拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  天上天下唯我独尊

2016年03月13日 | 観自在
 お釈迦様が生まれ出た時、七歩歩んで言った言葉が『天上天下唯我独尊』・・・ということになっている。
 
 これほど素晴らしい仏陀による雄叫びが、チンケな『唯我独尊=独りよがり』的解釈で世に流布している事実は、仏教徒の端くれとして情けない・・・
 と思いつつ、かといって自ら『これだ!!』と、世間様に対して言えるほどの解釈が出来ずに一層情けない思いでいたのが、昨日(さくじつ)パラリと
 解釈のヒモがゆるんだのだ。

 本来、『天上天下唯我独尊』は禅で云うところの『悟り』によって体得しなければならない仏教の『眼目』であり『象徴』であろう。
 しかし、仏陀はこれをもっと解りやすい言葉でも表している。
 それは『犀角独歩=犀の角のようにただ独り歩め』・・・という言葉だ。(詳しく知りたい人はこの言葉でググるとよい)

 ボクが禅寺の居士林(一般人を対象にした修行道場)で修行をしていて最も疑問を持った事の一つに
 修行に来る人々に対してちっとも親切ではない、むしろ追い帰す勢いで対することであった。

 新参者に対する対応はその時の担当の和尚によって違うが、基本的に『来る者拒まず、行く者追わず』・・・である、が 
 ある日、新参者を面接する和尚に同席していたボクは驚いた。
 外国人の青年が坐禅をしたくて円覚寺の居士林を訪ねて来た時、その青年は『禅を学びたい』と来た理由を話すと
 和尚は『ここは学ぶところではない』・・・と言って帰らせたのだ。なんというそっけない対応であろう。
 その時ボクは内心『何度でもイイと言われるまで通って来い!』と、思ったものだが、和尚の真意がどこにあるかわからなかった。
 今思うと、和尚のこの時の教えは、ボクに向けられたものではなかったか?と思い当たる。

 禅宗の教えはひとえに『独歩』この一点にかかっていて、徒党を組む事をむしろ『邪道』としているようだ。
 そこが、人をして集合させる他の宗教と大いに違っているところであり、禅宗が栄えない理由でもあるのかもしれない。
 修行中、お喋り厳禁なのでレギュラーメンバーの苗字を覚えるぐらいで、親しく話をする機会もなく、ただただ『あんた、今日も来たのかい』と
 互いにリスペクトするぐらいのものであった。

                 
                  もし、ボクがキリスト教徒のようにネックレスをするとしたら、これが最高と思う。
 


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