拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  般若の智慧

2023年02月09日 | 東洋自分なり研究所

  私が一番最初に『坐禅』をした時、『何たる時間の無駄!』・・・と怒り心頭に達した話はこれまで何回かした。

  足の痛みも手伝って、この馬鹿げた行為『坐』に腹がたったが、その尾っぽに『禅』があったのか

  それまでの自分の『時間の観念』に対して疑義を持つ自分がいた・・・。

 

  当時は坐禅が『般若の智慧』の覚醒であるとは、まったく知らず、何の為に坐るのか『?』の五里霧中をただひたすらいくのみ。

  30〜40歳の10年間、紆余曲折はあったが、『?』の坐禅に迷うことは不思議になく、続けることができた。

 

  坐禅する時間、40〜60分ただ無念無想に向かって『坐』することは、無学者という劣等感ゆえか知識欲旺盛であった

  30歳の私にとって『時間の無駄!』・・・以外の何物でもない、と思うのは当然であったであろう。

  じっと『坐禅』している人間が、頭鉢巻で本を読んでいる人間より『優れた人間』になれるとは、普通の概念では思えない。

 

  『般若の智慧』を調べると、『般若』とはサンスクリット語( prajñā)の音写で、『全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと』とある。

  しかし、こんな説明では、いまの馬骨には納得いかない。

  『全宇宙を幸福に導く慈悲心に基づく自他不二の智慧』・・・つまり『慈悲心の発露』について述べなければ『般若の智慧』とは言えないと思うからだ。

  『智慧即是慈悲、慈悲即是智慧』が『般若の智慧』で、知識の積み重ねで得る『知性』とは一線を画し、そういった自我に根ざした『知性』を

  『無』に帰する果にあるのが『般若の智慧』ではなかろうか。

  『AI』がどんなに優れていても、人を幸福にするかどうかには関係なく、その点をしっかり観ていくのが『般若の智慧』なのだ。

  『AI』という圧倒的な『知力』を制する『般若の智慧』は、これからの時代の人間にとって必要不可欠であろう。・・・摩訶般若波羅蜜多!

            

  相方の悪知恵で携帯を、SamsungからOppoという聞き慣れないメーカー・・・『5Gで、2万円以下で買えるから』…という理由で

  二人で乗り換えた際の、私の新しい『待ち受け画面』の菩薩さま図

  ジジババになると、こういう新しいモノ好きの『好奇心』は案外重要だと思う。

  『AI』という新しい波も大乗思想で乗り切る意気込みが大切だ。(といっても我々のは最低線をギリギリの態)