生子のがん退治

47歳。昨年乳がん左乳房全摘手術と胆嚢全摘手術を連続でやっちまったの。がんなんかにゃ負けねえぞっ!!

宮田美乃里さんへ・・・

2005-04-07 00:59:04 | Weblog
araki

「乳房、花なり。」宮田美乃里/荒木経惟 共著 
ワイズ出版 ISBN4-89830-175-4 3800円

乳がんになって・・・私は怖くなった
だって、がんって・・・死ぬんでしょ?
私が死んだら旦那とお別れでしょ?
私が死んだら父とも妹とももう会えないんでしょ?
義母や義妹や大勢のいとこたちとも・・・もう会えないんでしょ?
あまりの怖さに我慢できなくてその場で泣いてしまった

乳がんになったから左のおっぱいを取るんだって
旦那はおっぱい取る前に写真撮ろうって・・・
最初は嫌だって私は泣いたけど・・・やっぱり撮ってもらった
おっぱいあるうちに・・・両方のおっぱいあるうちに・・・
写真撮ってるうちに旦那が泣き出した
私だって我慢してるのに旦那が泣き出した
だったら私も泣いてもいい?
気がついたら二人抱き合って泣いていた

araki2
宮田美乃里:女流歌人
1970年、静岡県に生まれる大学では心理学を専攻
在学中、卒業後、フラメンコダンサーとしてイベント等で活躍
31歳で乳がん告知を受ける、32歳左乳房全摘手術
2005年3月28日逝去
戒名は純香院妙美信女

「宮田さんへ」

旦那が今日あなたの写真集・歌集を買ってきました。
荒木さんの写真と宮田さんの歌の融合。

「乳がんで乳房を切った女たち夜風に揺れる野の花となれ」 宮田美乃里

宮田さん、きれいですね。凄く美しいです。
「さすが荒木さん・・・」って旦那が言います。
でもね宮田さん・・・。私には、あなたの胸の傷痕を正視することができません。
だって・・・私自身の運命を感じてしまうから・・・。
私自身の残された時間を呪ってしまうから・・・。

「片乳房なくしたけれどこの傷はわたしの誇りわたしの証」 宮田美乃里

悲しい運命の糸があなたをがんじがらめに縛ります。
どうやっても逃げ切れぬ非情な時間はあなたを苦しめます。
人はいつか死ぬものです。
でも、できるだけ長く生きたい。生きて・・・恋をしたかったでしょう。
苦しんでもいい・・・少しでも長く生きて多くの人に会いたかったでしょう。
できる限り生きて人と話したかったでしょう。

「葬儀では私を棄てたあの人がくちづけをして起こしてくれる」 宮田美乃里

宮田さん・・・神だか何モノかに無理やり定められた時間と運命は、無限に消えないものです。
あなたは今頃、また1970年に生まれて・・・同じ道をたどるはずです。
それは誰でも同じです。
31歳でがんになったら、前世を思い出して違う道を選択するだけであなたは長生きできるはずです。

宮田さんのご冥福をお祈りいたします・・・。

歌人・宮田美乃里さんのこと

2005-04-02 17:41:21 | Weblog
 旦那は昔から写真好きで、特にアラーキーこと荒木経惟さんのファンです。旦那が20代のころ、当時平凡パンチに連載されていた「アラーキー写真塾」に投稿していて、そこの常連さんたちとアラーキーさんとの写真合宿なるものに参加したそうです。その模様が掲載された同雑誌も、当時投稿して掲載された写真(旦那が当時同棲していた従兄妹とのモノ)も見ましたが、「?」って感じです(笑)。凄い写真です。人には見せられないです。

 先日、朝のワイドショーを見ていたら、そのアラーキーさんがVTRで出ていました。番組内の「歌人・宮田美乃里 壮絶がん死」というタイトルのコーナーでした。

 宮田さん? 私の知らない方でしたが、3月28日にお亡くなりになったそうです。 

 私と同じ左乳房全摘手術を受け、その後「抗がん剤治療」を受けられていたそうですが・・・残念です。人事とは思えません。その彼女を荒木さんが撮影されていたのだそうです。

