《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》
〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
に所収の「旧校本年譜」の担当者である堀尾は、「手紙が出ました」と言っているのか。筑摩の「新発見」と堀尾のこの「出ました」とでは意味がかなり違うだろうに。
吉田 まして、ここで「新発見の書簡」とか「手紙が出ました」とあるものはもちろん「書簡」でもないし「手紙」でもない。あくまでも「書簡の下書」、単なる手紙の反古にすぎない。
鈴木 それも、堀尾は露に対して配慮をしたかのように言っているが、露が昭和45年2月23日に帰天したのを見計らったようにして、露宛かどうかもはっきりしていない書簡の下書を、しかもそれまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と決めつけて筑摩が公的に発表してしまったということは如何なものか。
荒木 なになに、ということはこの「露宛書簡下書」は「新発見」と言えないだけでなく、そもそも露宛のものかどうかも実は不確かだというのか。しかも、もしかするとこれらの書簡下書の中には<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となりそうなことが書かれているんじゃないのか。
鈴木 その可能性がなきにしもあらずだ。例えばそのうちの書簡下書の一つ〔旧不5、252a〕、これはかなり以前から知られていた「書簡の反古」の一つでもあるのだがその中に、
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年第三版)101pより>
というくだりがある。しかし、クリスチャンだった人がそんなに簡単に仏教徒に鞍替えするなどということは私には信じられないが、同巻が実はこれは露宛書簡の下書と推定されると活字にしてしまったものだから、露は賢治に取り入ろうとしてキリスト教を棄てて法華経信者になったと読者から受けとめられ、結果蔑まれ、それが<悪女>とされる一つの要因にもなっていることは否めない。
吉田 それまで信じていた宗教を異なった宗教に改宗するということは、個人の信仰上極めて重要な問題であるのにもかかわらず、露のそれに関してはどうやら筑摩は裏付けも取らずに公に発表してしまったと言える。そのような「要因」になるおそれがあるといういうことは容易に想像が付くはずのものなのに。
荒木 逆に、それが取れなかったのであれば筑摩はこんなこけおどしともとれる「新発見」を持ち出すなと俺は言いたいよ。
吉田 実際、筑摩がこれらの「書簡下書」は露宛の「書簡」であり「手紙」であると推定して活字にしてしまった結果、その影響は極めて甚大で、全国的にこのことがあたかも事実であるかの如くに流布してまってこの有様だ。それまでは「彼女」「女の人」などという表現とか仮名(かめい)「内村康江」では一部にはある程度知られていたが、いきなり実名で全国的に公表された。しかも果たしてその人なのかどうかも検証等されぬままにだ。
荒木 いくら、配慮をしたので亡くなった後に公にしたと弁明したところで、もしこのことを露が生きているうちに行った場合に、露が『それは事実でない』と異議を申し立てるということがなかったと誰が保証できるんだべがね。
鈴木 一体、露その人の人格や尊厳を何と思っているんだろうか。もし仮に、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、「死人に口なし」を悪用したと誰かに糾された場合に筑摩は果たして何と答えるのだろうか。亡くなった後ならば露に迷惑がかからないなどとよく言えたものだよ、まったく!
