本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (5p~8p)

2016-01-24 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
が、彼は自分の知っている範囲のことは徹底的に教えてやろうという態度がうかがわれました。しかしそれは知識程度の低い百姓にとつては架空のことに感じられたようです。あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので、三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた。話が終わつて後に、自分の方からも説明しなければならないようでした。…(略)…
 羅須地人協会の設立の目的というものは、自分に語つたところによると、百姓に稲の目的を言っても医者が病人を診断して薬を与えると同じでその細部に関してはわからないから、自分達が土地設計をして農民を指導していかなければならない。それには気候・土質・肥料の問題が大切であり、これは農芸化学としても一番面倒で而も最も大切なところであるが、現在の百姓はそんなことは知らないし又知ろうとしない。これを知らしめることが必要なのだ。百姓の喜びは収穫の喜びなのだ、というわけで毎年十一月~翌年二月まで集会をもつた。最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して〝いちの川〟というところの土間を借りて勉強しておりました。次の年から忙しくなつて私も応援を頼まれてお手伝いしました。
 賢治は三年間肥料設計をしてやり、その後は結果をみて設計いたしましようと言つておられたが、惜しいかなその結果を見ずして死なれたわけです。
<『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)>
 というわけで、上述の証言から次のようなことなどが言えそうだ。
(1) 千葉恭自身が賢治と一緒に暮らしたと言っているのだから、賢治が下根子桜でずっと「独居自炊」生活をしていたわけではないというのは事実であったのであろうこと。
(2) 千葉恭にしてみれば下根子桜の寄寓は賢治からの誘いによるものであったということ。それは賢治自身が一人では自炊生活をやっていけそうになかったから誘ったのだろう、と千葉恭は忖度していたこと。千葉恭は賢治を不憫に思って寄寓したのではなかろうかということ。さらには、これだけしばしば賢治は千葉恭と農業や農民のことを語り合った仲なのに、花巻農学校を辞める理由を一切明かさなかったこと(そのつれなさが彼をして「賢治は何を思つたか知りませんが」という突き放した表現になっているのではなかろうか)。
(3) 千葉恭にしてみれば、二人での生活は実に惨めなものだったこと。
(4) 千葉恭の言い回しは慎重だが〝徹底的にいじめられた〟という表現や〝松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた〟という表現から、弟子入りしたという立場からか賢治は二人に対してかなり厳しい指導をしたようだということ。
(5) 「あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた」と千葉恭が評価していることから、賢治の講演はそれほど実効的ではなかったとも考えられること。また、千葉恭は批判精神もあるということが解る。
(6) これだけのことが賢治と千葉恭との間にありながら、羅須地人協会に集っていた他のメンバーの口からは千葉恭に関するエピソードが語られていないのではなかろうかということ。
(7) 賢治と千葉恭との間の関係は結構微妙だったのではなかろうかということ。
などということが言えそうである。ただし残念ながらここにもあの「日」及び「期間」に関してははっきりとは書かれていなかった。