 私と違って大変美しい方で、荒木さんが彼女を撮影した写真も凄くきれいです。ただ、彼女の左乳房全摘手術の痕を見ると・・・私も胸が痛みます。

 「がんでお亡くなりになる」方が増えると「次は私か?」なんて思ってしまいます。「がん細胞なんかにゃ負けねえぞっ!」っていきがっていますが、結構・・・弱いからな・・・。

 宮田美乃里さんのご冥福をお祈りいたします。宮田さんを紹介するブログ(当ブログ・ブックマーク参照)を管理されている典子(のい)さん、本当にご苦労様でした。 

乳腺内分泌外来説明記録

2005-03-26 17:31:30 | Weblog
乳がんのセカンドオピニオンとして私たちが選んだのは秋葉原にある病院でした。ここには今でも月に1回、ホルモン治療のために通っています。

ここの病院を信じることができたのは、毎回「乳腺内分泌外来説明記録」っていうものをくれることでした。これは主治医が患者に説明する時に使うもので、複写式になっていて、直筆の方を診察後にくれるんです。写真が実物です。何かあればこれが証拠になりますよね?だから安心しました。

1回目はエコー検査でした。がん細胞やカルテなどは、前の病院から許可を得て借りました。その資料とエコー写真を見て診断してくれるのです。再度マンモや細胞針をすることはありませんでした。

1週間後の2回目の診察では、主治医が「乳腺内分泌外来説明記録」に記入しながら説明してくれます。既に印刷してある胸部の絵に「ここに24ミリのがんがあり、ここにも6ミリくらいの小さな腫瘍があるんです」と言いながら、腫瘍の位置を記入していきます。「大きな方はクラス5の乳がんに間違いありません。これはⅡ期のもので、80~90%治ります」って言われて嬉しかった。でも、喜んだのもつかの間のことで「小さな腫瘍は、細胞針をしていませんが、生子さんは多発性がんだと思われます。念のために左の乳房は全摘した方がいいでしょう」と言われて私は目の前が真っ暗になりました。

最初の病院では腫瘍は1個だけの発見だったので「温存手術でいきましょう」って言われたのに・・・って。「本当に“がん”なのかを知りたかっただけなのに、最悪の結果になってしまった」って泣いちゃいましたよ。先生は「すぐに手術のために入院日を決めましょう」って言います。私は「最初の病院の温存手術」の方を選びたかったのに、旦那と私の父が「先生、全摘でやってください」って、あっという間に「全摘手術入院」を決めちゃったんです。

しかし、運命ってのは、いつも「どちらかを選ぶ」ってことで、その先が決まっちゃうんです。私の場合の「その先」は、「全摘手術」を選んだことでどういった結果が出るのでしょうかね。

話が逸れましたね。「乳腺内分泌外来説明記録」のことでした。手術終了までに全部で4枚の記録紙をもらいました。3枚目までが「手術前の診察記録」。4枚目は「手術で取ったがんについての記録と治療法」です。

3枚目は手術前日に行われた手術説明についての記録です。3枚目には「乳がん診察のおさらいと手術方法」が書いてあります。乳がんに気づいたのはいつか、がんの大きさ、腫瘍は良性か悪性か、病期について、肝臓、肺、骨には転移がないことなどが書いてあります。

怖かったのは、手術しても「10%~30%再発の可能性がある」って言われたことです。さらに手術中の「合併症」についての説明が怖かった。「今回の手術で輸血することはないが、万が一輸血した場合の“血液感染”、術後、傷口からの“後出血”、リンパも一部取って検査するので、術後の“リンパ管炎”などの可能性がある」と言われたことです。これらは全部「乳腺内分泌外来説明記録」に記録されています。

術後のことも「全摘手術後の細胞の性格によって、その後の治療法も変わってきます。放射線の照射ということもあるし、ホルモン療法で済む場合もあるし、抗がん剤治療の場合もあります」と言われ・・・怖かった。「抗がん剤」って聞いただけで怖い怖い。足がガクガク震えちゃった。私の母は「放射線」と「抗がん剤」を拒否し続けて亡くなったので、思いは複雑でした。

手術後の4枚目は、がん細胞の大きさと性格についての説明です。24ミリの方は、取ってみたら32ミリあったそうです。6ミリの方は「葉状腫瘍」っていって、悪性のものではなかったそうです。脇の下のリンパ節も5個取って検査したら「転移なし」。がん細胞の性格は「ホルモン受容体は陽性で、グレードは3まであるが、あなたの場合は1、ハーツーも0から3まであって、あなたの場合は1だったので、がんを作る女性ホルモンを抑制するためにホルモン療法を行います。ホルモン治療にはリュープリンとタモキシフェンを使用します」と言うことでした。

