本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「小作人たれ」(賢治のダブルスタンダード)

2017-01-14 12:00:00 | 常識でこそ見えてくる










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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
 「小作人たれ」(賢治のダブルスタンダード)
 ところで、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっているが山形県最上郡稲舟村の松田甚次郎という人物だ。
 彼は、初めて下根子桜に訪ねた昭和2年3月8日に賢治から、「小作人たれ/農村劇をやれ」と力強く「訓へ」られてその通り実践し、昭和13年にその実践レポートを『土に叫ぶ』と題して出版し、それが一躍大ベストセラーに、引き続いて翌年の昭和14年には、自分の名で編集して『宮澤賢治名作選』を出版したという人物であり、こちらも増刷が繰り返されてロングセラーとなった。結果、賢治及びその作品が全国的に知られるようになったと言える。
 さて、この「訓へ」の顚末などが、その『土に叫ぶ』の巻頭の「先生の訓へ」の中に次のように書かれている。 
 先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
  <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13年)、2p~>
 さらに、賢治は続けて次のように諭したと同書は述べている。
 語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農會でもない。實に小農、小作人であつて將來ともこの形態は變らない。不在地主は無くなつても、土地が國有になつても、この原理は日本の農業としては不變の農組織である。社會の文化が進んで行くに從って、小作人が段々覺醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。從つて土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向かつて來ることが、我國の歴史と現有の社會動向からして、立證できる。そして現在の小作人は、封建時代の搾取から、そのまま傳統的な搾取がつゞけられ、更に今日の資本主義的經濟機構の最下層にあつて、二重の搾取壓迫にあへいで居るのだ! この最下層の文化、經濟生活をしのびつつ、國の大道を躬行し、食糧の産業資源を供給し、さらに兵力の充實に貢献して居るではないか! なんと貴く偉大な小作農民ではないか! 日夜きうきうとして、血と汗を流して、あらゆる奉公と犠牲の限りを盡しているる。ところがこの小作人に、眞の理解と誠意を持つものは、一人もないのだ。皆んな卑しんで見下げて、更に見殺そうとまでしてゐるのだ。こんなことで日本の皇國が榮え續けて行けるか。日本の農村が眞の使命に邁進して行けるか。君達だつて、地主の息子然として學校で習得したことを、なかば遊び乍ら實行して他の範とする等は、もつての他の事だ。眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體験することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
  <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13年)、3p~>
 まさかこのような言い方を賢治がするとはかつての私は努々思ってもいなかった。それは、「本統の百姓になって」というようなことを何度か口にしていた当時の賢治(<註一>)のことだから、「農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ」と他人にこう力強く勧めるというのであれば、それこそ賢治本人がまずその小作人になってしかるべきだと、私は思うのだがそうではなかったからだ。
 同書によれば、賢治は甚次郎に対して「私の同志ではない」と外堀を埋めながら、『小作人たれ、農村劇をやれ』と「訓へ」たことになる。もちろん常識的に考えれば、この賢治の「訓へ」方はおかしい。それは、当時、賢治の実家では10町歩ほどの小作地があったというからだ。
 ちなみに、大正4年の「岩手紳士録」には、
 宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
  <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)、272p>
と記されているということだし、飛田三郎は、
「あそご(宮澤家)の土地小作(しつけ)でら人も多がったしさ……。」
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」
(『宮澤賢治研究』、筑摩書房、281p~所収)>
という証言を紹介しているから、賢治の実家はそれなりの地主であったと言える。
 よって、甚次郎もそうなのだが賢治も「地主の息子」だったのだから、この『土に叫ぶ』の記述に従えば、論理的には「地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ」と賢治自身も認識していたはずだ。ところが、現実にはこの二人の間には決定的な違いが生じていた。小作人になれと言った当の本人はならずに、言われた方の甚次郎だけが賢治の「訓へ」どおりに故郷鳥越村に帰って実際小作人となったからだ。なぜ賢治は甚次郎にはそうなれと言いながらも、みずからは「小作人」になろうとしなかったのだろうか。このような賢治の言動は『狡い』とか『身勝手だ』と言われても仕方がないであろうことでもあるというのに。
 このことに関連しては、菅谷規矩雄氏も次のようなことを『宮沢賢治序説』において、
 宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
 なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
   <『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)、98p~>
と述べていていた。確かにその通りであり、賢治の言っていたこととやっていたことはかなり乖離している。
 いずれにせよ、どうやら、「羅須地人協会時代」の賢治は自分で〈米をつくる〉ことなどは毛頭考えておらず、ましてや自分自身が小作人になる意志などちっともなかった、という厳然たる事実を私は残念ながら受け容れざるを得ないようだ。そして甚次郎に対するこの「訓へ」は賢治にとっては大いなる矛盾を孕んでいたと言える。

