本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(74p~77p)

2015-12-26 08:00:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
<『宮澤賢治と三人の女性』158pより>
とちゑは森に懇願している。余程結びつけられることが嫌だったんだろう。「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑは森に迫っていたのだから。
鈴木 そうそうそうなんだよ。そして実際には、その記事は『宮澤賢治全集 別巻』の「解説」に、
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(筆者略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文でよく書きつくせるところではありませんから後日に讓ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店)所収「附録」72pより>
というふうに実際には載せられてしまったと判断できる。
吉田 一方で、ちゑは森がそれを為さないであろうと見通したためだろうか、再度森に同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)164pより>
とさえも言っていたのにだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑは言ってたのか…完全なる拒絶だな。余っ程結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることをちゑはきっぱりと拒絶していたのさ。
荒木 しかもちゑの懇願は結局無視された、というわけか。可哀想に。
吉田 そうなんだよ。
鈴木 ところで、ちゑは当時の言葉で言えば「新しい女」の一人であったとも仄聞している。そして一方の賢治は、その頃は定職も持たない当時の言葉で言えば「高等遊民」だった。しかも、ちゑは昭和16年2月17日付森宛書簡の中で、
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ、…
<『宮澤賢治と三人の女性』162pより>
と認めていることからは、この見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてしぶしぶ受けたそれであると言えるので、おそらく、ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 あっ、そっか。それゆえにちゑは拒絶したっていうことな。なおかつ、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが、賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。それにもかかわらず森はそれを無理矢理結びつけようとしたということか。
鈴木 それから実は、さっき引用したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ((註十二))』とちゑ自身が知り合いに対して漏らしていたということを、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念))。
 同一内容の発言を複数の人が私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間では案外知られていることでもあろう。また、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」を裏付ける同様な証言をちゑの関係者から直接私自身も聞いている(平成25年12月11日聞き取り)。
 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時の森宛書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡((註十一))でもちゑは同様なことを次のように、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎり お果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と認めている。
吉田 ちなみに、ちゑが言うところのその「御本の後に御附けになりました年表」というものを探してみると、ほら、『宮澤賢治全集 別巻』の附録の「宮澤賢治年譜」の中に、
昭和三年 三十三歳(二五八八)
六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄氏の病を療養看護中の伊藤チヱ子氏を訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和18年)附録15pより>
となっていて、ちゑの言うとおりの内容になっている。だから、ちゑの願いは結局聞き入れられなかったということがわかる。これはおそらく、戦中の出版だから著者はこう書きたかったということもあったのだろうけど。
鈴木 あっそうか。労農党の大物活動家である七雄の所へ、しかも岩手県下に凄まじい「アカ狩り」が行われていた頃の昭和3年6月に賢治が訪れていたということになれば、当時「戦意高揚のために利用され出していた賢治」にとって好ましいことではないと考えた人もいただろうからな。そこで、「伊豆大島行」は七雄と会うためではなくてちゑを訪れるためであったとしたかった、ということもあり得るわけか。
荒木 一方、ちゑは森に対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだからちゑの本心は明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の「賢治年譜」であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも「今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます」と哀願しているわけだから、ちゑが賢治と結びつけられることをどれ程嫌がっていたかはこれで決まりだべ。
吉田 また、実際伊豆大島を訪ねた賢治に対しては、先に引用した昭和16年2月17日付森宛書簡に続けて、
そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』162pより>
とあることから言えるように、その時の賢治の素振りを見て、件の「見合い」は「ぬすみ見と同じ」行為だったということにちゑは気付き、それを恥じて賢治をまともに見ることができなかった、ということを森に素直に打ち明けていると解釈できる。
 したがって、もはや「伊豆大島行」は、少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものではなかった。それは、ちゑが森に対して、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145pより>
と述懐していることからも裏付けられる。
荒木 そっか、花巻を訪ねての「見合い」がちゑにとっては「ぬすみ見」が如き行為だったことに気付いて恥じ、良心の呵責に苛まれてもはや目をふせているしかなかったということか。
鈴木 またそれは、この「伊豆大島行」に関して時得孝良氏は学生時代、ちゑを訪ねて本人からある聞き書きを得ていることからも窺える。具体的にはそのことを萩原昌好氏が『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」と言った程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものではなかった。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と記している。このような挨拶程度の対応しかしなかったということは、ちゑはもはや賢治とは結婚しないというと決意の現れだったのだろう。

 ちゑ『二葉保育園』勤務の意味
 ふと思った、そもそも当時ちゑが勤めていたという保育園とは『二葉保育園』なのだろうかそれとも『双葉保育園』なのだろうかと。
◇ちゑ『二葉保育園』に就職
 そういえばちゑが勤めていた保育園に関しては、私は今まで何ら知ろうともせずにやり過ごしてきたなと反省したところであったが、これまた萩原昌好氏が前掲書の中で次のようなことを述べていることをも知ることができた。
 チヱは、地元で育った後、大正一三年から同一五年まで二葉保育園(もと二葉幼稚園)に保母として勤務していた。これは、『光りほのかなれども――二葉保育園と徳永恕(ゆき)』(上笙一・山崎朋子著・朝日新聞社)によれば「セツルメント」の祖と言って良いもので貧民街の保育・教育が目的の園であった。但し『二葉保育園八十五年史』(昭60・1)によると、政府の援助金、や宮内庁からの御下賜金などもあって、所謂一般的なセツルメントとは言えない。そこに大正一五年まで勤めていたとあるのは、兄七雄の看病の為、休職したのである。というのは同『八十年史』には昭和三年~四年の在職期間が記されており、七雄氏の御子息の記憶によると、昭和一一年以後も勤めていたという。…(筆者略)…つまり、二葉保育園に七雄氏の死後再び戻っていたようである。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』314p~より>
 そこで、この保育園と思われる『二葉保育園』をインターネットで探して電話をしてみた。そして、『貴園は『八十年史』をご出版なさっておられるということですがお譲り願えないでしょうか』とお願いした。ちゑがそこに確かに勤務していたということを確認したかったからだ。すると、それはございませんが『八十五年史』ならばございますということだったので、それをお譲りいただいた。
 その『二葉保育園八十五年史』(社会福祉法人 二葉保育園、昭和60年)を見てみると、同書所収の「同労者職員名簿」の8頁には
   同労者職員名簿
*二葉への参加年月及び退職年月は一部資料不足で間違いもあると思われますがご了承下さい。
    氏  名  在職期間
    伊藤ちゑ 〃13・9~15
          昭和3~4
とあった。つまり、ちゑはこの保育園に大正13年9月~15年及び昭和3年~4年の間勤めたいたことが確認できた。なお、この期間以外にも同園に勤務していたらしいが、取りあえずこの保育園に勤めていたことだけはこれではっきりした。また、今まではちゑの勤めていた保育園の名が『二葉』なのか『双葉』なのかさえも私は判らずにいたが、これでその確定もできた。
 そしてついこれまでは、ちゑは保育園の保母をしていた程度の認識しかなかった私であったが、まずは、この『二葉保育園』はとても素晴らしい理念の下に運営されている保育園であるということを知った。それは、『八十五年史』のみならず『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によっても知ることができた。ここでは、後者を基にして同園のことを少し概観してみたい。
『二葉幼稚園』は、明治33年(1900年)に野口幽香と森島美根によって麹町区下六番町(現千代田区六番町)に家を借
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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