本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

今回の勘違いから学んだこと(後編)

2016-03-10 08:00:00 | 資料
勘違いから学ぶこと
 さて「本来作動しなければならないはずの批判精神」が働かなかった私だったが、ここは気を取り直してかつてのいくつかの「賢治年譜」の昭和6年における、このことに関する記述を拾ってみると、
『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和14年)所収:なし
『昭和文学全集14宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)所収:なし
『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年)所収:なし
『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)所収:(岩手県)この年、凶作
『新修宮沢賢治全集別巻』(筑摩書房、昭和55年)所収:岩手県も冷害と豪雨による凶作
『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫、平成元年)所収:岩手県は冷害豪雨のため凶作
となっており、あることに気付く。それはもちろん、当初の「賢治年譜」は昭和6年の岩手県の凶作のことについては触れていないということであり、この年が「凶作」であったと記述され出したのはいわゆる「旧校本年譜」あたりから、昭和50年代になってからであるということである。
 言い換えれば、当初の「賢治年譜」には昭和6年の凶作については述べられていないということからは、「賢治年譜」にとってこの年は取り立て強く意識すべき「旱害」あるいは「冷害」による「凶作」はなかったということであり、この年稗貫も花巻も「凶作」などではなかったということを当時の人たちは皆認識していたと判断できそうだということである。
 ところがその後、例えば「賢治年譜」の担当者がサムサノナツハオロオロアルキにひきずられてその裏付けみたいのものが欲しくなって探しているうちに、昭和6年の岩手の「凶作」に気付き、それを「賢治年譜」に書き加えた、というようなことが起こったという蓋然性が高いようだ。しかも、その人は地元でそのことの取材等をしなかったから、実は花巻ではこの年に冷害はなく、凶作でもなかったということに気付くことはできなかった、ということではなかろうか。
 ところが、石井洋二郎学部長が
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
危惧するとおりで、一旦、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)所収の「賢治年譜」の昭和6年の項に「この年、凶作」という記述が為されてしまうと、それは一瀉千里に広まってしまったであろう。とはいえ、それは紛れもない事実であるからそれ自体は問題がないのだが、同学部長が
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること…
と警鐘を鳴らしてはいるものの、同時に同氏が懸念しているとおりだれも「一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証」しないから、私と同じように『校本全集第十四巻』の昭和6年の項に「(岩手県)この年、凶作」とあるから、
    昭和6年の冷害で、花巻も米の作柄がかなり悪かった。……①
と勘違いし、延いては、例えば
 羅須地人協会の賢治がその手をのばしたのは、病気の子供や、疲れた母や、死にそうな人だけではなかった。むしろ、絶えざる旱害と冷害と、そして低米価政策の下で働きつづけなければならぬ岩手の農民たちそのものであった。
              <『宮沢賢治』(中村稔著、筑摩叢書)197pより>
にあるような「羅須地人協会の賢治がその手をのばしたのは…(略)…絶えざる旱害と冷害と」というな記述になってしまうのだろう。しかし、念のため申し上げておくが、
 「羅須地人協会時代」にたしかに「旱害」の年はあったが、その時に賢治が「その手をのばした」という裏付けはどこにも見つからないし、まして「冷害」については同時代に一度も発生していない。よって、「羅須地人協会の賢治がその手をのばしたのは…(略)…絶えざる旱害と冷害…(略)…の下で働きつづけなければならぬ岩手の農民たちそのものであった」ということは、私が検証した限りではあり得ない。
 なお、下根子桜から撤退後の昭和6年に岩手県の「冷害」はあったが、この年に稗貫が「冷害」だったわけでもない。
 したがって、中村が前掲書で
 僕たちは宮沢賢治年譜のなかからかれの農民の献身的奉仕の記述に目をうばわれるために、かれが農民から感謝ばかりうけとっていたのだと錯覚しやすい。
              <『宮沢賢治』(中村稔著、筑摩叢書)203pより>
と警告しているが、まさにその典型が、
 昭和3年8月:心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
なのだろうが、これは何ら裏付けのあることではなくそれが歴史的真実だったとは言い難く、このような記述にたしかにかつての私も含めて多くの人が目を奪われているかもしれない。しかし、もしかすると中村でさえもこのような記述に目を奪われていたかもしれない。そうでなければ、中村は「羅須地人協会の賢治がその手をのばしたのは…(略)…絶えざる旱害と冷害と」というような記述をするはずがないからだ。
 とすれば、中村にしてこうなのだから、私が如き田舎の一介の老人がつい先ほどまで〝①〟であると勘違いしていても、まあしようがないかと自分を慰めることにした。そして、あらためて「今回の勘違いから学んだこと」は、やはり石井氏が訓えてくれているように、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること。
の大切さだった。

 続きへ。
前へ 
  ”検証「羅須地人協会時代」”のトップに戻る。
《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。

 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。


 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