なんだかよくわからなかったんですが、「重度ではない」と理解しました。だって、「85%から90%治る」って言うんですもん。

「乳腺内分泌外来説明記録」を改めて見ると、「小さながんも悪性」って書かれていたのに、術後には「葉状腫瘍」って書いてある。悪性じゃなかったのかね? ほんじゃあ全摘手術しなくてもよかったのでは・・・? ま、いいや。気にしない。気にしない。全摘手術を選んだのは旦那や親父・・・うんにゃ、最終的に私が決めたんだからさ。

私はダメだったけど、乳がんだと診断されて迷っている皆さん!! お医者さんに嫌われても構わないから、食い下がって、自分が納得するまで聞いたほうがいいですよ。そして・・・決して後悔してはいけませんよ。


乳がんの本です

2005-03-26 17:26:56 | Weblog
写真は、別冊NHKきょうの健康「乳がん」(日本放送出版協会)です。乳がんの本はいろいろありますが、最近出たこの本が一番わかりやすいですね。

私が乳がんと告知された時に、不安になった旦那が買ってきた本はどれもが“はっきりと書いてある”ことで「死の匂い」がして、とても怖くて読めませんでしたが、この本は安心して読めるものです。私大推薦です!!

私、昼間は船橋のデパートで働いています。乳がん手術して、現在も治療中だってことをついこの間まで、職場の誰にも言いませんでした。だって、「がん」ってイメージ悪いじゃないですか? 「がん」って言えば誰もが「死」をイメージするでしょ? 私だってこうなる前までは、がん患者だった母の苦しみや動けない姿を目の当たりにしているので、乳がんと告知された時には「自分の死」を考えましたよ。それに・・・片方のおっぱいがなくなるんですよ。いくら年をとってても悲しいでしょ? 今じゃちょっとだけ平気ですけどね(笑)。

「がん」だって誰かに言えば「あの人はすぐに死んじゃうんだ」って言われると思ってね・・・。隠すようなことじゃないと思いますよ。だって、そんなこと言うと、私と同様の方々に申し訳ないし・・・。でも誰も聞かないしね。服着ていれば外見は普通だからね。

でもね、やっぱり片方を取っちゃってるから動きは変ですよ。自分で思うだけかな? 人口更年期障害で、関節が痛むのでロボットみたいに「ガシャッガシャッ」ってな感じで動くしね。

職場では、初めは心配でした。左乳房を摘出して「バランスがとれない」ので、ずっと立ちっぱなしの仕事はかなり辛いだろうと思っていたんです。結果は「かなり辛い」です。やっぱり立ちっぱなしの仕事はね。でもね、何も障害がない身体でも立ちっぱなしの仕事は辛いようです。それを克服しようとしてる自分を褒めてあげたいです。

職場の親しい人だけには話したんです。ブログも読んでくれているようです。いつもありがとう。もう平気になっちゃったよ。

あ、そうそう。以前、旦那が職場に来た時に、偶然うちの旦那を見た人が「椎名桔平」に似てるって言うんですよ。ちらっと見ただけでね。ぶはははっ!

それを旦那に伝えると「あ、俺もそうだと思ってたよ。でも似てるのに似てねえっ!って言われると傷つくから、今まで似てるの黙っていたんだ」だってえ!ばっかだねえ!!あいつ。


ホルモン治療

2005-03-26 17:19:44 | Weblog
乳がんの手術後、辛いのは「ホルモン治療」です。といっても、月に一度のリュープリン注射と毎日、タモキシフェンの錠剤を飲むだけです。これを3年間は続けなければならないようです。辛いのは、ホルモン剤の「副作用」と、高額な治療費です。旦那には申し訳ないのですが、月に2万円の治療費がかかってしまいます。でも、抗がん剤の投与を行っている方なら「もっと辛い副作用と高額な治療費」が負担になってしまってるに違いありません。私のは「軽い方」なのです。

