もう皆様ご存知の通り、サクラチヨノオーが亡くなりました。
88年ダービー馬サクラチヨノオー死す (サンスポ)
http://www.sanspo.com/keiba/news/120112/kba1201120502007-n1.htm
息を引き取ったのは7日早朝で、大往生だった。同牧場の谷岡毅代表によると、5日までは与えた配合飼料は残さず食しており、また日中の放牧でも普段と変わらぬ様子だった。しかし、6日に急変。馬房で横になったままで、翌7日早朝に息を引きとった。
88年ダービーV…サクラチヨノオー死す (スポニチ)
http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2012/01/12/kiji/K20120112002410980.html
同牧場の谷岡毅代表は「静かで立派な最期だった。元気が良く、自己主張が強かった。餌に対して非常に貪欲だったことが印象深い」と話した。墓は同牧場内、00年に死んだ1歳下の弟、サクラホクトオーの隣に作られる。
サクラチヨノオー大往生「立派な最期」
http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20120111-887855.html (日刊スポーツ)
少しやせてきた様子はあったが、直前までは元気だった。6日朝に立てなくなり、午後は食欲も落ちた。獣医師の治療を受け、床ずれを防ぐため牧場スタッフが1時間置きに寝返りをさせたが、そのまま静かに眠り、7日朝に呼吸が止まった。同牧場の谷岡毅代表は「大往生でした。老衰とはこういうもの、という感じの穏やかな最期。餌をくれる人以外にはきつい馬でしたが、最後は好きにしてくれ、という感じで静かにしていた。立派な最期でした」と語った。
主だった各社の記事から最期の様子を抜粋しましたが、日刊さんではチヨノオーらしい最期だった事を伝えていますね。
静内スタリオンから新和牧場さんまで、随分長い間その姿を撮ってきましたが、私にとってのチヨノオーは、『サクラ』の冠名の最もイメージモデル的な名馬でした。
サクラユタカオー、サクラバクシンオー、サクラローレルと、短・中・長距離、それぞれに歴史的な名馬が存在するサクラの名馬たちの中にあってもなお、サクラ + 小島太 、このキーワードが揃った時に、誰もが真っ先にその存在を思い出すのはやはりチヨノオーな気がします。
太氏は一度、自身の騎乗技術の更なる向上への想いを、親子の様な関係にあったサクラの初代オーナー、全演植氏に直接告げ、サクラとの専属契約を破棄していた時代がありました。
チヨノオーはまさにその時期に産声を上げた名馬です。
そんな状況にあってなお、仔馬の頃から周囲に素質を感じさせていたチヨノオーに、全オーナーは太氏を主戦ジョッキーとしました。
その理由が、『太が成長する手助けをしたい』ですよ。
泣けます。
昔の競馬にはこういう人間ドラマがあった。
そうしてチヨノオーに騎乗した小島氏は、実父を喪った6日後に朝日杯を制し、その半年後、自身2度目のダービージョッキーの称号を得るに至るのです。
またこのダービーが、先頭に立つもいったんは内からメジロアルダンに交わされ、外からコクサイトリプルにも迫られてなお、アルダンを差し返してのレコード優勝という破格の内容で、チヨノオーは現在でも日本ダービー史上、唯一差し返して優勝した馬と言われています。
また血統ファン的な目線で見ても、父マルゼンスキーの無念を晴らした意味はとても大きかったですね。
昔のGⅠ馬にはこうした様々なドラマが必ずあった気がします。
チヨノオーが残した物語は、数多くの物語の中でも最上級のものでした。
そんな名馬が最期の時まで大往生でした、立派だった、という表現が出るほど、チヨノオーらしい別れを迎えたのなら、別れの寂しさもぐっと耐えられます。
ここ数年間、少し寂しくなった馬体にこの日が訪れる事を覚悟する事が多かったですが、訪れたその時はチヨノオーの馬生に相応しいものでした。
だからこそチヨノオーとの別れは『今まで色々なものを与えてもらってありがとう』という気持ちだけで送り出したいと思います。
来年の夏、新和さんを訪ねられたその時には、誰よりも先にチヨに挨拶させてもらいます。
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