雀の手箱

折々の記録と墨彩画

一周忌法要

2011年05月29日 | 塵界茫々
 早いもので今日は妹の1周忌の法要が営まれました。

 20年近い闘病生活でしたから、義弟の時のような突然の出来事ではなく、周りもその日が来る覚悟のようなものが恒にありました。それでも、月日の経つことの速さも併せて一抹の寂しさは言いようもありません。

 奈良から末の妹も法要に参加のため帰ってきて、姉妹の語らいも弾みました。亡き人の形見となったわが家の梅花空木と、長雨にうたれる山紫陽花です。









東長寺の薪能 「空海」

2011年05月26日 | 雀の足跡
 昨年末から予約をして楽しみに待っていた東長寺本殿前での薪能拝見が実現しました。午後は雨の予報を案じていましたが無事に終了しました。
 梅若流家元の玄祥師がシテ空海をつとめられました。地謡には顔馴染みの九州の同門の歴々が並んでおられました。

 東長寺は1205年前、唐から帰国した空海が、上陸の地博多に最初に創建した真言宗では日本最古の霊場です。菩提寺として、二代と三代の福岡藩主黒田公のお墓がある古刹です。九州八十八ヶ所108霊場の第一番札所でもあります。
 今回、境内に五重塔が建立された落慶法要の三日間にわたる催しの最期の本公演ガ昨日25日でした。


 6時半の開演は、まず東長寺51代住職藤田紫雲師と梅若玄祥師のプレトークから始まりました。住職が、寺の沿革と、民衆と共に生きた空海の事績を語られ、玄祥師は声明が入る今回の曲目に関して、それが不可欠なことを解説され、その意味を興味深く拝聴しました。

 ついで、ほら貝を吹き鳴らして僧侶達17人が入場し、最初の声明が高らかに唱えられると、本殿前の見所の場は一種独特なものに包まれました。
 その後の篝火への点火の儀も、本殿五間の扉のうち開け放たれている中央の扉の奧から、仏前の灯明が運ばれて、ロウソクの火が移されました。
 どう展開するのかと思っていた演能は、声明との不思議な融和のなかで、荘厳に進行してゆきました。

 特にシテが何時ものような揚幕からではなく、格子越しにゆらいでいた透影が、やがて本殿の中央から、石窟を思わせる出で登場し、空海が受けた荒れる海上での渡海の苦難を表現、中入りなしに楽の舞が舞われ、揚幕から、前に灯明を捧げた貧しい女が、今度は孔雀明王の本来の姿となって清浄な中にも華麗な姿で登場、救済したのは自分であると名乗り「即ち貧女は玉冠玉衣 清浄瑠璃の翼を羽ばたき、」「羽衣」の天女を思わせる孔雀明王の舞を奏でます。

 能楽堂や劇場照明での公演とは全く雰囲気の異なる陰影で、背景も、松が描かれた鏡板ではない仏殿が背景です。篝火の照明だけで、日没後の薄闇が刻々に色を深め移ろう中で、高野山で入定した空海がうつし身の姿を見せて舞う幻影に引き込まれていました。

 時間の経過につれて、五重塔の丹の色合いが周囲の木立の色にも同化していき、何年も其処にあったかのように思われ、本来のお能はこのような時間と空間で演じられたのだと、今更のようにしみじみ実感したことでした。
 立見席も含めて満席の盛会でしたが、席もS席11列の中央と申し分なく、幽玄の世界に時の経つのを忘れた2時間でした。

 後半登場の21人の僧侶による声明の響、能の中の「ノウマクサンマンダァバァサラダァ、・・・」の真言も、合唱の迫力で真に迫り、華麗な孔雀明王の舞も,冠に揺れた孔雀の羽と白一色の装束の美しい幻影の揺曳をいつまでも反芻しつつ帰宅の途につきました。

”あらすじ”はこちらでご覧になれます。

   空海(シテ)       梅若玄祥
   貧女・孔雀明王(ツレ)  観世喜正
   観賢僧正(ワキ)     宝生 閑
   従僧(ワキツレ)     宝生欣也
                 御厨誠吾
   老能力(アド)      山本則重