吉田 まあ、そう怒るな。検証もせず裏付けもとらなかったと僕らがいくら言い募っていても、それらは賢治が露に宛てて書こうとした正真正銘の書簡下書であり、しかもほとんどその下書と同じような内容の書簡が露宛てに投函されていたとなればとやかく言ってばかりもいられない。
もしかすると、全く公にされていない賢治宛来簡が実は存在していて、その中に露からの来簡もあるので「露宛書簡下書」であるということが判断ができていたので、露が帰天したのを見定めて「新発見」とかたって公にしたのかもしれんしな。
そのような可能性もないとは言い切れないから、ここは他人のことをとやかく言うのはちょっと措いといて、その「新発見」の「露宛書簡下書」が如何なるものかを実際僕らの目で見て考えてみることがまず先だろう。
鈴木 それもそうだな。それじゃ、『同第十四巻』を見てみよう。まずは、どのような「書簡下書」が新たに発見されたかについてだが、それについては次のように述べられている。
(1) 昭和四年のものとして〝〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟が新たに発見された。その内容は以下のとおり。
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招介((ママ))下すった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
私のことを誰かゞ云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝り過ぎたためこの十年恋愛らしい
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
(2) 昭和四年のものとして〝〔252c〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟も新たに発見された。その内容は以下のとおり。
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。…(筆者略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
《用箋》「さとう文具部製」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)31p~より>
つまりこの2通の書簡下書が「新発見」だったと筑摩はしている。
吉田 それから、今の2通は同巻では「本文」として載せているもので、その他にも「新発見」と銘打っているものとしては次の二つ、
(3) 「新発見の下書(一)」
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。…(筆者略)…誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
(4) 「新発見の下書(二)」
お手紙拝見しました。今日は全く本音を吹きますから
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<共に『校本全集第十四巻』(筑摩書房)33pより>
もあると言っている。
鈴木 実はこれらに関しては、私は〔252c〕と「新発見の下書(一)」は連続ものであり、次のように一つにまとまると判断している。いわば
〔改訂 252c〕として
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。…(筆者略)…もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
←(すんなり繋がる)→
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。
のように一つにまとまる。
荒木 なあるほど。前者の最後が「…買ひ被っておいでに」で、後者の始まりが「なすってゐるものだと存じてゐた次第です」だから、確かに〝(すんなり繋がる)〟な。
吉田 しかも、前者では「私を遠くからひどく買ひ被っておいでに」とあり、後者では「その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます」とあるから、文章的にも「対」になっている。よく気付いたな。
鈴木 まあな。でもさ、こんなのは少し読み比べてみれば直ぐ気がつくことだろうから、逆になんか釈然としないんだよな。
荒木 そういやあそうだよな。一緒に見つかったものであれば当然その可能性を探るはずだからな。
そして、そもそも賢治って「主義などといふから悪いですな」などというような言葉遣いを普通するか?
鈴木 確かにな。
果たして「昭和4年」か?
荒木 それにしてもな、なんと昭和50年代になって突如、というかタイミングを見計ったように、露が亡くなった後に4通ものの「書簡下書」が新たに発見されたと筑摩は嘯いたわけだ。
◇「判然としている」とはいうものの
吉田 しかも筑摩は、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」(『校本全集第十四巻』(筑摩書房)34pより)と、「内容的に」の「内容」が具体的にどのようなものかも、あるいはまた「高瀬あてであることが判然」の根拠も示さぬままにあっさりと断定し…
荒木 待て待て、ここでいう「本文」とは何を指すのだ?
鈴木 それは同巻によれば、「新発見」の〔252b〕及び〔252c〕のことを指す。
そしてこの「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の下書「不5」については、
新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があると見られるので高瀬あてと推定し
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)28pより>
