本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「逃避行」していた賢治

2015-11-19 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 「逃避行」していた賢治 
 ところで、実は昭和3年6月の上京は「東京への逃避行」だったという見方もあるということを知った。それは、佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していたことなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(投稿者略)…
 東京についてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
 「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気にみえるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(投稿者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
               〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~より〉
という見方をしていたからだ。

 一方、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜の手入をしていた、昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいをだした。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように、『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうも有り難う、ところで講義してもらったがこれはダメですね。日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。…(投稿者略)…(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
                 <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという<注1>。

 そして前掲書によれば、この伊藤七雄は当時労農党員であったということになる。すると、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうだから、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
 「私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
               〈名須川溢男「賢治と労農党」より(『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店))所収〉
からも裏付けられるだろう。

 思い返してみれば、昭和3年といえば3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月11日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという。となれば、前述したような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃げだそうとしたということは十分にあり得る。しかも、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、
    (賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが
と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたであろうことはほぼ疑いようがないから、なおさらにあり得たことだと思う。
 逆に、これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に3週間弱もの間羅須地人協会を留守にしてしまったのだから、花巻に戻ったら賢治はそのことを悔いて、帰花直後からは周辺の農家の水稲の生育状況を心配しながら大車輪で見廻っていたはずだ。ところが賢治は、花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていたと言っている。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に3週間弱もの間羅須地人協会を留守にしていただけでなく、その農繁期に稲作指導等をまったくしない約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この観点からも、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに否定しきれない。さらには、この当時賢治は高瀬露との関係でトラブルをかかえていたからそこからも逃げ出したかったという可能性も否定できないので、「東京への逃避行」はなおさらにあり得た。

<注1> 名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長は泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
                <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220pより>
ということも述べている。

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