 さらに賢治は続けて、「農村劇をやれ」ということに関しては次のように諭したと『土に叫ぶ』の中で述べている。
「次に農民芝居をやれといふことだ。これは單に農村に娯樂を與へよ、という樣な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず藝術生活が生まれる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる藝術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、藝術を實現しつゝあるのだ。たゞそれを本當に感激せず、これを纏めずに散じてゐる。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した曉には、農村も農家もどんなにか樂しい、美しい日々を送り得ることであろうか──と想ふ。そこから社會教育も、農村の娯樂も、農民啓蒙も、婦人解放も、個人主義打開も、實現されてくる。村の天才、これは何處にも居る。歌作りの上手な人、歌を唄うことの上手な人、踊りの上手な人、雄辯家の靑年、滑稽の上手な人等々、數限りもなく居るのだ。これを一致させ、結び綜合し、統制して一つの芝居をやれば、生命を持つて來るのだ。その生命こそあらゆる事業をも誕生せしめ、實現させて行くことになるのである。喜び乍ら、さんざめき乍ら、村の經濟も、文化も向上して行く姿が見えるではないか。 
 そしてこれをやるには、何も金を使はずとも出來る。山の側に土舞臺でも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい。唯、常に教化ということゝ、熱烈さと、純情さと、美を没却してはいけない。あく迄も藝術の大業であることを忘れてはならいない」と懇々教へられた上、小山内氏の『演劇と脚本』といふ本をくださつた。そしてこれをよく硏究して、靑年達を一團としてやる樣にと、事こまごまとさとされた。つい時の過るのを忘れ、恩師の溫情と眞心溢るゝ教訓に、首を垂れたものであつた。
 考へて見れば本當に今の農村の指導者は、一人として小作人に成り切つた心持でやつて居る者はない。農村劇など考へもつかぬ。歌や俳句ばかりが、唯一の藝術と考へるのが一般の認識だ。十年先のことを明察して居られる恩師の偉大さが、故人となられて一入深く感ぜられ、愛慕の念にかられるのである。
  <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13年)、4p~>
 そして実際に、賢治の「訓へ」どおりに故郷鳥越村に帰って小作人となった甚次郎は、村社の八幡神社境内に土舞台を作ったりして、亡くなる(昭和18年歿)まで農民劇をやり続けたという。
 では一方の、「農民劇をやれ」と強く勧めたはずの賢治自身はといえば、昭和2年2月1日付『岩手日報』紙上では、
 目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが
と記者の取材に答えているものの、その後に『ポランの廣場』を上演したことも、試演したことすらもないはずだ。だから甚次郎に対するこの「訓へ」もまた賢治にとっては大いなる矛盾を孕んでいたと言える。

 さて『土に叫ぶ』によれば、甚次郎は初めて会った賢治からその時に「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」られたことだけで、それを「終世の信條」とし、実際に彼は故郷山形の稲舟村鳥越に帰って小作人となり、農村劇を上演し続けたということになる。だから、安藤玉治が、
   たった一度の出会いが松田甚次郎の生涯を決めた。
と、『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾』 (安藤 玉治著、 農山漁村文化協会、1p)で表現している通りだし、この本のタイトルにもあるように、その甚次郎の一連の実践については、
   松田甚次郎は「賢治精神」を実践し続けたと言える。
と私も認識している。ところが一方の賢治は「小作人」にもならなかったし、「羅須地人協会時代」に「農村劇(農民劇)」を上演をしたわけでもなかった。
 ということは、賢治は自分がなれないし、できそうもないと判断したから甚次郎に「小作人たれ/農村劇をやれ」と己の夢を託したのかもしれないが、さすがにそれはフェアなことではなかろう。当然、「己の欲せざる所は人に施す勿れ」だからだ。自分が同じような立場と環境にありながら自分は小作人にはならずに、そしてまた、農民劇『ポランの廣場』を試演するつもりだと公的に発言しておきながら結局はそれも為さなかった賢治だったということにとなる。
 言い換えれば、「小作人たれ/農村劇をやれ」という賢治の理念の実践に当たっては、賢治はダブルスタンダードであったということになる。そして私のこの評が間違っていないとすれば、賢治の「小作人たれ/農村劇をやれ」という「訓へ」は正しいとしても、同じような立場と環境にある賢治はそれを実践しなかったというアンフェアがそこにあり、そのダブルスタンダードはきわめておかしいことだということを一度受け容れる必要がある、と私は覚悟した。
 あの格調高い『農民藝術概論綱要』という芸術の理論、いわば「賢治精神」を高らかに歌い上げた賢治だが、中村稔が「純粋な情熱と、壮麗な理想に心を惹かれ、心を惹かれながらも、「農民芸術概論」における方法論の貧しさに目を瞠らずにはいられない」(中村稔著『宮沢賢治』、筑摩書房、165p)と評しているように、残念ながらその方法論は具体的にはそこには殆ど示されていないと私も理解している。
 だから逆に、敢えて言えばこの「小作人たれ/農村劇をやれ」がその方法論とも言えるのではなかろうかとも思っている。したがって、
 松田甚次郎は「賢治精神」を実践したが、当の本人は「賢治精神」を実践しなかった。
という見方もあり得るだろう。
 さりながら、あの賢治に限ってそのような身勝手なダブルスタンダードなどあろうはずもなく、実は、甚次郎の方が『土に叫ぶ』の巻頭の「先生の訓へ」の中で幾分話を盛っているのではなかろうか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。

<註一> 大正14年6月25日付保阪嘉内宛の書簡では、
 お手紙ありがたうございました
 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます。
としたため、その2日後の6月27日付齊藤禎一宛の書簡には、
 …わたしくも来春は教師をやめて本統の百姓になります。百合も咲き鳥も流れる夏の盛りとなりました。ご自愛を祈ります。
とある。
    <共に『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
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