て、「不5」に番号〔252a〕を付けた、と説明はしている。
荒木 なあんだ、〔252b〕及び〔252c〕は露宛のものだと断定できるだけの十分な根拠がない上に、そのようなものを基にして〔252a〕も「高瀬あてと推定し」たということに過ぎないのか。そしてその段階のものを、露が亡くなったのでしれっとして公表したというわけだ。そんなことでいいんだべがね。「校本」と銘打っている割には甘いんじゃねぇ。
吉田 僕も以前、同巻が「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」としている理由をあれこれ推考してみたがなかなか合点がいかないでいる。
ここはやっぱり、読者に対してもう少し具体的な理由を提示しながら、納得のいくような説明をしてほしいものだ。そうしないと例えば、この「断定」は実は露からの賢治宛来簡があってそれを基にそうしたのだが、賢治宛書簡は一切ないと公言している手前それを明らかにできないのであろう、などと勘ぐられかねない。
鈴木 まして従前の「不5」、つまり〔252a〕
お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。…(筆者略)…けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
尚全恢の上。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)454p~より>
については当時はどのように見られていたのかというと、『校本全集第十三巻』の「校異」においては次のような「註釈」、
あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定できない。
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)707pより>
を付けていて、「あて先」は実質的には男性の誰かであろうと推測している。その「註釈」からは、それが女性であること、まして露その人であることの可能性もあるなどということは読み取れない。
荒木 それは、クリスチャン高瀬露がまさか「法華信仰をして
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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に所収の「旧校本年譜」の担当者である堀尾は、「手紙が出ました」と言っているのか。筑摩の「新発見」と堀尾のこの「出ました」とでは意味がかなり違うだろうに。
吉田 まして、ここで「新発見の書簡」とか「手紙が出ました」とあるものはもちろん「書簡」でもないし「手紙」でもない。あくまでも「書簡の下書」、単なる手紙の反古にすぎない。
鈴木 それも、堀尾は露に対して配慮をしたかのように言っているが、露が昭和45年2月23日に帰天したのを見計らったようにして、露宛かどうかもはっきりしていない書簡の下書を、しかもそれまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と決めつけて筑摩が公的に発表してしまったということは如何なものか。
荒木 なになに、ということはこの「露宛書簡下書」は「新発見」と言えないだけでなく、そもそも露宛のものかどうかも実は不確かだというのか。しかも、もしかするとこれらの書簡下書の中には<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となりそうなことが書かれているんじゃないのか。
鈴木 その可能性がなきにしもあらずだ。例えばそのうちの書簡下書の一つ〔旧不5、252a〕、これはかなり以前から知られていた「書簡の反古」の一つでもあるのだがその中に、
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年第三版)101pより>
というくだりがある。しかし、クリスチャンだった人がそんなに簡単に仏教徒に鞍替えするなどということは私には信じられないが、同巻が実はこれは露宛書簡の下書と推定されると活字にしてしまったものだから、露は賢治に取り入ろうとしてキリスト教を棄てて法華経信者になったと読者から受けとめられ、結果蔑まれ、それが<悪女>とされる一つの要因にもなっていることは否めない。
吉田 それまで信じていた宗教を異なった宗教に改宗するということは、個人の信仰上極めて重要な問題であるのにもかかわらず、露のそれに関してはどうやら筑摩は裏付けも取らずに公に発表してしまったと言える。そのような「要因」になるおそれがあるといういうことは容易に想像が付くはずのものなのに。
荒木 逆に、それが取れなかったのであれば筑摩はこんなこけおどしともとれる「新発見」を持ち出すなと俺は言いたいよ。
吉田 実際、筑摩がこれらの「書簡下書」は露宛の「書簡」であり「手紙」であると推定して活字にしてしまった結果、その影響は極めて甚大で、全国的にこのことがあたかも事実であるかの如くに流布してまってこの有様だ。それまでは「彼女」「女の人」などという表現とか仮名(かめい)「内村康江」では一部にはある程度知られていたが、いきなり実名で全国的に公表された。しかも果たしてその人なのかどうかも検証等されぬままにだ。
荒木 いくら、配慮をしたので亡くなった後に公にしたと弁明したところで、もしこのことを露が生きているうちに行った場合に、露が『それは事実でない』と異議を申し立てるということがなかったと誰が保証できるんだべがね。
鈴木 一体、露その人の人格や尊厳を何と思っているんだろうか。もし仮に、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、「死人に口なし」を悪用したと誰かに糾された場合に筑摩は果たして何と答えるのだろうか。亡くなった後ならば露に迷惑がかからないなどとよく言えたものだよ、まったく!