ホルモン治療は、女性ホルモンを抑えるためにホルモン剤の投与を行うのですが、それは薬で「人工的に閉経」させてしまうことです。その弊害は「更年期障害」と同じ状態になることです。体中の関節が変形? して凄く痛みます。治療を始めて3ヶ月ぐらいはなんともなかったのですが、胆嚢手術を終えた辺りから乳がん手術を行った方の左肩が凄く痛むようになりました。

今では関節が外れる感じがします。いつも肩を動かしていないと「外れて痛む」ような気がします。それでも治療は続けなければなりません。ホルモン治療を行っていると同時に気をつけなければならないのが「子宮がん」です。ホルモン剤によって子宮がんになる確立が高まるそうです。

私はもともと「子宮筋腫」で、年に一度は検査してもらっています。ですから、乳がんの再発も怖いし子宮がんになるのも怖いのです。ひとつ病気になると連鎖してどこかが悪くなるようです。

それに乳がん手術の後に「リハビリ」が大切なのですが、私はそれを怠ってしまったのです。おっぱいを取った痕からリンパを取った痕までがひどく痛くて左手が上げられなかったので、「痛い痛い」って言って、リハビリをサボったのです。リハビリを怠ったせい(だと思います)で、結局は「五十肩」になってしまったし、体中の関節が痛みます。

今からリハビリをしようにも、あまり肩や手を動かせないので・・・困ったことです。おまけに「太って」きました。本当に困ったことです。昨日、ホルモン注射のため、旦那と一緒に秋葉原の病院に行きました。実は、旦那は今でも病院に一緒に来てくれたりするのです。本当に私は困ったちゃんです。


旦那と母

2005-02-06 18:55:58 | Weblog
私が乳がんになってから、旦那は人が変わったように私に尽くしてくれました。彼はそれまでの悪業を断ち切るようにまともになりました(今は、また元通りですが・・・)。

私が乳がんの宣告を受けたその日のこと、旦那は、帰るとすぐに台所へ直行し、冷蔵庫にあった野菜を全部鍋に放りいれて煮込みはじめました。そしてある程度まで煮詰めてできたスープを私に「飲め」といって渡します。彼の言うところの「がん克服スープ」です。今思えばかえって病気が悪くなるような配合?でした。だって、じゃがいも、人参、タマネギ、ブロッコリーにほうれん草をひととおり洗っただけで皮付きのまま煮込んだモノなんです。でもその時は、なぜか「効きそう」な気がしました。煮詰めてどろどろになった野菜も「食え」と言って差し出します。私は食べれませんでした。すると旦那は、それにカレールーを加えて「がん克服カレー」にしちゃいました(笑)。これはおいしかったです。

翌日から旦那は、あちこちの書店に行って「がんの本」のコーナーに行き、数冊のがんの本を選んで買って帰りました。そして旦那は電車の中で読み、帰宅してからも夢中で読んでいました。私をなんとしてでも「死なせないため」に知識をつけたいからでした。私が気落ちしないようにと、読んだ知識の「安全な部分」だけを私に話して聞かせます。

書店に並ぶ、がんの本は、ほとんどが患者の心の救いにはなりません。決してがんになられた本人が読むモノではありません。だって、たいていは「正直に書く」あまり、残酷な結末で結ぶモノが多いんです。経験者の方ならわかると思いますが、読むのが怖くなってしまいます。

反面、目障りがよく、希望に結びつけられるモノも多いんです。ここに落とし穴があるんです。

「末期癌を○○で克服!」的なモノは、そのほとんどが眉唾物です。○○の中には、メシマコブだとかイペだとか変な名前の植物が入ります。明らかにそれらが配合された「食品?」の宣伝なんです。中には新聞広告はありますが、実際には書店で売っていない本も多いんです。本当に詐欺っぽいんです。それらは確かに「身体にいい」モノなんですが、末期がんを克服するかと言うと???です。私はお医者さんではないのでわかりませんが、こういった類のモノを、私は許せないのです。

前にも書きましたが、私の母は「気と漢方で治す」という東中野の漢方医を信頼していました。「ある方法」で、がんか否かを判別し、その結果に沿って漢方薬を配合してくれるのです。判別するためのその「方法」は有名な方法で、それを実践する病院は結構たくさんあります。しかし、誰が見ても「陳腐」なモノです。「西洋医学は嘘だ」と否定し、東洋医学のみを肯定します。そういえば西洋医学の中にもK医師のように「がんは下手に切ると増殖して、余命が縮むから手術するな」っていう方もいますね。

