雀の手箱

折々の記録と墨彩画

馬酔木に寄せて

2011年03月24日 | すずめの百踊り
 今年も2月から花を開き始めた三本の馬酔木が今を盛りに庭に咲き満ちています。

              馬酔木折って髪に翳せば昔めき   虚子

              馬酔木咲く奈良に戻るや花巡り   碧梧桐

 これらのよく知られた句があり、秋櫻子は自分の結社の名を「馬酔木」として同名の機関紙を出していました。馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ の自作の句からの命名と聞いています。このように今日では俳句はじめ詩歌に詠まれる馬酔木ですが、万葉集で10首を数える馬酔木の歌が、不思議なことに、その後の四、五百年の間は殆ど詩歌の場に登場しないのです。
 白い壺型の可憐な花房が、どうして平安時代の歌人たちの詩情を誘わなかったのでしょう。
日本が原産なのに、椿や紫陽花などと同様の運命を辿ったようです。

 馬酔木といえば奈良を、そして万葉集の大伯皇女(オオクノヒメミコ)の絶唱を思い浮かべます。弟、大津皇子が謀反の疑いで処刑され、二上山に葬られた時の挽歌の中の一首です。
 礒の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに  巻二 0166

 もしかすると、この木の枝葉の持つ毒性が嫌われた以上に、高貴な二人が辿らねばならなかった悲劇的な背景から死を悼む深い悲しみを表す木とされてきたのかもしれません。

 東北地震の犠牲者の数は連日増え続けて依然行方の不明の方を入れれば2万人を超えてしまいました。ようやく交通手段や、ライフラインも徐々に確保され始め、立ち上がろうとする人々もありますが、まだまだ虚脱の中でしょう。福島原発の魔手も通電がどうにか成功し、かすかな希望も見えてきましたが、これから想像もつかない多様な被害が拡がりそうで不気味です。
 空爆で見渡す限り焼け野が原と化した敗戦直後の生まれ育った街の風景をしきりに思い出します。
 可能な限り車を使用しての外出を控え、避難所の不自由を思って、電力の使用を抑える極めて消極的な支援しか出来ませんが、被災者の皆様の上に想いを馳せて暮らしています。

 先日は9日ぶりに奇跡的に生存者が助け出される僅かに明るい報道がありました。今は被災された皆様の心身の回復が一日も早からんことをただただ祈るばかりです。





鎮魂の花々

2011年03月13日 | できごと
鎮魂の花々



 11日、観測が始まって以来の巨大地震が東北から関東を襲いました。全世界の大地震でも稀なM9,0と発表されました。
 何時やってきてもおかしくないといわれ続けていたものがとうとうきたかという感じです。

 テレビ画面に映し出される地震に伴う津波の凄まじ勢いは、まるで地獄絵さながらで、現実の出来事とは思えない凄惨なものです。ノアの洪水もかくやと、イグアスの悪魔の喉笛の奔流する水の勢いを思いました。
 港の船も、倒壊した家も、整然と並ぶ駐車場の車も一気に呑みこんで突き進む津波の前に人間はなす術もありません。目の前で水に呑まれる肉親を助けることも出来ない悲劇はこれ以上のものはないでしょう。
 原子力発電所の被災はさらなる悲劇を誘発しそうで、自然災害が齎したとはいえこれは人間の都合で建設された設備からの放射能ですから、やりきれない思いです。
 親戚知人の安否が気遣われても、電話もその他の通信手段も断たれて、ただやきもきと心配するほかはありませんでした。被災された方々に慰めの言葉もありません。
 犠牲者は1万人単位になると報じられています。ただただご冥福を祈るのみです。

 皆さんもブログどころではなく、私同様に報道に釘付けらしく更新も殆どないようです。
 このような未曾有の大災害の時こそ、民族の底力が発揮されるというものです。情けに篤い日本人の無償の善意の数々も報道され、僅かな救いを感じ、目頭を熱くしています。募金にささやかな一灯を投じるぐらいしか出来ないのが残念です。
 敗戦の廃墟から、そして阪神淡路大地震や、中越大地震から立ち上がった日本人の力を信じます。

 庭の花の中から選んだ鎮魂の花々です。

今月の例会

2011年03月09日 | すずめの百踊り
 描き溜めた中から、今月は山岳をテーマに提出することにして、選り分けていました。 季節が過ぎましたが、リホーム騒ぎで、冬山の作品を提出していないのに気付きました。自分では気に入っていました。

 まだ模索の途中ながら、先日の由布岳の春浅い姿も入れて3枚提出の予定です。先にブログの雀ギャラリーでUPします。
 今日も晴天ながら風の冷たい一日になるようです。季節は行きつ戻りつの行き合いです。
 猫柳はもう銀鼠色の花穂もすっかり伸びて浅緑がかってきました。綿穂の下には萌黄の小さな顎が顔を覘かせています。もう絵の題材にはなりにくいようです。












文楽を楽しむ

2011年03月05日 | 雀の足跡
 今年も文化庁後援の文楽協会の地方公演鑑賞に参加できました。
 昼の部の演目は仮名手本忠臣蔵から、五段目と六段目です。勘平腹きりで有名な段です。
 歌舞伎では何度か見ているのですが、文楽では初めてでした。
 同じ古典芸能でも、最近では、文楽は人形が演じるためか、歌舞伎と違ってもてはやされ、派手な話題になることも少ないようです。
 仮名手本忠臣蔵はよく知られた赤穂浪士の討ち入りを題材にし、設定を太平記の時代に移して十一段で構成されています。、菅原伝授手習鑑、義経千本桜とともに三大名作とされている演目です。
 歌舞伎で見るのとはかなり演出も異なるようですが、人形なればこその制約と、逆に人間が演じるのではないための思い切った表現が面白い場合もあります。
 黒子が気にならないころにはすっかり舞台に引き込まれて楽しんでいました。


 歌舞伎では定九郎を初代中村仲蔵が、それまでの通し狂言では弁当幕とされてきた端役で、みすぼらしい山賊姿を、黒羽二重に朱鞘の、文字通りの水もしたたる白塗りの浪人姿で演じて評判になって以来、若手人気役者の役どころになっています。11代海老蔵も演じています。

 記憶の中にあるのは玉三郎のお軽が美しかったこと、勘九郎の勘平を憶えています。
 「中村仲蔵」は古典落語にもなっていますが、落語は文楽のほうの筋書きに近いようです。歌丸師匠の寄席を一度は生で聞いてみたいと思っています。
 歌舞伎では定九郎のセリフは一言「五十両」だけですが、もとの文楽では、与市兵衛との掛け合いも長くいきさつがわかります。





左の画像は、もう一つの演目「釣女」の太郎冠者。狂言をもとにした常磐津を義太夫に移したもので、大名と太郎冠者が西宮の恵比須さまに妻を授けて欲しいと願かけするおおらかで楽しい話。