本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(34p~37p)

2015-12-21 08:00:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
◇「ライスカレー事件」で露を<悪女>にはできない
 さて、Kの証言に基づくならば少なくとも2~3人の来客があり、しかも賢治の分の「ライスカレー」も用意したということがわかるから、最低でも3人分の「ライスカレー」を作っていたことになる。ところが下根子桜の別宅にはそれ用の食器等が十分にはなかったはずだから、食材の準備だけでなくそれらも露は準備せねばなかったであろう。
 ちなみに、当時下根子桜の別宅にどれだけの食器があったのかについては、賢治と当時一緒に暮らしていて炊事なども手伝っていたという千葉恭が次のような証言している。
 大櫻の家は先生が最底((ママ))生活をされるのが目的でしたので、台所は裏の杉林の中の小さい掘立て小屋を立て、レンガで爐を切り自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその邊の雜木林の柴を取つて來ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです、私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。
<『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)所収
「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」 より>
 したがってこの証言によれば、下根子桜の別宅には「茶碗二つとはし一ぜんあるだけ」だったから、別に新たに「ライスカレー」用の大皿、スプーン、コップなど最低でも3人分、そしておそらく露はその他に食材や調味料なども用意してきたはずだ。多分この事件の起こった日は勤務校が休みの日曜日か長期休業中であり、鍋倉の下宿から向小路の実家に戻っていた露は実家から約1㎞ある道のりそれらを運んできたことになる。
 その上、下根子桜の別宅の場合、炊事場はちょっと離れた外にあったということもあり、その別宅で当時3人分以上の「ライスカレー」を作るということは、普通の家庭とは違って何から何まで大変なことだった。とはいえ、そうでもしなければ「ライスカレー」はつくることができなかったのだから、露はとても優しく甲斐甲斐しい人だったということもこれでわかる。
 それに対して、賢治は突如自分の都合が悪くなったので頑なに食べることを拒否したというのであれば、仮に露が『私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて…』と詰ったとしても、そしてまた心を落ち着けるためにオルガンを弾いたとしてもそれは至極当たり前のことであり、その責めは賢治にこそあれ、露にはほとんどなかろう。
 ましてや、そんなことで露が<悪女>にされたのではたまったものではない。恩を仇で返すようなものだ。ちなみに<悪女>とは「性質のよくない女」のことをいうようだが、こんなことで「性質のよくない女」と決めつけられたのでは、世界中の女性が皆〈悪女〉になってしまうだろう。

