生活していかなくちゃならない。私は怖くて怖くて・・・。あなただったらどうします?やっぱり怖いですよね。そして、肝心の旦那が、それを見た時、あいつはどう反応するか?そりゃ怖い。

実際の痛みですが、おっぱい切った痕よりも、脇の下のリンパ取った痕の方が痛かったですね。おまけに麻酔を入れた後の喉が気持ち悪くて・・・。吐きそうです。その日は結局、立ち上がることができなかったです。

旦那は最後までいてくれて、ナースセンターの看護婦さんに「僕は神田のビジネスホテルに泊まるので何かあったらここに電話してください」とメモを渡して、今夜泊まる神田のビジネスホテルに向かいました。旦那は手術の前の晩と手術の日の2日間、宿泊する予定だったんですが、結局、手術日だけにしたようです。宿泊費高いからねえ。

私は喉が弱くて、翌日になっても、麻酔で喉が気持ち悪くて、吐きそうだと思っていたら、実際に吐いちゃったんですよ。真夜中に・・・。シーツ汚しちゃってね。看護婦さんを呼んだら不機嫌そうな顔してシーツを取り替えてくれるんですがね。私をベッドに寝かせるんじゃなくて、垂直に座らせたまま、放っておいて、ナースセンターに戻っちゃったんです。今考えれば、あの女めっ!(笑)それから一晩中、私は垂直に座ったまま朝を迎えたんです。寝れます? 朝、旦那が病院に来る午前9時頃まで、私はずうっとそのままの姿勢でした(笑)。旦那は、その話を聞いて、大笑いしていました。

手術後

2005-02-06 18:47:43 | Weblog
意識を失った後は、なにも覚えていません。夢を見た記憶もないんです。手術の後は30分ほど、麻酔が覚めるまで手術室で寝かされるそうです。あとで旦那に聞くと、麻酔から覚めて(ほんとは意識が混濁していたようですが)、手術室から戻ってきた私は、搬送ベッドに寝かされたまま、部屋まで運ばれてくると、移動式のレントゲン撮影機での撮影やらなにやらで(旦那が確認できたのはレントゲン撮影だけ、あとはなにをしていたのか説明されなかったそうです。まったく頼りない旦那です)旦那たちは病室から閉め出されて、面会場所で待つように言われたそうです。病室に入れたのはそれから30分ぐらいしてからだったようです。

旦那は「搬送ベッドで運ばれてくる時に、おまえに呼びかけても、まさに苦悶の表情で、痛い痛いと騒ぐだけだった。おまけに凄いスピードで病室に運びこまれたと思ったら、すぐドアを閉められてしまったので、結局、よく見えたのは、おまえの足の裏だけだった。その足は、死体のように血の気がなく真っ青だったので、もしかしたら本当は大変なことになってしまったのでは?と不安だった」と言っていました。

旦那が不安だったのには訳があったんです。

私の手術中、旦那と父と義母と義妹の4人は手術室の外で待っていました。手術が終わった後、担当医と手術医の説明があったということです。
担当医と手術医の2人は、白布がかけられた大きな金属製のバットを持って手術室から出てきました。そして立ったまま、3人は説明を受けたそうです。このとき、義妹は席を外していたそうです。

「手術は成功しました」と担当医は言いました。そしてバットの白布を外しました。バットの中身に旦那たちは驚いたそうです。バットの上には、手術で切り取られた私の左乳房が入っていました。はじめは裏返しになっていて、たくさんの乳腺?や脂肪の塊だったので、「手術によって切り取られたモノに違いないと思ったけど、それがなんであるのかわからなかった」そうです。それにスエタような、嫌な臭いもしたそうです。

かわいそうなのは義母です。いきなりそれを見せられてショックだったようです。少し気分が悪くなったようでした。義妹は、そういったことに弱いので、ちょうど離席していたので助かりました。私も義妹がそれを見て卒倒でもしたら・・・と今になって思います。私が見せられたら多分、気を失うでしょう。

「これががんです」担当医がピンセットで指したそれ(ステージⅡAの大きいほうのがん)は、乳腺(旦那はそう思ったそうです)に沿って黄色い膿んだようなぐちゃぐちゃした塊で、思ったよりも大きかったようです。もう一つの方(9ミリの腫瘍)は、白い星形のぎざぎざした金平糖のような小さな塊だったそうです。小さな塊はメスでまっぷたつに切り割られていました。