吉田 まあ、そう怒るな。検証もせず裏付けもとらなかったと僕らがいくら言い募っていても、それらは賢治が露に宛てて書こうとした正真正銘の書簡下書であり、しかもほとんどその下書と同じような内容の書簡が露宛てに投函されていたとなればとやかく言ってばかりもいられない。
もしかすると、全く公にされていない賢治宛来簡が実は存在していて、その中に露からの来簡もあるので「露宛書簡下書」であるということが判断ができていたので、露が帰天したのを見定めて「新発見」とかたって公にしたのかもしれんしな。
そのような可能性もないとは言い切れないから、ここは他人のことをとやかく言うのはちょっと措いといて、その「新発見」の「露宛書簡下書」が如何なるものかを実際僕らの目で見て考えてみることがまず先だろう。
鈴木 それもそうだな。それじゃ、『同第十四巻』を見てみよう。まずは、どのような「書簡下書」が新たに発見されたかについてだが、それについては次のように述べられている。
(1) 昭和四年のものとして〝〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟が新たに発見された。その内容は以下のとおり。
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招介((ママ))下すった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
私のことを誰かゞ云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝り過ぎたためこの十年恋愛らしい
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
(2) 昭和四年のものとして〝〔252c〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟も新たに発見された。その内容は以下のとおり。
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。…(筆者略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
《用箋》「さとう文具部製」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)31p~より>
つまりこの2通の書簡下書が「新発見」だったと筑摩はしている。
吉田 それから、今の2通は同巻では「本文」として載せているもので、その他にも「新発見」と銘打っているものとしては次の二つ、
(3) 「新発見の下書(一)」
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。…(筆者略)…誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
(4) 「新発見の下書(二)」
お手紙拝見しました。今日は全く本音を吹きますから
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<共に『校本全集第十四巻』(筑摩書房)33pより>
もあると言っている。
鈴木 実はこれらに関しては、私は〔252c〕と「新発見の下書(一)」は連続ものであり、次のように一つにまとまると判断している。いわば
〔改訂 252c〕として
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。…(筆者略)…もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
←(すんなり繋がる)→
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。
のように一つにまとまる。
荒木 なあるほど。前者の最後が「…買ひ被っておいでに」で、後者の始まりが「なすってゐるものだと存じてゐた次第です」だから、確かに〝(すんなり繋がる)〟な。
吉田 しかも、前者では「私を遠くからひどく買ひ被っておいでに」とあり、後者では「その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます」とあるから、文章的にも「対」になっている。よく気付いたな。
鈴木 まあな。でもさ、こんなのは少し読み比べてみれば直ぐ気がつくことだろうから、逆になんか釈然としないんだよな。
荒木 そういやあそうだよな。一緒に見つかったものであれば当然その可能性を探るはずだからな。
そして、そもそも賢治って「主義などといふから悪いですな」などというような言葉遣いを普通するか?
鈴木 確かにな。
果たして「昭和4年」か?
荒木 それにしてもな、なんと昭和50年代になって突如、というかタイミングを見計ったように、露が亡くなった後に4通ものの「書簡下書」が新たに発見されたと筑摩は嘯いたわけだ。
◇「判然としている」とはいうものの
吉田 しかも筑摩は、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」(『校本全集第十四巻』(筑摩書房)34pより)と、「内容的に」の「内容」が具体的にどのようなものかも、あるいはまた「高瀬あてであることが判然」の根拠も示さぬままにあっさりと断定し…
荒木 待て待て、ここでいう「本文」とは何を指すのだ?
鈴木 それは同巻によれば、「新発見」の〔252b〕及び〔252c〕のことを指す。
そしてこの「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の下書「不5」については、
新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があると見られるので高瀬あてと推定し
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)28pより>
て、「不5」に番号〔252a〕を付けた、と説明はしている。
荒木 なあんだ、〔252b〕及び〔252c〕は露宛のものだと断定できるだけの十分な根拠がない上に、そのようなものを基にして〔252a〕も「高瀬あてと推定し」たということに過ぎないのか。そしてその段階のものを、露が亡くなったのでしれっとして公表したというわけだ。そんなことでいいんだべがね。「校本」と銘打っている割には甘いんじゃねぇ。
吉田 僕も以前、同巻が「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」としている理由をあれこれ推考してみたがなかなか合点がいかないでいる。
ここはやっぱり、読者に対してもう少し具体的な理由を提示しながら、納得のいくような説明をしてほしいものだ。そうしないと例えば、この「断定」は実は露からの賢治宛来簡があってそれを基にそうしたのだが、賢治宛書簡は一切ないと公言している手前それを明らかにできないのであろう、などと勘ぐられかねない。
鈴木 まして従前の「不5」、つまり〔252a〕
お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。…(筆者略)…けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
尚全恢の上。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)454p~より>
については当時はどのように見られていたのかというと、『校本全集第十三巻』の「校異」においては次のような「註釈」、
あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定できない。
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)707pより>
を付けていて、「あて先」は実質的には男性の誰かであろうと推測している。その「註釈」からは、それが女性であること、まして露その人であることの可能性もあるなどということは読み取れない。
荒木 それは、クリスチャン高瀬露がまさか「法華信仰をして
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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