「源氏絵と伊勢絵 恋ものがたりの世界」展

2011年05月25日 | 雀の足跡
 門司出光美術館の企画展です。平安時代を彩る伊勢物語と源氏物語の世界を、華やかに描いた絵画を中心にした出品数27点という小さな企画展でした。

 「趣味の表装展」の最終日、展示が5時で終了して、その後の撤去と片付けにかかるまでの時間つぶしに門司まで車を走らせました。白野江植物園に行くか、出光美術館にするか迷って、「恋ものがたりの世界」に傾きました。
 思いがけず、門司では港祭りが催されていて、かなりな人出で、名物のバナナの叩き売りが大勢の人を集めていました。ソーラン踊りは見る気がしなくて早々に引揚げました。

 さきの源氏物語千年紀では、京都で食傷するほど源氏物語の屏風絵ほかを見ているので、私が目をひかれたのは、岩佐又兵衛の在原業平の立ち姿を画いた軸と、野々宮図でした。
 「大方は月をもめでじこれぞこのつもれば人の老となるもの」が美男子の代表としての業平の立ち姿と併せて興ふかく、又兵衛らしい人物描写が活き活きとしていました。 源氏物語の野々宮のほうはモノクロで、墨の濃淡だけで画面に漂う物語の持つ哀感を感じさせるのは流石でした。

 そのほかでは伝宗達筆という葵の巻の屏風の残闕でした。御禊の日の有名な車争いの場面はよく画題になっていますが、その翌日、二条院で少女らしい姿の紫の君を碁盤の上に立たせて、源氏が自ら髪をそいでいる珍しい場面です。御簾には葵がかけられています。(下の画像)
 伝宗雪という伊勢物語の東下りの六曲一双屏風が、宗達流の奇抜な発想の構図で、大きな富士の山と小さな人物の思い切った対比を面白いと眺めました。蒔絵の冊子形硯箱の精密など、出光コレクションを楽しみました。



趣味の表装展

2011年05月23日 | 日々好日
 まだ始めて1年余の初心者の夫ですが、稽古に通っているグループが、北九州市立美術館の市民ギャラリーを会場に展覧会を開催しました。

 以前から興味があったようで、緊張感を持って指先を使うから老化防止になると始めたものです。
 稽古用になら丁度いいからと、つたない私の絵を、色紙サイズを中心に色々渡しています。その中から自分が選んで出品したものです。軸先は弟のところの窯で焼成して使用しています。

 長く稽古を続けている方は、屏風や、余りの紙を利用した一閑張りなども手がけておられました。

 小倉織や、古い着物、帯などを上手に利用したものから、本格的な表装の掛軸まで変化があって、趣味のグループ展らしい華やいだものでした。
 最期の秋草と蟹の表装が夫の作品です。




閉じる

2011年05月18日 | 雀の足跡
 今年は会を閉じることがつづいています。3月の終わりには42回をもって旧制女学校の同窓会の組織を閉じることにしました。

 次いで4月25日には、女学校の同期だけで続けてきた同窓会も今年を最期に終わることになりました。最後に集まったのは180人卒業したなかで43名でした。年毎に鬼籍に入る人が増えるのも寂しい限りです。

 今月8日は、土地の古名から採って「みまき会」と称して二十数年、欠かさずに開催していた母方の従兄弟の集まりが、解散することになりました。これからは不定期で、集まれるものだけでということに形が変わります。
 1泊が難しくなり、さらには日帰りも遠出は無理という年齢になりました。私の母が末っ子でしたから、その子供たちは、一番年下がすでに還暦を越えています。
 はじめの頃は夫婦での出席で30名近く集まって盛会でしたが、今は迎えのバスも小さくなり、この日の参加者は15名でした。
 最期だから近くでなるべく参加しやすいようにと、市内の若松海岸の割烹旅館で活き魚の懐石料理ガ選ばれました。
 舟盛のシマ鯵や、鮑、烏賊が豪華であるだけ、一抹の寂しさを口々にお酒も例年よりは進まなかったようです。最期に出されたデザートの盆の西瓜や甘いものには箸をつけない者もいました。

