
この花を好んだ光太郎を偲んで連翹忌が催されます。
連翹の名は、花が羽を広げた鳥に似ているところからのようです。原産国の中国では黄寿丹と呼ばれ、わが国には平安初期に薬用として渡来したそうです。古名は「いたちぐさ」「いたちはぜ」です。
智惠子抄との最初の出会いは、女学生のころでした。田舎の女学校の生徒の私が自分で見つけ出すはずもなく、当時兵士として出征してゆかれた先生方の補充として奉職することになった若い女教師のどなたかが、熱っぽく絶賛する光太郎の、夫人智惠子への至純の愛をうたう絶唱というのに感化されてのことだったと思います。
今でも“レモン哀歌”“樹下の二人”“千鳥と遊ぶ智惠子”などは、もう断片化していますが、かなり暗誦できます。
精神を病む妻に向き合って「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うに行ってしまった智惠子」を受け容れ、自らもその清浄世界へひきこまれるさまを率直な言葉でうたいあげるその新鮮さに打たれたものでした。
とっくに盛りを過ぎ、花もまばらになった一枝を折り取ってきて、告別式の日の演出に倣って、詩集に添え、「道程」を読むことで私の連翹忌としました。

佐藤春夫の「高村光太郎像」によれば、告別式の日の手向けには、ただ一枝の連翹が、無造作に生前愛用のビールのコップに挿して手向けられていたと書かれています。