それから、担当医はがんについてひとしきり説明した後、「私の肉と脂肪の塊」を裏返しました。裏側は青白い乳首が付いたツクリモノのようだったそうです。
「青白い乳首の周りに切取線のような切り痕があったよ。その塊は、もう死んでいた」と旦那はうつむきながら言いました。おまえが死んでしまったようで、思わず心の中で手を合わせて拝んでしまったそうです。

私は生きているのに、「部分的に死んでいた」のです。旦那が「もしかして」と考えたのは無理もないことです。意識を回復してから2日後に、旦那からこの話を聞いた私は、思わず泣いてしまいました。

手術

2005-02-06 18:46:09 | Weblog
さて、手術の前日の晩、担当医の説明がありました。ほかにも麻酔担当医の説明もあるということでした。

私と旦那と私の父親との3人で説明を聞きました。ところが説明するためのレントゲン写真がないというのです。担当医はあちこちを捜しているようで(こんなことでいいのかな?)、なかなか説明に入れません。そうこうしているうちに写真がやっと見つかって、説明に入りました(大丈夫かな?)。

担当医には「手術は2時間ぐらいで済む。失敗はほとんどないが、何らかの理由で合併症を起こすこともある」と言われました。私の不安は増幅しました。おまけに麻酔担当医は、とうとう来ませんでした。

いよいよ手術当日を迎えました。私は怖くて怖くて眠れませんでした。朝から旦那や義妹に私の父の3人が来てくれているのですが、口を利くのもおっくうで、もうそれどころではないのです。前の日の晩に、旦那と私の父親、妹、それに義母、義妹の5人宛てにノートをちぎった紙に短い手紙を書きました。これまでお世話になったお礼が言いたかったんですけど、恥ずかしくて・・・手紙にしたんです。でも手渡すのが恥ずかしい。意を決して、みんなに手紙を渡しました。義妹に手紙を渡すのが一番恥ずかしかったです。義妹には結構お世話になっているので、足を向けて寝られないくらいでしたからね。

さて、手術の時間になりました。私は手術着に着替え、ベッドに横になりました。手術室に搬送されるのです。エレベータで運ばれるときに、頭から手術キャップをかぶされました。私はもう我慢できなくなって泣き出しました。みっともないことなど考えません。だって、痛いだろうし、麻酔が効くかもわかりませんし、このまま死ぬかもしれないし、第一私の左乳房がなくなってしまうんです。助けてっ!て、私は心の中で叫びました。

私は手術室の前で別な担架に乗せられて手術室の中に移されました。まぶしい光の中で、嫌な機械の音が沢山して、目の前に数人の医師や看護師の方々が見えて・・・そのうちに私の意識はいつに間にか遠ざかっていきました。

セカンドオピニオン

2005-02-06 18:43:25 | Weblog
セカンドオピニオンということで、旦那に秋葉原の病院に連れて行かれた私ですが、実は後悔もありました。飯田橋の病院では、がんだけを切り取って、乳房を残す「温存手術」でいくと言われましたし、担当の医師が「一緒に直していこうね」って優しく言ってくれたのに、他の病院でも検査してもらうということが、飯田橋の先生を裏切ったみたいだったからです。

秋葉原の病院でのエコー検査では、飯田橋の病院と同じ「2.4センチのステージⅡのA」でしたが、驚いたことに、もうひとつの腫瘍(9ミリ)も発見されたのです。こちらは細胞針をしませんでしたから、この時点では悪性か良性かが不明でしたが、「安全のために小さい方も切り取った方がいい。全摘手術しましょう」ということになりました。担当医師には「がんは80~90%は直る」と言われました。

秋葉原の病院の方が「乳腺外科では知名度が高い」ことから、旦那も私の父も秋葉原の病院を選びましたが、肝心の私は「乳房を残したい。なんで全部摘出しなくてはならないのか?」という気持ちが、迷いを増幅させていたんです。

「運命」というのはいつでも「選択」です。どちらかを選択することでその後の運命が決まるのです。決めた以上は、時間は戻らない。どうしようもないんです。今となってはどちらがよかったのかなんてわかりません。今後、それはわかるのだろうと思います。私は勇気を奮い立たせて、「結末」を待ちます。

さて、私は手術のために秋葉原の病院に入院しました。怖かった。だって生まれて初めて手術するんですからね。それに乳房を失うのは嫌だとか、手術の痛みはどうかとか、麻酔はきくんだろうか、いや、もしも手術が失敗したら・・・もう旦那にも父親にも妹にも会えないのかとか、恐怖もありますが、二日後に手術するのに、なんで二日前から入院しなくてはならないの?かとかって。入院から退院までの期間は10日でした。旦那は、一日も欠かさずに私のそばにいてくれました。