 父政次郎の叱責が全てを語っている
 さて、巷間流布している「ライスカレー事件」以外に高橋慶吾たちは露に関して何を証言しているのかを前掲資料からそれぞれ拾い上げてみると次のようになる。
◇その他の噂 
 まず「賢治先生」によれば、
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顏に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
     <『イーハトーヴォ 創刊號』(宮澤賢治の會)より>
 次に「宮澤賢治先生を語る會」によれば、
K …それから前にも言つたがあの女の人のことで騷いだことがある。私の記憶だと、先生が寢ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために隨分苦勞をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顏に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つてゐた。…(筆者略)…
C 何時だつたか先生のところへ行つた時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐたのだらう。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)255p~より>
ということになろう。
 それから、これらの中には記述されていないもう一つの証言が『宮澤賢治素描』の中の「返禮」にあり、
 賢治氏を慕ふ女の人がありました。もちろん賢治氏はその人をどうしやうとも考えませんでした。その女の人が賢治氏を慕ふのあまり、毎日何かを持つて訪ねました。當時羅須地人協會にたつた一人の生活をして居られたのですから、女の人も訪ねるには都合がよかつたでせう。他の人にものを與へることは好きでも、他から貰ふ事は極力嫌つた賢治氏ですから、その女の人から食物とか花とか色んなものを貰ふたびに賢治氏はどんなに恐縮したことでせう。そしてそのたびに何かを返禮してゐた樣です。
 そこで手元にあるものは何品にかまはず返禮したのですが、その中には本などは勿論、布團の樣なものもあつたさうです。女の人が布團を貰つたから益々賢治思慕の念をつよめたといふ話もあります。後で賢治氏は其の事のために少々中傷されました。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)193p~より>
ということだから、結局次のような噂、
 ・賢治が顔に灰(一説に墨)を塗った
 ・「本日不在」の表示を掲げた
 ・癩病と詐病した
 ・襖の奥(一説に押し入れ)に隠れたいた
 ・賢治が露に布団を贈った
などがまことしやかに流されてきたと言える。さて、果たしてこれらがどこまで事実であったのかは今となってはなかなかわからないだろうが、仮にこれらの行為が皆事実だったとしても、いずれも賢治の奇矯な行為であると指弾されこそすれ、露一人だけが一方的に<悪女>にされる理由や根拠には全くならないことは自明である。
◇父政次郎の賢治に対する叱責
 それではこのような一連の賢治の奇矯な行為をどう評価すべきなのだろうか。このことについては父政次郎が明快に答えている。
 例えば、高橋慶吾によれば、
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顏に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。     …(筆者略)…
 お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に對して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて會つた時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に對する時、齒を出して笑つたり、胸を擴げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が惡かつたのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
<『イーハトーヴォ創刊號』(宮澤賢治の會)より>
ということであり、関登久也によれば、
 協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、そのうちの一人が賢治を慕つておつたようです。…(筆者略)…
しまいにはさすがの賢治もおこつてしまい、その女性に、少し辛くあたつたようです、
 父の政次郎さんは、そんな噂をきいて、
「それは、おまえの不注意からおきたことだ。はじめて逢つた時に甘い言葉をかけたのが、そもそもの間違いだ。女人に相対する時は、ゲラゲラ笑つたり、胸をひろげたりして会うべきものではない。」
と、きびしく反省をうながしたとのことです。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)89pより>
 さらには小倉豊文によれば、
 彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達から私は聞いた。それを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
<『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48pより>
ということである。
 したがって以上の三者の証言からは、この件に関して賢治は父から厳しい叱責を受けたということが導かれるだろうし、その叱責内容も似ていることから、
 冷静沈着、客観的にこの件を見ていた父政次郎から、この件に関しては賢治に全ての責任があるという明快で厳しい叱責を賢治が受けた。
ということは事実であったと判断せざるを得ない。なお、父政次郎は何ら露のことを責めも誹りもしていなかったということもおのずから言えるだろう。
 どうやら、父からの賢治に対するこのような厳しい叱責があったということが一連の出来事の真相を全て語っていると言えそうだ。つまるところ、巷間言われている「ライスカレー事件」を含めたこれらの噂が仮に事実であったとしても、賢治がその責めを問われることはあっても露が<悪女>にされる理由や根拠はほぼないということになりそうだ。
 よって、羅須地人協会時代の露が<悪女>とされる理由も根拠も今までのところはないということになる。これら以外にはその時代において何ら問題が指摘されていないからである。
 さてそうすると、残された今後の課題は、羅須地人協会時代を除いた「花巻時代」の露が<悪女>にされる理由や根拠があったかどうかだ。もちろん羅須地人協会時代以前や、実家に戻った昭和3年8月以降の昭和3年において、露の<悪女伝説>に関して露に問題があったなどということは何ら指摘されていないから、昭和4年~昭和7年の間について調べれぼ十分だろう。

第三章 昭和4年の場合
 昭和4年露宛書簡下書「新発見」?
 ではここからは、昭和4年に関わることについてである。
◇<仮説:高瀬露は聖女だった>の定立
鈴木 それでは、これで羅須地人協会時代の検証等は全て済んでしまったから残るはこの時代以降についてであり、今後は昭和4年~昭和7年について調べればいい。
 では、まずは「昭和4年」分について考察してみよう。なお、今までの考察で明らかになったように、露は<悪女>と言うよりは、<聖女>と言った方が遙かにふさわしことがわかったから、ここからは正式に
   <仮説:高瀬露は聖女だった>
を立て、その検証を行うという「仮説・検証型研究」にしたいのだがいいだろ? よし、それじゃ早速その検証作業を始めることにしようか。
◇新発見とはいうものの
吉田 まずこの年に問題となるのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとして『校本全集第十四巻』において公にされた「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」だ。
荒木 ではまず、その「新発見」の経緯を知りたいな。
鈴木 それが私はとても理解に苦しむのだが、『同第十四巻』の28pに唐突に「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べているのだが、私が探した限りでは同巻のどこにもその「新発見」の詳しい経緯は書かれていないのだ。そして一方では、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と同34pにあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから全く判然としていない。
吉田 しかも、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 そうなんです。年譜では出しにくい。今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
<『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)、177pより>
と境忠一との対談で語っている。
荒木 それは大問題だぞ。まさに、「死人に口なし」を利用したとしか言えねえべ。
鈴木 同巻では「新発見の書簡252c」と銘打っているが、そこ
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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