 小学校2年の頃から、昨年他界した妹と二人、夏休みは母の実家で過ごすのがきまりでした。半径3,4キロの範囲に散らばる従兄弟達とも、蝉取りや、魚掬いに夢中になり、都会の暮しとは異なる活き活きした日々がありました。毎回その頃の失敗や武勇伝で冷やかされたものでした。
 それぞれに、九十九髪の頂が透けるようになりましたが、集まれば昔話で童心に還る気の張らないよい集いでした。多分、これからも、この季節になると誰彼が言い出して何人かで集まることになるでしょう。







ヤブウツギに毎日来ていたカラスアゲハは、今日は花が終わったツツジの残花で朝食です。

雨の日のすさび

2011年05月10日 | 雀の足跡
 浪花いばらが盛りです。ネットでご教示いただいた薔薇の原種の一つです。
 一重咲きで、芳香の花の径は、8センチ余りで、五弁の白い花には媚がなく、気品高く気に入りの品種です。洋バラのように手がかからず、耐寒性にも耐暑性にもすぐれた逞しさです。

 友人の庭に咲いていたのを挿し木して育てたものです。山で見つけたのを移したという友人は、オオイバラ、とかヤマトバラとか呼んでいましたが、素性を教わったのはコメントをくださるRHさんからでした。
 「夏椿?」と聞かれることもありますが、れっきとした蔓性のバラの仲間です。

 貝原益軒の「大和本草」には「金罌子」と漢字で書かれ、「ナニワイバラ」と片仮名がふられているそうです。キンオウシのオウに櫻を当てることもあるそうですが、秋に大きく膨らんだ水甕様の赤橙色の実をつけるところからの命名でしょう。
 別名も多く、白玉帯、下山虎、刺藤棘、ちょうせんバラ 等など。

 残念なことに、花期が短く、いっせいに花を開いては、大きな花びらをはらはらと散らしてゆきます。  


 何枚か画いた中からの一枚です。



 白抜きで残す塗りつぶしを練習するために、今日も著莪で挑戦しました。
 何時もは浪花いばらのように、自分で纏ったと思ったものを1点か2点記録として挙げるのですが、今回は模索の過程を敢えてUPしました。ひとつは自分のために変貌の過程を痕跡で残すためでもあります。

 前回のスケッチから、最期は一切見ずに一気に仕上げる試みまでです。(下の2枚)まだまだですが今月の提出作品にするつもりです。



















青梅とさくらんぼ

2011年05月06日 | 日々好日
 ムクドリの騒々しい鳴き声でカーテンを開けると、さくらんぼの色づいた実で朝食の最中でした。

 鳥たちと競争で、昨年は殆ど口にできませんでしたが、今年はもう2回ほど小さな笊に一杯の収穫で、朝のサラダの彩りにもなりました。
 山形のさくらんぼの半分くらいの小粒の種類で、少し酸味があるものの、女性客の飲み物にうってつけですから、氷砂糖とホワイトリカーで果実酒にするのですが、完熟の色を期待してぼんやりしていると、全部食べられてしまいます。

 梅の粒も大きくなってきましたが、こちらは、鳥たちは見向きもしません。幾つ見つけることができますでしょうか。









今日の習作

2011年05月02日 | 日々好日
 「風薫る五月」というには激しすぎる強い風が吹きすぎていきます。季節が荒々しく感じられてなりません。
 東日本ではまだ余震の揺れが止むことなく続いています。

 今年の牡丹は自分の気持ちを引き立てる応援歌のつもりで勢いのある緋牡丹にしました。
 淡い色合いの櫻から原色に近いきっぱりとした彩に移ろう季節を代表する花でしょう。俳句にも限りないほど取り上げられていますが、美しいと眺めるうちに、牡丹の放つ妖気のようなものに圧倒されて、眼を逸らしてしまいます。

 わが蕪村には牡丹の句が多く、牡丹散ってうち重なりぬ二三片 は、あまりに有名ですが、今日は、閻王の口や牡丹を吐かんとす で構成してみました。

 
 先月は作品の提出が少なかったので、今月は少し頑張ってみるつもりです。

 蔓桔梗の群生も逆らわずに賑やかに画いてみました。著莪は難しい花です。白く残して色をさすことを試みましたが、次第に絵が小さくなってゆき、意図したものと違ってきます。まだ途中ですがひとり面白がって塗りつぶしに励んでいます。

 庭の花々が辛抱強くモデルを努めてくれています。