生子のがん退治

47歳。昨年乳がん左乳房全摘手術と胆嚢全摘手術を連続でやっちまったの。がんなんかにゃ負けねえぞっ!!

乳腺膿腫

2005-02-06 18:30:15 | Weblog
まず、私が乳がんだとわかる以前のことから始めましょう。

あれは、旦那と結婚してすぐのことです。10年以上も前のことです。左乳房に「違和感」を感じたので、ちょっと迷ったんですが、意を決して、当時住んでいた神奈川県相模原の大きな病院で診察を受けました。よく覚えていませんが、そこで私は「乳腺膿腫」と言われ、乳腺を少し手術で切りました。この時も怖かった。この時は旦那は忙しいのと無関心・・・で、あまり心配してくれませんでした。この時の旦那も今考えると・・・ねえ。

手術(そんなに大げさなものではありませんがね)当日、相模原の病院に行くと、母が一人で千葉から来てくれていました。私は驚きました。だって、母はあまり一人では出歩かないんです。こんなに遠くまでって、ありがたく思いました。少し前に母に知らせた時には「来る」って言わなかったので、私一人では心配だったんです。嬉しかった。

病名を告げられて「乳がん」じゃなかったって母は喜んでくれました。私もほっとしましたよ。でもね、本当は、この時から乳がんは根付いていたんです。だって、私のがんは「10年モノ(実はそれ以上経過している)」って、飯田橋の医師も秋葉原の医師も言いましたからね。あの時の「違和感」は実は乳がんだったんじゃないかと?思うんです。今となっては、相模原の病院を恨むわけじゃないですが、ちょっとね・・・。「がんじゃなくてよかった」って言った、あの時の嬉しそうな母の顔が今でも忘れられません。ごめんね、お母さん。

母は、それから9年後、自分が乳がんになって、さらにがんは肺に転移して死んでしまいます。母が乳がん告知された時に私がしっかりしていれば・・・「インチキな気」や漢方薬で母をだました「東中野の漢方医」から救えたのに・・・死なさずに済んだのに・・・と、今でも後悔して泣いちゃいます。

旦那は「気や漢方だけで治るわけがない」って、母や父や妹を説得してくれたんですが、母は前にも書いたように放射線や抗がん剤が嫌だって言うことをきいてくれなかった。「ちゃんとした医者に見せた方がいい」という旦那に「西洋医学は嘘だ」と言って相手にしてくれなかったんです。でも、母がああ言ったのも無理はないです。私も放射線や抗がん剤って聞いただけで怖い。

実は旦那の従兄妹も母が亡くなる2年前に「血液のがん」である白血病で亡くなっています。この従兄妹の父親が「東中野の漢方医」にかぶれて従兄妹を診てもらおうと、診察の順番を待っていたんですが、当時、この漢方医はなかなかの人気で、旦那の従兄妹は診察される前に亡くなってしまったのでした。

母が亡くなる前日の深夜に、母は「東中野の先生に電話して」って苦しそうに言います。母は呼吸困難で酸素吸入器を付けているのですが、それでも息苦しいらしくて、携帯電話で東中野の先生に電話して楽にして欲しいと言うのです。電話をすると、夜中なので、なかなか先生は出てきませんでしたが、やっと出てくるなり「電話の向こうから気を送る」って言ったんです。

母は気を送っているはずの、その携帯電話を持って祈るようにしていましたが、効き目がなかったのか、とうとう「もういい」と言って電話を私に渡します。「東中野の漢方医」につながっているのかどうかも知りたくもありませんでした。私の妹が電話が切れているのを確認して電話を置きました。母は変わらず苦しんでいます。

母が死んだのは翌日の朝でした。

だから私はこの「東中野の漢方医」が憎い。本当に憎くてたまらない。でも、今に必ず罰が当たるでしょう。運命というのはそういうものです