本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (1p~4p)

2016-01-23 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》














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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
はじめに
 えっ違ってたんだ。「独居自炊」じゃなかったんだ! 私は軽い眩暈を感じた。宮澤賢治といえば下根子桜時代は「独居自炊」であったとばかり思っていた。それが、そこには次のように書かれてあるではないか。
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)>
と。これはいわゆる『校本全集』(筑摩書房)の年譜(以後「校本年譜」と略記)の大正15年7月25日の記載の一部であり、賢治が下根子桜に移り住んだ年の夏の出来事である。そこに
 〝寝泊まりしていた千葉恭〟
と書かれているということは、その当時千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らしてしていたんだということになる。そうなると「独居自炊」じゃなくなるのではなかろうか。そしてそもそもこの千葉恭とは如何なる人物だったのだろうか? こんな人がいたなんていままで全く私は知らなかった……。私の頭の中はしばし混乱、そして呆然としてしまった。
 がしかし、落ち着いてみると今度はそれがいつから始まりいつまでだったのかということを無性に知りたくなった。そこで「校本年譜」の頁を捲ったり捲り直したりして、千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らし始めた「日」、はたまたいつまで一緒であったかをという「期間」を確認しようと思った。
 ところが私からすれば不思議なことに、賢治にまつわることの殆ど全てを網羅していると思っていた「校本年譜」には、調べても見直してみてもどこにもその「日」及び「期間」は明確には記されていなかったのだった。
 それならば千葉恭は下根子桜の賢治の許でいつから暮らし始めたかというその「日」、及びそこでいつまで賢治と一緒に暮らしていたかというその「期間」を特定してみたいという、ひいては千葉恭なる人物のことを知りたいという衝動に駆られてしまい、その後あちこちいていろいろと尋ね廻ってみた。本書はその記録である。
 私は花巻に移り住んでから約20年が経ったが、賢治のことを高校時代から尊敬はしていてもいままで地元に住んでいながら賢治のことはほとんど知らないままに過ごしてきた。これから千葉恭を尋ねる旅を始めれば、千葉恭のことだけではなくて賢治のことも少しは理解が深まるかもしれない。

第1章 文献等から探る千葉恭

1 千葉恭探索開始
 さて、宮澤賢治の下根子桜時代はずっと「独居自炊」だったわけではなさそうだ。その時代に一緒に暮らしていた千葉恭なる人物がいたということを知るに至って、私は戸惑いと共にこの真相が解りたいという想いが強くなっていった。
 そこで先ずは『宮沢賢治 語彙辞典』(原子朗著、東京書籍)で千葉恭を引いてみたのだが、千葉恭なる人物の項目は……?いくら頁を捲っても、頁を捲り直しても…やはりない。ということは千葉恭なる人物は賢治との関係で言えばそれほど重要な人物ではないのか。
 しかし待てよ、賢治と下根子桜で一緒に生活していたという人物がいたのならばそもそも賢治の下根子桜時代は「独居自炊」でなくなる。また寝食を共にすればお互いのことを裏も表も知り合えるわけだから、賢治研究という立場から言えばかなりの重要人物でかつ貴重な存在であるはずなのにと訝りつつ、次の手をどうしようかと思案した。
 ならばと、インターネットで千葉恭関連の文献等を検索してみたところそのリストは以下のとおりだった
【千葉恭関連文献】のリスト
(1) 「宮澤先生を追ひて」<千葉恭著、『四次元4号』(昭和25年1・2月、宮澤賢治友の会)>
(2) 「宮澤先生を追つて(二)」<千葉恭著、『四次元5号』(昭和25年3月、宮澤賢治友の会)>
(3) 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」<千葉恭著、『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)>
(4) 「宮澤先生を追つて(四)」 <千葉恭著、『四次元9号』(昭和25年7月、宮澤賢治友の会)>
(5) 「宮澤先生を追つて(五)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元14号』(昭和25年12月、宮澤賢治友の会)>
(6) 「宮澤先生を追つて(六)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元16号』(昭和26年2月、宮澤賢治友の会)>
(7) 「羅須地人協会時代の賢治」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊2号』(昭和30年1月、宮澤賢治の会)>
(8) 「羅須地人協会時代の賢治(二)」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊5号』(昭和30年5月、宮澤賢治の会)>
(9) 「賢治抄録」<千葉恭著、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年)>
(10) 「賢治と千葉恭のこと」<佐藤成著、『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、平成14年3月)>
 以上がその時点で検索出来た千葉恭関連の文献等の全てであった。それほどの苦労もせずにこれらのリストを調べられる便利な時代になったものだと感心しつつ、これだけのものがあるのならばそれらのうちのいずれかにその「日」及び「期間」が書かれているであろうと楽観していたし、期待していた。
 そこでこのリストを持って早速『宮沢賢治イーハトーブ館』に出掛けた、これらの文献そのもの等を見せてもらおうと。イーハトーブ館は大変親切だ。一般人に対しても資料は見せてくれるし、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の会員になればそのコピーも出来るという。私は即会員になって資料を見せてもらった。