私は、あまり人と接したくなかったので、二人部屋を選びました。個室まではちょっとね。11階のその部屋には既に、お年寄りが入っていました。その人は大部屋希望でしたが、あいにく満室で、こちらにまわされたのだそうです。私の部屋は窓際で明るく、冷蔵庫も付いていました。旦那は、「俺のクライアントが、窓の下に見えるビルに入っているんだよ」と言って、はしゃいでいます。でも、実は焦る気持ちを無理して隠しておどけているみたいでした。

病院には結構な数の着替えを持って行きました。まるで旅行です。本当に旅行ならば言うことはないんですがね。それに買い揃えなければならないものが沢山あるんです。タオルとか手術時につかう「T字帯」(ふんどしです)とかいろいろです。

旦那は、毎日、病院に寄ってから会社に行きます。帰りも会社から病院に寄って、面会時間終了まで私についています。ありがたいことですが、私は旦那の身体が心配でした。

入院

2005-02-06 18:40:43 | Weblog
入院日と、全摘手術のスケジュールが決まりましたが、入院まで結構時間が空いています。早く手術して直してもらいたいという気持ちと、なんでこんな小さな「できもの」のために左乳房を全摘しなくてはならないのか?という気持ちが錯綜し、悩みました。

旦那も私が死ぬものだと思い込んで、私のいないところで「俺が悪かったんだ。あいつを助けてくれ」って毎日のように泣いていたそうです。

入院前に旦那と一緒に映画「ゼブラーマン」を見に行きましたが、面白いはずの映画なのに、ちっとも内容が頭に入らなかった。

その頃、家の近くの大手スーパーにパート勤めが決まっていて、毎日、そのための研修をしていました。でも、すぐに研修のチーフに打ち明けることができずにしばらく研修に通いました。毎日が凄く惨めでした。研修に通う時も涙が湧き出てきます。

でも勤めることができないので、入院が近くなってきた日に打ち明けました。するとチーフは「依願退職にしようね」と優しく言ってくれました。でも「依願が胃がん」に聞こえたようで、すぐに訂正されました。私は久しぶりに笑いました。

入院前日、旦那が「切る前に写真を撮ろう」と言いました。私は嫌でしたが、乳房があるときの写真も残しておきたかったので、考えた末に了解しました。旦那は旦那で、私のためにと考えてくれた末のことでした。写真を撮られながら私は泣いてしまいました。旦那も泣いています。

旦那は自分の会社に一ヶ月休みをもらい、といっても旦那の会社は秋葉原にあるので、病院からも通えます。だから実際にはそんなに休んではいません。会社が終わると病院に来て、面会時間ぎりぎりまで病院にいて、千葉まで帰る。翌日は朝一で病院に来る。それから会社に行く。そんな生活でした。旦那を疲れさせてしまったみたいです。

これから入院される方、旦那さんや奥さんを大切に。看病する方が疲れないように調節してあげてくださいね。

乳がん発見!!

2005-02-06 18:38:46 | Weblog
昨年に起こったできごとは、私にとって本当に忘れられないでしょう。

1月、私は船橋の靴屋さんでパート仕事。元旦も仕事でした。

この時期に、左乳房にちくちくとした痛みがありました。すぐに病院に行こうと考えましたが、父が磯鶏ヘルニアで入院したので、父の手術が終わってから、同じ病院で診てもらおうと延期しました。

2月に入って、父の手術も無事終わり、無事退院したので、私は飯田橋にあるその病院の乳腺外科に行き、M先生の診察を受けました。症状を言うと、あれよあれよという間に細胞針検査。エコー。マンモグラフィー検査です。細胞針もマンモも痛かった。辛かったけど、今思えば良かったんです。

検査の結果、乳がんであると言われた日は、2月20日です。

わたしの心に準備もできないうちに、先生は「手術しよう。温存でいくから安心して。で、入院日はいつにしようか?」って言います。

そんなとき、「ひとつの病院だけで診断するのは危険だ」と旦那が言いました。だって、本当にがんでなかったら?不安と望みが半々でした。わたしも旦那も怖くて毎日泣きました。

