本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(70p~73p)

2015-12-25 08:30:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
 続きへ
前へ 
 “「聖女の如き高瀬露」の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
      われに属する財はなく
      わが身は病と戦ひつ
      辛く業をばなしけるを)
   あらゆる詐術の成らざりしより
   我を呪ひて殺さんとするか
   然らば記せよ
   女と思ひて今日までは許しても来つれ
   今や生くるも死するも
   なんぢが曲意非礼を忘れじ
   もしなほなれに
   一分反省の心あらば
   ふたゝびわが名を人に言はず
   たゞひたすらにかの大曼荼羅のおん前にして
   この野の福祉を祈りつゝ
   なべてこの野にたつきせん
   名なきをみなのあらんごと
   こゝろすなほに生きよかし
<『校本全集第五巻』(筑摩書房)226p~より>
荒木 へえ~たしかにこれって、さっきの〔聖女のさましてちかづけるもの〕の雰囲気とよく似た雰囲気の詩だな。
吉田 なっ、そう思うだろう。ましてこの「校異」(前掲書818p)を見れば、「最も親しき友ら」とは藤原嘉藤治のことだと判る。
鈴木 ということは、「親友」の嘉藤治にさえも言えずに悶々としていたようだから、賢治にとってこの詩もまた「憤怒」の詩とも言えそうだ。しかも、今『宮沢賢治必携』を見てみたのだが、それによれば、
 文語詩制作開始は昭和4年12月頃で、昭和5年8月以降のある時、明確な目的意識のもとに文語詩制作へ向かったと推定できる。
<『宮沢賢治必携』(佐藤泰正・編、學燈社)83pより>
とあるから、昭和6年10月24日付の〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
吉田 そこでこれらの「憤怒」の詩といえる2篇の詩と、例の「昭和6年」のものと考えられる関徳弥の『短歌日記』の10月4日、同6日のことなどを時系列に従って並べてみれば、
昭和6年9月28日:賢治東京で発病し、花巻に戻って病臥。
 同 年10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
 同 年10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
  推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
同 年11月3日:〔雨ニモマケズ〕
となる。
鈴木 今までは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうやって並べてみる何かが少し見えてきたような気がする。このような「憤怒」の詩をほぼ同時期に二つも賢治は詠んでいたようだから、賢治は余程この女性に対して腹立たしくて、苦々しく思っていた可能性が大だ。
◇「変節」してしまった賢治
吉田 そこでだ、僕はこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれるに当たっては、実はある伏線があったと思うんだ。
荒木 それはまたどんな?
吉田 それは佐藤隆房が昭和6年のこととして『宮澤賢治』に、
 賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年二七、八になる人なんですよ。」
 釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「なんでも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~より>
と記述していて、この中にその伏線があると思っているんだ。なおもちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている。
鈴木 これとほぼ同じことを森自身が「昭和六年七月七日の日記」でも述べているが、こっちの方がわかりやすいな。
吉田 僕もそう思う。とはいえ、どちらもあの昭和3年6月の「伊豆大島行」から約3年を経て再び持ち上がった賢治とちゑの結婚について、賢治自身の口から森が聞いたということを証言しているということになる。そして、先ほどの「ある伏線」とは再び起こったこの結婚問題のことなんだ
荒木 でもさ、森の「昭和六年七月七日の日記」における露に関する記述はほとんど虚構だということがほぼ明らかになったベ。これだってどこまで事実を語っているのか危ういもんだ。
吉田 確かにその危惧はあるけど、森はとりわけ親交の深かった賢治の詩友というだけでなく、直木賞を貰っているだけの実力があったのにもかかわらず、賢治のために自分を犠牲にしたとも言える程の人物だ。しかもその森が、「その日の日記を書きうつそう」と前置きした後で述べているのがいま引用した部分だとも言えるから、この場合は…
荒木 そっか。しかも森荘已池独りのみならず佐藤隆房も同じようなことを書き残しているのならば、吉田の言うとおりこの場合に限っては少なくともそこに虚構はないと思うことにしよう。ここに述べられていることは賢治にとってはどちらかというと不利な内容だから、なおさらにな。
吉田 さて一方、長編詩「三原三部」からは賢治がちゑに好意を抱いていたことは窺えるし、賢治が伊豆大島行を終えて帰花(花巻に帰ること)して後に藤原嘉藤治を前にして、
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
<『新女苑』八月号 実業之日本社 昭和16・8>
と述懐していたということだから、賢治自身はちゑとならば結婚してもいいと前々から思っていたことは十分にあり得る。
荒木 この賢治と森とのやりとりからは、賢治はちゑとの結婚についてはまんざらでもなさそうだしな。でもさ、賢治って「独身主義者」じゃなかったのか?
吉田 そこなんだよ荒木、「独身主義」のみならず、昭和6年当時の賢治はかつての賢治ではなくなっていたということが同書で引き続いて綴られていて、僕もそれを初めて読んだ時は驚天動地だった。ちなみにそれは次のように、
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円((ママ))の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
 と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(筆者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね」
 こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。((ママ))功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
<『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)107p~より>
と述べられているんだ。
荒木 じゃじゃじゃ、こりゃたまげたな。
鈴木 でも実は一番驚いていたのは賢治自身だったかもしれない。というのは、この後で賢治は森に対して、
 石川善助が何か雜誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送つたそうである。その三四冊の春本や商賣のこと、この性の話などをさして、
「私も隨分かわつたでしよう、変節したでしよう――。」
という。
<『宮沢賢治と三人の女性』109pより>
と話したということだから。
吉田 なお、「春本」についてはこの時のみならず、この後の昭和6年9月の上京時にも携えて行っていて、ちゑとの見合いの仲介者とも言われている菊池武雄にプレゼントしている。
荒木 そうだったんだ、その当時の賢治は。まあ…まさしく《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということだとすれば歓迎すべきことなのかもしれんけどな。
鈴木 それにしてもな、「功利的な考へからやつたのですが」はな…確かに賢治は様変わりしてしまった。
吉田 僕とすれば、「なんとそういう打算的な考え方でそれまでやっていたというのか!」ということでがっくりだった。まあでもそれが賢治の生き方なのだから、僕がとやかく言える筋合いのものではないけど。
◇ちゑ自身はどう思っていたか
荒木 ところでちゑの方は一体どう思ってたんだべ。
鈴木 それは、ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節からほぼ窺える。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
<『宮澤賢治と三人の女性』157pより>
 つまり、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないと自分自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえもしている。
吉田 さらに、ちゑと賢治を結びつけようとする原稿や記事について、
 今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(筆者略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口ではやはり申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どう
****************************************************************************************************

 続きへ
前へ 
 “「聖女の如き高瀬露」の目次”へ。

 ”検証「羅須地人協会時代」”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




最新の画像もっと見る

コメントを投稿