東中野の漢方医は母だけでなく父や妹にも「電磁波除け」というお守りを売りました。小さな電子部品の一部のようなモノがちいさなビニール袋に入れられていました。明らかにインチキでしょう?「電磁波でがんになる」という、ここだけ西洋的な屁理屈で、彼はそんなモノを売りつけたのです。誰でも電磁波は全身をシールドしないと意味がないことぐらいはわかるでしょう?母は弱虫でした。当たり前です。誰でもがんだって言われれば、慌てて何かに救いを求めたくなるでしょう。でも母は、「できるだけ痛い思いをしたくない」と、西洋医学から逃げてしまったんです。

旦那は言います。「おまえの命を心配するように、俺は、お義母さんの心配もしてあげればよかったんだ」って。あのとき、適切な処置をしていれば、延命できたのかもしれません。今となってはどうしようもないことです。母の乳がんは初期のものでした。地元の病院で温存手術し、千葉市の病院で放射線を数回かけて治療する計画でした。2回くらい放射線を受けた母は、副作用がひどかった。被爆のようなものだって思ったそうです。母は原発事故と放射線を結びつけて考えるようになったんです。そんなとき、親戚(母の腹違いの姉妹)が「東中野にいい医者がいる」って言ってきたんです。

母は、その言葉に救いを見いだそうと、父とすぐに東中野の治療院に通うようになります。母は真から医師を信頼していました。でもがんは徐々に増殖していたんです。それでも数年は無事?でしたが、次第に動けなくなってしまいます。気がつくと呼吸困難にまでなっていました。

もうひとつ母にとって不幸な出来事がありました。母は地元の市会議員を1期務めたんですが、2期目は落選してしまうんです。おまけに妹が、親戚が住んでいる西葛西で一人暮らしを始めたんです。議員落選の強度の落ち込みと妹の心配が重なって、母はほとんど動けなくなってしまいます。

両親は、東中野の漢方医を紹介した親戚の薦めで、苦労して建てた鎌ヶ谷の家を売却。さらにその親戚に1000万円の購入費を借りて、親戚と妹が住む西葛西に新しくできたマンションを購入して移り住んでしまいました。妹も一人暮らしをやめて、両親と一緒に住むようになります。私たち夫婦は自己破産してお金がなかったので、鎌ヶ谷に残されたようになりました。

今でも思い出すのは、両親が鎌ヶ谷の家まで荷物を取りに帰ってきた日です。ちょうどみぞれが降る寒い日でした。母は40年以上住んだ家の前に立ち、売却してしまったその家を寂しそうに見ていました。私は泣いてしまいました。母はそんな私を見て「なんね?」と優しく言いました。ごめんね。お母さん。

母が西葛西に移り住むと、さらに病気は悪化しました。父のサポートなしでは、ほとんど動けなくなっていました。

そんなある日、父が風邪をひいて凄い熱が出ました。すぐに地元の病院に入院しました。父が入院した翌日、今度は母が倒れてしまいました。父と同じ病院に緊急入院した母の容態は最悪でした。病院に駆けつけた私たちに医師は、「肺全体ががんになっています。いつ亡くなってもおかしくない」と言いました。私たちは唖然としました。でも両親は漢方医の意見を尊重していました。東中野の漢方医は「がんではない。かびですから、引き続き漢方治療すれば治ります」と言ったのです。母の精神的な救いにはなったでしょうね。

母は、酸素吸入器を付けていないと呼吸も満足にできなくなってしまいました。病院は親切に対応してくれましたが、母は入院中「西洋医学の薬は飲まない」と言って、漢方医の薬ばかり飲んでいました。医師や看護婦には嫌われていました。病院にいづらくなった母は、自宅で酸素吸入器を借りて治療をするようになりました。しかしその後、また容態が悪化して、同じ病院に再入院してしまいます。その時、お金を借りた親戚が、苦しむ母の病床までやってきて「貸した1000万円を返してくれ」って言ったんです。私たちは怒りました。