乳がんの専門で、いい先生が秋葉原のM病院にいると旦那が調べてくれてました。今やセカンドオピニオンは普通です。M先生は快諾してくれて、紹介状まで書いてくれました。2月28日の土曜日、わたしは嫌でしたが、旦那に説得されて、M病院に連絡して診察を受けることになりました。当日は、専門のN先生が休みなので別な外科の先生が診察してくれました。同時にエコー検査も受けました。

飯田橋の病院から細胞針で採取された「私の細胞サンプル」を貸してもらって、M病院でもその細胞サンプルを検査してもらいました。

数日して、M病院のN先生に初めて診察を受けました。

期待に反して、やはり乳がんでした。しかもエコー検査では、さらにもうひとつの腫瘍が見つかりました。「こちらは悪性かどうかは切ってみないとわからないが、乳房は全摘するのが賢明でしょう」と先生は言いました。

飯田橋の病院のM先生にお詫びし、秋葉原のM病院で全摘手術を受けることになるのは、それから一ヵ月後のことでした。

乳腺膿腫

2005-02-06 18:30:15 | Weblog
まず、私が乳がんだとわかる以前のことから始めましょう。

あれは、旦那と結婚してすぐのことです。10年以上も前のことです。左乳房に「違和感」を感じたので、ちょっと迷ったんですが、意を決して、当時住んでいた神奈川県相模原の大きな病院で診察を受けました。よく覚えていませんが、そこで私は「乳腺膿腫」と言われ、乳腺を少し手術で切りました。この時も怖かった。この時は旦那は忙しいのと無関心・・・で、あまり心配してくれませんでした。この時の旦那も今考えると・・・ねえ。

手術(そんなに大げさなものではありませんがね)当日、相模原の病院に行くと、母が一人で千葉から来てくれていました。私は驚きました。だって、母はあまり一人では出歩かないんです。こんなに遠くまでって、ありがたく思いました。少し前に母に知らせた時には「来る」って言わなかったので、私一人では心配だったんです。嬉しかった。

病名を告げられて「乳がん」じゃなかったって母は喜んでくれました。私もほっとしましたよ。でもね、本当は、この時から乳がんは根付いていたんです。だって、私のがんは「10年モノ(実はそれ以上経過している)」って、飯田橋の医師も秋葉原の医師も言いましたからね。あの時の「違和感」は実は乳がんだったんじゃないかと?思うんです。今となっては、相模原の病院を恨むわけじゃないですが、ちょっとね・・・。「がんじゃなくてよかった」って言った、あの時の嬉しそうな母の顔が今でも忘れられません。ごめんね、お母さん。

母は、それから9年後、自分が乳がんになって、さらにがんは肺に転移して死んでしまいます。母が乳がん告知された時に私がしっかりしていれば・・・「インチキな気」や漢方薬で母をだました「東中野の漢方医」から救えたのに・・・死なさずに済んだのに・・・と、今でも後悔して泣いちゃいます。

旦那は「気や漢方だけで治るわけがない」って、母や父や妹を説得してくれたんですが、母は前にも書いたように放射線や抗がん剤が嫌だって言うことをきいてくれなかった。「ちゃんとした医者に見せた方がいい」という旦那に「西洋医学は嘘だ」と言って相手にしてくれなかったんです。でも、母がああ言ったのも無理はないです。私も放射線や抗がん剤って聞いただけで怖い。

実は旦那の従兄妹も母が亡くなる2年前に「血液のがん」である白血病で亡くなっています。この従兄妹の父親が「東中野の漢方医」にかぶれて従兄妹を診てもらおうと、診察の順番を待っていたんですが、当時、この漢方医はなかなかの人気で、旦那の従兄妹は診察される前に亡くなってしまったのでした。

母が亡くなる前日の深夜に、母は「東中野の先生に電話して」って苦しそうに言います。母は呼吸困難で酸素吸入器を付けているのですが、それでも息苦しいらしくて、携帯電話で東中野の先生に電話して楽にして欲しいと言うのです。電話をすると、夜中なので、なかなか先生は出てきませんでしたが、やっと出てくるなり「電話の向こうから気を送る」って言ったんです。

母は気を送っているはずの、その携帯電話を持って祈るようにしていましたが、効き目がなかったのか、とうとう「もういい」と言って電話を私に渡します。「東中野の漢方医」につながっているのかどうかも知りたくもありませんでした。私の妹が電話が切れているのを確認して電話を置きました。母は変わらず苦しんでいます。

母が死んだのは翌日の朝でした。

だから私はこの「東中野の漢方医」が憎い。本当に憎くてたまらない。でも、今に必ず罰が当たるでしょう。運命というのはそういうものです