2 『ふるさとケセン67号』より
 まずはタウン誌『ふるさとケセン67号』を見てみた。この冊子の中で佐藤成氏は「賢治とケセン⑫ 賢治と千葉恭のこと」というタイトルで次のようなことなどを述べていた。
 賢治が花巻農学校の教師三年目を迎えた大正13年の11月12日、賢治は学校の水田で収穫した米を大八車に積み生徒五、六人で穀物検査所へ運び、「この一俵は早生大野で、これは陸羽一三二号、これは愛国ですが、品種毎に等級検査から見た点を説明してください」と依頼した。
 このときに対応したのが千葉恭である。千葉はこの3月に水沢農学校を卒業し、10月岩手県穀物検査所花巻出張所に着任したばかりの18歳であった。彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である。…(略)…
 そして、羅須地人協会時代の賢治に千葉は「君も来ないか」と誘われ、それから一緒に自炊生活をはじめたが、千葉は「二人の生活は実にみじめなものでした」と語っている。
<『ふるさとケセン67号』)>
 そうかたしかに千葉恭なる人物は賢治と下根子桜である期間一緒に暮らしていたのだ、この文章を読んでみてそう確信した。下根子桜時代が最初から最後まで「独居自炊」だったというわけではなかったのだ、と。
 ところでこのエピソードは『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』そして『四次元7号』を基にして書いていると佐藤成氏は注釈しているので、次はこれらの冊子を見てみた。

3 『イーハトーヴォ復刊2号』より
 まずは『イーハトーヴォ復刊2号』を見てみる。この冊子の中には千葉恭が「羅須地人協会時代の賢治」というタイトルで行った講演(昭和29年12月21日)の内容が綴られていて、次のようなことなどが記されていた。
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一緒に生活して参りましたのは私自身百姓に生まれ純粋に百姓として一つの道を生きようと思ったからでした。そんな意味で直接賢治の指導を受けたのは或いは私一人であるかも知れません。
 賢治と私との関係は私が十九才のとき、花巻の穀物検査所に就任しこれで生活しようと考えておつた時代で、当時賢治は花巻の農学校の先生をしておられ、年令からすると凡そ十才も違つていたでしようか。その年は豊作で立派な米が出来、賢治が穀物検査所にこれは何等米だとか、米の食生活に及ぼす関係とかで参つたことがございます。私も学校を出たばかりで、これは何等米だという米の等級づけの理由を訊かれ、肥料成分の如何によるものだ言えば、それはどういう訳だといろいろ質問され、とうとう質問攻めにされついには怒つてそんなことには返答しないと言つてしまつたことがあり、この実習教師は生意気な奴だと思つておりました。
 勿論私は賢治であることは知つておらずただの実習教師であろうぐらいに思つておりました。そのようなことがあつた次の晩に私のところに電話があり、宿直だから学校に遊びに来るようにとの電話でしたが、下宿のおばさんにお聞きして宮沢先生であろうということを知つて出かけて行つたものでした。そんな関係からぼつぼつ賢治と知り会うようになりました。
 実際彼は変わりものでしたし、私も少し変わりものでしたので、むしろ喜んで受け入れてもらい、親しくなつて参りました。それから宿直の度毎に電話があり、出かけて種々話をして参りました。二人の語らいというものは殆ど百姓の問題ばかりでありました。
 そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。…(略)…
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会を見ていく場合常に私を叱咤するようになつて参りました。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
 ここで千葉恭が語っている穀物検査所での賢治との出会いとは、佐藤成氏が言うところの大正13年11月12日のそれのことであろう。賢治の質問攻めに千葉恭はかなり辟易したであろうことがありありと目に浮かぶ。なお、ここに松田甚次郎という名前が出てきていることは注目に値する。後でこの部分の千葉恭の証言は大きな役割を果たすことになるからである。
 さらに千葉恭は次のように続ける。
 私は農事関係の指導面から賢治をみた場合、彼は科学的な農民の指導者であつたと感じています。これらのことはさつきの話にもありましたが、一つの例は、賢治が各町村の講演を頼まれたとき私も腰巾着としてお伴をしたことがあります
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』






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