旦那は、「病床までやってきて、お義母さんの精神的負担を増やして死期を早めることになったら犯罪だ。すぐに破産した時の弁護士に相談してみろ」って言います。私と妹は弁護士に相談しました。弁護士はすぐに動いてくれて、親戚と交渉に入りました。すると親戚は自分たちのことを棚に上げて怒りました。「なぜ弁護士まで立てるのか?」と逆に自分たちも弁護士を立ててしまいます。最悪でした。そのうちに母は亡くなってしまいます。

母の葬儀の日、葛西の葬儀場に親戚がやってきました。私たちは口もききませんでした。母の義母(私のおばあちゃん)は、よろよろと母のお棺まで歩み寄り「○子、よかったね。もう苦しまなくてもいいんだ。よかったね」って泣き叫ぶんです。親戚は慌てて止めに入りました。おばあちゃんは可哀相でしたね。でも今更どうしようもないんです。

火葬場には親戚のひとりのご主人だけがやって来ましたが瑞江の火葬場に着くと、もう姿はありませんでした。火葬場では、母はすぐに炉に入れられました。母が焼かれる間、私と旦那は火葬場の外に出て、母の「煙」を見に行きました。でも今は煙がほとんど出ないんですね。それでも私と旦那は煙突に向かって手を合わせました。よく晴れた気持ちのいい日でした。

旦那

2005-02-06 18:48:39 | Weblog
手術後、結構長い時間、私は「痛い痛い」って泣いてばかりいたようです。涙もボロボロです。自分ではまったく覚えていないんです。痛がる私の手を義妹や父がずっと握ってくれていました。旦那は恥ずかしがって手を出せなかったそうです(笑)。

そうこうしている内に私の妹も病院に来てくれました。こいつは私よりも仕事をとっちゃう奴です。義妹には申し訳なくて・・・。 それからも私はずうっと痛がっている。看護婦さんは「まだ痛がってる。痛がりやさんですね」って笑っていたそうです。その日は、意識がきちんと戻るまで、私はずうっと痛がっていました。意識が戻るまで酸素マスクを付けっぱなしだったので、旦那は面白がって携帯電話で私を撮影していました。あのやろう!その写真は「ひどすぎる」ので、ここには掲載できません(笑)。だって、マスクだけでなく、脇の下から流れ出る血やリンパ液を溜める袋と、おしっこを溜めるカテーテルが付きっぱなしなんですよ。おまけに点滴も付いています。全身ホースや袋だらけなんです。

さて、意識が戻ってからは、今度は現実の痛みが私を襲います。本当に痛い。だって、左のおっぱいを全部取っちゃったんですからね!って今は冗談言えますが、そのときは辛かったですよ。だっておっぱいなくなっちゃったんですよ!肉体的な痛みもそうですが、精神的な痛みが私を襲います。これから先、当たり前だけど自分のおっぱい見なくちゃならない。見れます?そして生活していかなくちゃならない。私は怖くて怖くて・・・。あなただったらどうします?やっぱり怖いですよね。そして、肝心の旦那が、それを見た時、あいつはどう反応するか?そりゃ怖い。

実際の痛みですが、おっぱい切った痕よりも、脇の下のリンパ取った痕の方が痛かったですね。おまけに麻酔を入れた後の喉が気持ち悪くて・・・。吐きそうです。その日は結局、立ち上がることができなかったです。

旦那は最後までいてくれて、ナースセンターの看護婦さんに「僕は神田のビジネスホテルに泊まるので何かあったらここに電話してください」とメモを渡して、今夜泊まる神田のビジネスホテルに向かいました。旦那は手術の前の晩と手術の日の2日間、宿泊する予定だったんですが、結局、手術日だけにしたようです。宿泊費高いからねえ。

私は喉が弱くて、翌日になっても、麻酔で喉が気持ち悪くて、吐きそうだと思っていたら、実際に吐いちゃったんですよ。真夜中に・・・。シーツ汚しちゃってね。看護婦さんを呼んだら不機嫌そうな顔してシーツを取り替えてくれるんですがね。私をベッドに寝かせるんじゃなくて、垂直に座らせたまま、放っておいて、ナースセンターに戻っちゃったんです。今考えれば、あの女めっ!(笑)それから一晩中、私は垂直に座ったまま朝を迎えたんです。寝れます? 朝、旦那が病院に来る午前9時頃まで、私はずうっとそのままの姿勢でした(笑)。旦那は、その話を聞いて、大笑いしていました。