4 『イーハトーヴォ復刊5号』より
 では次は、前述した講演会後の質疑応答<*1>を見てみたい。それは『イーハトーヴォ復刊5号』に「羅須地人協会時代の賢治」と題して掲載されているので、その中から幾つか抜粋して見る。
問 講演会はどの様にしてもたれたか。
答 百姓たちが進んで賢治に依頼したようだ。賢治も又その依頼の真劍さに対して喜んで出かけて行つた。聴講者は七、八〇人、多いときは三百二十人位で、学校や役場の二階を利用した。話しぶりはむしろ詳細に過ぎるという具合なのでその点を忠告すると、〝僕はそう思わないが〟と言つておられた。
 私たちが五の頭で先生が二十では、こちらがまいつてしまう。賢治は自分の知つていることは全部何でも、而も限られた時間のうちに話して聞かせたいのだし、賢治自身ごく簡単なことと思つていることが、人々にとつては案外むずかしいことであつた。これらは大正十四、十五年の頃のことである。
 それで講演会の結果、話が分からなければ、設計肥料をして上げるから来るようにと言つた。昭和三年頃までに二、三千人の人に設計してやられたことと思う。
問 羅須地人協会ので生活について。
答   …(略)…
賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだつた。
農民の指導は、その最低の生活をほんとうに知つて初めて出来るのだと言われた。米のない時は〝トマトでも食べましよう〟と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
    ×
金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけた<*2>こともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。蓄音器は立派なもので、オルガンくらいの大きさがあつたでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
   …(略)…
ある時、レコードをかけてもらつたことがあつて、しばらく黙つて聴いておつたが、途中で私が思わず〝いやッ、そこがいいところだ〟と言つてしまつた。賢治は大きな声で〝こらッ〟とどなつた。全部聴き終わつてから後で、〝人間の感情としては、よいところはよいと言うべきではあるが、全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ〟と言われた。…(略)…
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
<*1>この講演及び質疑応答は昭和29年12月21日の「賢治の会」例会で行われたものである。
<*2>この蓄音器の件については、千葉恭自身が別なところで語っている内容とやや異なっているがこのことに関しては後述したい。
なお、この当時千葉恭は農林省岩手県食糧管理事務所和賀支所長であった。
 さてこれらの質疑応答から窺えることとして次のようなことがあげられると思う。
 千葉恭が一番困ったこと
 それにつけてもこの質疑応答の中でつい苦笑してしまったのは、千葉恭が
「一番困つたのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだつた」
と述懐しているところである。というのは、森荘已池が
 すると賢治は、「御飯は三日分炊いてあるんス」と、母をおどろかした。お母さんが、「どこに。あめてしまうべ」と言うと、「ツボザルさ入れて、井戸にツナコでぶら下げてひやしてあるンス―」と答えた。
<『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)>
と語っていることを思い出したからである。
 千葉恭が下根子桜に寄寓していた頃は彼に米を毎日買いに行かせている賢治なのに、森の語るこのエピソードはそれこそ「独居自炊」生活時代のことだろうが、賢治自身が御飯を炊く時には三日分をまとめて炊いている。ということは賢治は毎日炊きたての御飯を千葉恭に食べさせたかったからそうしたのだろうか、それとも賢治はダブルスタンダードだったのだろうかなどと考えてしまった私はつい苦笑いしてしまった。賢治も案外人間的じゃないかと。

 賢治の気性の激しさ
 そして、この質疑応答で一番意外だったことは
「途中で私が思わず〝いやッ、そこがいいところだ〟と言つてしまつた。賢治は大きな声で〝こらッ〟と、どなつた」
というくだりである。
 賢治の気性は案外激しいところもあったと聞いてはいたが、このエピソードはまさしくその一例かなと思った。また、千葉恭は賢治から「自分も徹底的にいじめられた」とか「〝こらつ〟の一かつの声」でどやされたと言っているわけだが、その具体例の一つがこれなのだろうと私は認識した。
 賢治の物の見方考え方
 次にこの質疑応答でなるほどと得心したことは、賢治は
「全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ」
と語っていたということである。というのは賢治が伊藤忠一へ宛てた手紙の中で
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆どあそこ(筆者註:「羅須地人協会」のこと)でははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいのもので何とも済みませんでした。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と謝っていることをあるとき知ったが、そのことに対して私はやや違和感を感じていた。
 ところが今回、「全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ」と賢治が諭したということを知った。すなわち、全てが終わった後、初めて総体を振り返って批判せよという物の見方と考え方を賢治はしていたことになる。そこでこの論理に従えば、伊藤忠一に宛てた手紙で賢治が語っていることは下根子桜での営為を総括しての自己評価を正直に吐露しいたいうことになる。したがってこの賢治の悔恨はそのまま素直に受けとめればいいのだと、すなわち百%の納得をしていいのだと得心した次第である。
 冷静に考えてみれば賢治は何一つ全う出来なかったと誹る人もあるが、そのことは本人の賢治自身がそれ以上に自覚していてさぞかし忸怩たる想いであったに違いないと、下根子桜から豊沢町の実家に戻って病臥していた頃の賢治の心中を察した。そしてその賢治の悔恨の情が「雨ニモマケズ」の中で〝デクノボー〟という表現をなさしめた一つの要因だったのかな、と。

5 「宮澤先生を追ひて」より
 ではここからは、『四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見ていきたい。
 賢治と出会う前までの千葉恭
 まずはその初回が載っている『四次元4号』から見てみよう。そこで千葉恭は次のように述べている。
 現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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