本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「演習」とは「陸軍大演習」のことだったのだ!

2015-11-20 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 「演習」とは「陸軍大演習」のことだったのだ!
 さて前掲した名須川益男の論文によれば、昭和2年の時のことであったと言える、賢治と川村の「交換授業」が一段落した時に賢治は、
 『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
               <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
という。ということであれば、賢治は『日本に限ってこの思想による革命は起こらない』『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町を回ったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。

 ところが実はそうとばかりも言えなさそうだ。同じく名須川によれば
 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談 '67・8・8採録)
               <『國文學』昭和50年4月号(學燈社)126p~より>
ということだから、その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだからだ。

 そしてシンパということに関しては、父政次郎も小倉豊文に対して
 彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達から私は聞いた。それを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
               <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48pより>
と話したという。
 一方川村尚三も、
 賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。賢治は仏教だったが私は阿部治三郎牧師から社会科学の本を読ませてもらい、目をその方に開かせてもらった。
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『おれがかりてくれる』と言って宮沢町の長屋-三間に一間半ぐらい-をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
と述べているということだから、賢治は少なくとも労農党の有力なシンパであったし、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた『啄木会』の賢治は会員でもあったということを川村は証言しているということになる。

 これだけの証言が揃った以上、賢治はかなりの期間にわたって労農党の少なくとも強力なシンパであったことは間違いなかろうから、官憲からはかなりマークされていたであろうことはもはや疑いようがない。
 そこでもう少し『啄木会』のことを調べてみようと思って資料を漁っていた時、たまたま手に取った『啄木 賢治 光太郎』の中に、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(投稿者略)…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
              <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~より>
という記述に出くわした。その途端私は、
    これだっ、 件の「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったのだ!
と直感した。
 そして思い出した。たしか、何かの本に
 八重樫賢師は賢治から教えを受けた若者で、下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていたという。しかもこの八重樫は陸軍大演習の直前に要注意人物ということで北海道に所払いとなり、客死した。
というような内容のことが書かれていた<注1>はずだったということを。
 それからもう一つ、賢治の教え子の小原忠が論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
               <『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4pより>
とも証言したいたことも思い出した。もちろん小原が言うところの「昭和三年の大演習」とは「陸軍大演習」のことであり、小原はこの時に賢治が取り調べを受けたか否かを明言してはいないが、その可能性がかなりあったということを少なくとも示唆している。

 こうなってしまうとただごとではない。「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」で川村が捕まり、八重樫が北海道に追放されたのだから、彼等との繋がりの強かった賢治に官憲の手が伸びないはずがない。そして前述の小館長右衛門は当時戦闘的な活動家だったと聞くが、この時の「アカ狩り」によって彼が小樽に奔ったのも昭和3年8月だったはずだが、賢治が下根子桜から撤退したのも昭和3年8月だ。「陸軍大演習」と無関係だったということはもはや否定しがたいから、あの「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったのだという直感は案外当たっているかもしれないし、定説は覆るかもしれない……。

<注1> 名須川溢男の論文「賢治と労農党」には、
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
とある。               <鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~より>

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