手術後

2005-02-06 18:47:43 | Weblog
意識を失った後は、なにも覚えていません。夢を見た記憶もないんです。手術の後は30分ほど、麻酔が覚めるまで手術室で寝かされるそうです。あとで旦那に聞くと、麻酔から覚めて(ほんとは意識が混濁していたようですが)、手術室から戻ってきた私は、搬送ベッドに寝かされたまま、部屋まで運ばれてくると、移動式のレントゲン撮影機での撮影やらなにやらで(旦那が確認できたのはレントゲン撮影だけ、あとはなにをしていたのか説明されなかったそうです。まったく頼りない旦那です)旦那たちは病室から閉め出されて、面会場所で待つように言われたそうです。病室に入れたのはそれから30分ぐらいしてからだったようです。

旦那は「搬送ベッドで運ばれてくる時に、おまえに呼びかけても、まさに苦悶の表情で、痛い痛いと騒ぐだけだった。おまけに凄いスピードで病室に運びこまれたと思ったら、すぐドアを閉められてしまったので、結局、よく見えたのは、おまえの足の裏だけだった。その足は、死体のように血の気がなく真っ青だったので、もしかしたら本当は大変なことになってしまったのでは?と不安だった」と言っていました。

旦那が不安だったのには訳があったんです。

私の手術中、旦那と父と義母と義妹の4人は手術室の外で待っていました。手術が終わった後、担当医と手術医の説明があったということです。
担当医と手術医の2人は、白布がかけられた大きな金属製のバットを持って手術室から出てきました。そして立ったまま、3人は説明を受けたそうです。このとき、義妹は席を外していたそうです。

「手術は成功しました」と担当医は言いました。そしてバットの白布を外しました。バットの中身に旦那たちは驚いたそうです。バットの上には、手術で切り取られた私の左乳房が入っていました。はじめは裏返しになっていて、たくさんの乳腺?や脂肪の塊だったので、「手術によって切り取られたモノに違いないと思ったけど、それがなんであるのかわからなかった」そうです。それにスエタような、嫌な臭いもしたそうです。

かわいそうなのは義母です。いきなりそれを見せられてショックだったようです。少し気分が悪くなったようでした。義妹は、そういったことに弱いので、ちょうど離席していたので助かりました。私も義妹がそれを見て卒倒でもしたら・・・と今になって思います。私が見せられたら多分、気を失うでしょう。

「これががんです」担当医がピンセットで指したそれ(ステージⅡAの大きいほうのがん)は、乳腺(旦那はそう思ったそうです)に沿って黄色い膿んだようなぐちゃぐちゃした塊で、思ったよりも大きかったようです。もう一つの方(9ミリの腫瘍)は、白い星形のぎざぎざした金平糖のような小さな塊だったそうです。小さな塊はメスでまっぷたつに切り割られていました。

それから、担当医はがんについてひとしきり説明した後、「私の肉と脂肪の塊」を裏返しました。裏側は青白い乳首が付いたツクリモノのようだったそうです。
「青白い乳首の周りに切取線のような切り痕があったよ。その塊は、もう死んでいた」と旦那はうつむきながら言いました。おまえが死んでしまったようで、思わず心の中で手を合わせて拝んでしまったそうです。

私は生きているのに、「部分的に死んでいた」のです。旦那が「もしかして」と考えたのは無理もないことです。意識を回復してから2日後に、旦那からこの話を聞いた私は、思わず泣いてしまいました。

手術

2005-02-06 18:46:09 | Weblog
さて、手術の前日の晩、担当医の説明がありました。ほかにも麻酔担当医の説明もあるということでした。

私と旦那と私の父親との3人で説明を聞きました。ところが説明するためのレントゲン写真がないというのです。担当医はあちこちを捜しているようで(こんなことでいいのかな?)、なかなか説明に入れません。そうこうしているうちに写真がやっと見つかって、説明に入りました(大丈夫かな?)。

担当医には「手術は2時間ぐらいで済む。失敗はほとんどないが、何らかの理由で合併症を起こすこともある」と言われました。私の不安は増幅しました。おまけに麻酔担当医は、とうとう来ませんでした。

