本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

冤罪とも言える〈悪女 高瀬露〉(続き)

2017-01-18 15:00:00 | 常識でこそ見えてくる
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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
 奇矯な行為と〔聖女のさまして近づけるもの〕
 それから念のため言及しておきたいことがまだ二つある。その一つは、賢治の露に関わる奇矯な行為についてである。周知のように、賢治は露を拒絶するために
 ・顔に灰(一説に墨)を塗った。
 ・「本日不在」の表示を掲げた。
 ・癩病と詐病した。
 ・襖の奥(一説に押し入れ)に隠れていた。
などということがまことしやかに巷間言われている。さて、果たしてこれらがどこまで事実であったのか今となってはなかなかはっきりとはわからぬが、仮にこれらの行為が事実だったとしても、常識的に判断すれば、いずれも賢治の奇矯な行為であると言われこそすれ、このような賢治の行為によって露一人だけが一方的に<悪女>にされるというでたらめさが許されないことは明らかである。
 実際この件に関しては、例えば小倉豊文は、
 彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達から私は聞いた。それを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
 <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)、48p>
ということを紹介しているし、高橋慶吾や関登久也もこのことに関して似たようなことを述べ、賢治は父政次郎から強い叱責を受けたと証言している。したがって、賢治のこれらの奇矯な行為が責められることもなしに(そして誰一人として賢治のこれらの行為を責めている賢治研究家は実際いないようだが)、一方でこのことで露だけを悪女だったと言い募ることがもしあればそれはあまりにも不公平であり、理不尽なことであり、もちろん許されることではない。
 そしてもう一つは〔聖女のさまして近づけるもの〕という詩についてである。例えば、宮澤賢治伝記の研究家として評価の高い境忠一は、
 (賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
  聖女のさましてちかづけるもの
  たくらみすべてならずとて
  いまわが像に釘うつとも
  乞ひて弟子の礼とれる
  いま名の故に足をもて
  われに土をば送るとも
  わがとり来しは
  たゞひとすじのみちなれや
   <『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43)、316p~>
と述べていて、賢治は露のことをこのように厳しく〔聖女のさましてちかづけるもの〕に詠んでいる、と境は断定している。
 そして境のこのような見方は彼一人にとどまらず、森荘已池もこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕について、
 その女人がクリスチャンだったので「聖女」というように、自然に書き出されたものであろう。
 <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭24)、101p>
と似たような見方をしている。つまり、
 「その女人(=高瀬露)」はクリスチャンだ、クリスチャンは「聖女」だ、だからこの詩の「聖女」は露である。
という論理(〈註一〉)で捉え、露は聖女のふりをして賢治に近づいて行ってその足で賢治に土をかけたと解釈し、そう認識していることになる。そして、私の知る限りでは多くの人達がそう認識しているようだ。
 したがって、少なくともこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が〈露悪女伝説〉の大きな要因の一つになったということは否定できなかろう。それは境や森をはじめとして多くの賢治研究家がこの詩を基にして、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做していると言えそうだからである。
 しかしながら、果たして賢治自身は露のことをこの詩で詠んでいたのだろうかと私は疑問に思う。それはまず、露がクリスチャンだということを当時賢治は知っていたし、さらには露のことを賢治自身が「聖女」と表現していたことさえもあった(〈註二〉)のだから、常識的に考えて賢治は露のことを「聖女のさまして」とは言わないだろうと考えられるからである。もし、クリスチャンだから「聖女」だという論理に従うならば、クリスチャンである露は「聖女」その者なのだから「聖女のさまして」とは普通言わない。逆に、露がクリスチャンであることを知っている賢治が露のことをもし「聖女のさまして」と詠んだとするならばそれは揶揄であり、賢治の人間性が問われることになる。それゆえ、「聖女のさましてちかづけるもの」とは少なくとも露以外の人物であったとした方が妥当であると考えられる。
 さらには、一般に露が賢治から拒絶され出したのは昭和2年の夏頃以降と言われているようだから、もしこのことが事実であったとしたならば、佐藤勝治が言うところの「このようななまなましい憤怒の文字」が使われている〔聖女のさましてちかづけるもの〕を、それから4年以上も経った後の昭和6年に賢治が露をモデルにして詠む訳がない、というのが常識的な判断であろう。仮にもしそのような賢治であったとするならば、その執念深さは度を超しているので問われるのは露どころか賢治の方だということになる。この点から言っても、この「聖女のさましてちかづけるもの」は露であるという判断は危うい。
 よって、以上のことだけからしても、常識的に判断すればこの「聖女のさましてちかづけるもの」とは露以外の人物であるという可能性が高いと言える。換言すれば、この詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕の誤解によって、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做され、延いては<悪女>の濡れ衣を着せられてしまった蓋然性が高いということが導かれる。
 しかも、露以外にもっと「聖女のさましてちかづけるもの」に当てはまるある女性がいたというのにもかかわらず、である。ではそれは誰かといえば、例えばあの伊藤ちゑである。
 なんとなれば、佐藤勝治が「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねたと言うところの〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を、次の二人のいずれに対して賢治は当て擦って詠むかというとことを考えてみればほぼ明らかだろう。すなわち、
・露 :癩病と詐病等をしてまでも賢治の方から拒絶したといわれている露に対して約4年後
・ちゑ:「私は(ちゑと)結婚するかもしれません――」と賢治が言っていた(〈註三〉)というちゑに対して約2ヶ月半後
となる昭和6年10月24日に、この二人のうちのどちらに対して詠むかといえば常識的に考えても、あるいは心理的に考えても、少なくとも露でないことはもはや明らかだろう。
 それは、一つには、「約4年前」に拒絶したという女性を間延びしたその「約4年後」にしかも「憤怒の文字」を連ねて賢治は詠むのかということを考えれば、普通はそんなことはあり得ない(もしそうであったとするならば、賢治の執念深さはあまりにも度を超していることになる)からだ。そしてもう一つは、一方のちゑ、つい約3ヶ月前の7月に結婚するかも知れないと賢治が言っていたというちゑに対して詠むのかを考えれば、少なくとも前者の場合よりは後者の方がその蓋然性は高かろうからである。それは、ちゑは賢治と結びつけられることを森荘已池宛書簡において拒絶しているし、藤原嘉藤治宛書簡においても同様なことを伝えているからなおさらにである。
 つまり、露以上に「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルに当てはまる女性ちゑがいるのだから、少なくとも露はこのモデルからは除かれるというのが普通の論理だろう(それとも、この詩のモデルは高瀬露だという説得力のある客観的な根拠があるというのだろうか。私の知る限りそのようなものはないし、実際にもないはずだ)。したがって、一連の賢治の奇矯な行為も、詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕も共に〈露悪女伝説〉を否定するものでこそあれ、それを裏付ける何程の力がこれらにあるというのだろうか。