いよいよ手術当日を迎えました。私は怖くて怖くて眠れませんでした。朝から旦那や義妹に私の父の3人が来てくれているのですが、口を利くのもおっくうで、もうそれどころではないのです。前の日の晩に、旦那と私の父親、妹、それに義母、義妹の5人宛てにノートをちぎった紙に短い手紙を書きました。これまでお世話になったお礼が言いたかったんですけど、恥ずかしくて・・・手紙にしたんです。でも手渡すのが恥ずかしい。意を決して、みんなに手紙を渡しました。義妹に手紙を渡すのが一番恥ずかしかったです。義妹には結構お世話になっているので、足を向けて寝られないくらいでしたからね。

さて、手術の時間になりました。私は手術着に着替え、ベッドに横になりました。手術室に搬送されるのです。エレベータで運ばれるときに、頭から手術キャップをかぶされました。私はもう我慢できなくなって泣き出しました。みっともないことなど考えません。だって、痛いだろうし、麻酔が効くかもわかりませんし、このまま死ぬかもしれないし、第一私の左乳房がなくなってしまうんです。助けてっ!て、私は心の中で叫びました。

私は手術室の前で別な担架に乗せられて手術室の中に移されました。まぶしい光の中で、嫌な機械の音が沢山して、目の前に数人の医師や看護師の方々が見えて・・・そのうちに私の意識はいつに間にか遠ざかっていきました。

セカンドオピニオン

2005-02-06 18:43:25 | Weblog
セカンドオピニオンということで、旦那に秋葉原の病院に連れて行かれた私ですが、実は後悔もありました。飯田橋の病院では、がんだけを切り取って、乳房を残す「温存手術」でいくと言われましたし、担当の医師が「一緒に直していこうね」って優しく言ってくれたのに、他の病院でも検査してもらうということが、飯田橋の先生を裏切ったみたいだったからです。

秋葉原の病院でのエコー検査では、飯田橋の病院と同じ「2.4センチのステージⅡのA」でしたが、驚いたことに、もうひとつの腫瘍(9ミリ)も発見されたのです。こちらは細胞針をしませんでしたから、この時点では悪性か良性かが不明でしたが、「安全のために小さい方も切り取った方がいい。全摘手術しましょう」ということになりました。担当医師には「がんは80~90%は直る」と言われました。

秋葉原の病院の方が「乳腺外科では知名度が高い」ことから、旦那も私の父も秋葉原の病院を選びましたが、肝心の私は「乳房を残したい。なんで全部摘出しなくてはならないのか?」という気持ちが、迷いを増幅させていたんです。

「運命」というのはいつでも「選択」です。どちらかを選択することでその後の運命が決まるのです。決めた以上は、時間は戻らない。どうしようもないんです。今となってはどちらがよかったのかなんてわかりません。今後、それはわかるのだろうと思います。私は勇気を奮い立たせて、「結末」を待ちます。

さて、私は手術のために秋葉原の病院に入院しました。怖かった。だって生まれて初めて手術するんですからね。それに乳房を失うのは嫌だとか、手術の痛みはどうかとか、麻酔はきくんだろうか、いや、もしも手術が失敗したら・・・もう旦那にも父親にも妹にも会えないのかとか、恐怖もありますが、二日後に手術するのに、なんで二日前から入院しなくてはならないの?かとかって。入院から退院までの期間は10日でした。旦那は、一日も欠かさずに私のそばにいてくれました。

私は、あまり人と接したくなかったので、二人部屋を選びました。個室まではちょっとね。11階のその部屋には既に、お年寄りが入っていました。その人は大部屋希望でしたが、あいにく満室で、こちらにまわされたのだそうです。私の部屋は窓際で明るく、冷蔵庫も付いていました。旦那は、「俺のクライアントが、窓の下に見えるビルに入っているんだよ」と言って、はしゃいでいます。でも、実は焦る気持ちを無理して隠しておどけているみたいでした。

病院には結構な数の着替えを持って行きました。まるで旅行です。本当に旅行ならば言うことはないんですがね。それに買い揃えなければならないものが沢山あるんです。タオルとか手術時につかう「T字帯」(ふんどしです)とかいろいろです。

旦那は、毎日、病院に寄ってから会社に行きます。帰りも会社から病院に寄って、面会時間終了まで私についています。ありがたいことですが、私は旦那の身体が心配でした。