<註一> クリスチャンということであれば、伊藤ちゑもクリスチャンだったという蓋然性が高い。それは、平成28年10月22日に筆者が『二葉保育園』を訪れた際、そこの責任者のお一人が、
 基本的には当時の同園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
と教えて下さったからだ。したがって、この論理は心許ないものとなる(そこには必要条件を十分条件と思い込んでいる誤解がある)。言い換えれば、それは露のみならずちゑの場合もほぼ同様に当て嵌まることになる。
<註二> 賢治の昭和2年4月18日付の詩〔うすく濁った浅葱の水が〕の中に次のような連、 
   そのいたゞきに
   二すじ翔ける、
   うるんだ雲のかたまりに
   基督教徒だといふあの女の
   サラーに属する女たちの
   なにかふしぎなかんがへが
   ぼんやりとしてうつってゐる
         <『校本全集第四巻』(筑摩書房)、66p~>
があるが、この下書稿(二)において、《俸給生活者》に対して《サラー》と賢治はフリガナを付けているから
  「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち」
という等式が成り立つことが分かる。さらには下書稿(四)においては、[あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]に書き換えているから、「基督教徒だといふあの女の」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人だと判断できる。賢治周辺の女性でこれに当てはまる人は他にいないからである。
したがって、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していたことがわかる。 
<註三> 再燃したちゑとの結婚話を持ち出して賢治は森荘已池に対して、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。最後の健康な時代であつた。
  <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)、104p>
と語ったという。
***************************** 以上 ****************************

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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