本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治

2017-01-15 08:00:00 | 常識でこそ見えてくる














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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 さて、先程私は何故、
 実は、甚次郎の方が『土に叫ぶ』の巻頭の「先生の訓へ」の中で幾分話を盛っているのではなかろうか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。
と述べたのかというと、それは以下のような甚次郎の「偽り」を知っていたからだった。
 同書の巻頭「先生の訓へ」は次のようにして始まっている。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)、1p>
 そこで私はまず思った、「毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた」とはなんのことだろうか、と。新聞が連日報道し、甚次郎がこのような慰問をするくらいのことだから、その旱魃による被害は相当深刻であったであろうということも容易に想像がついた。
 そこでまずは「旧校本年譜」を調べてみたのだが、「赤石村」についての註釈も、この「旱魃」に関する記述もともに私には見つけられなかった。だがそのヒントがあった。それは、「旧校本年譜」の昭和二年三月八日の項に、
 「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
  [?]pple
2.30. for morioka 運送店
という記述があったからだ。そうか、甚次郎は当時日記を付けていたのか、と。しかも、ここには同日に赤石村を慰問したことは記されていないぞ、と。
 ということなればと、当時の甚次郎の日記を見せてもらおうと思って甚次郎の出身地山形の新庄に私は向かった。幸い、甚次郎の当時の日記を見ることができ、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日には次のようなことなどが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
 赤石村長ト面会訪問 被害状況
 及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
 国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
 分配、二戸訪問慰聞 12.17
 for moriork ? ヒテ宿ヘ
 後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
 at room play 7.5 sleep
 赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
 聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
 人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
 タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
 明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
 余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
 困ツタモノデシタ
 快晴  赤石村行 大行天皇崩御
           <大正十五年の『松田甚次郎日記』より>
 よってこの日記に従うならば、
 旱害によって苦悶していた赤石村を甚次郎が慰問していたのは実は大正15年12月25日であった。
ということになる。そういうわけで、甚次郎は『土に叫ぶ』の「先生の訓へ」の中で、下根子桜を初めて訪問した日のことを偽っていたことを私は知っていたので、甚次郎は話を「盛っている」虞があると思ったのであった。
 しかしよくよく考えてみれば、この日はそれこそ「大行天皇崩御」とあるように、大正天皇が崩御した日だったからそれを憚って巻頭にはあのように書いたという解釈も成り立つということに気が付けば、もともと、甚次郎の『土に叫ぶ』を始めとする彼の著作からは賢治に対する深い崇敬の念があることはよくわかるから、それ程話を盛ってしまう人でもなかろうととりあえず安堵した。
 さて、これで一応疑問は解けたのだが新たな疑問が生じてきた。それは、甚次郎が「毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた……この村を見舞つた」というくらいだから、この時の同村の旱害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろうから、下根子桜に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私からすれば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。

 そこで、同年の旱害に関する当時の新聞報道等を調べてみると、『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていた。そして12月頃に入ると、赤石村を始めとする紫波郡内の旱魃による惨状がますます明らかとなる一方で、例えば、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』
村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
◇同年12月15日付『岩手日報』
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小学校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小学校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載っており、東京の小学生を始めとしてあちこちから陸続と救援の手が「本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」へ差し伸べられていた。
 そして同年12月22日付『岩手日報』には、
 米の御飯を くはぬ赤石の小学生 大根めしをとる 哀れな人たち

という見出しの記事があったから、おそらく松田甚次郎はこの日の新聞報道を見て居ても立ってもいられなくなって、同月25日に赤石村を慰問したに違いない。
 ただし、この年末12月25日に大正天皇が崩御したので、それ以降この旱害報道は暫し影を潜めたが、年が明けて昭和2年になると再び連日のように旱害の惨状等が報道され、同年1月9日付『岩手日報』などは、その一面がほぼ大旱害についての記事であり、

その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村も同様であったことが分かるものだった。

 ではこの年の稗貫郡の場合はどうだったのだろうか。まずは菊池信一の「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」に、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終わつた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみ待つてゐた日が酬いられた。
  <『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)、417p>
と述べられていることからは、菊池の実家のある稗貫郡好地村でも旱魃が酷かったということが導かれるから、あの賢治のことだ、当然この年の旱魃は稗貫でも起こっていたということを把握していたはずだ。
 それは、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』には、
 稗和両郡 旱害反別 可成り広範囲に亘る
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模様
という報道があったから、この記事などからも賢治は稗貫郡の旱害を知っていたはずだということが窺える。
 ちなみに、大正15年の岩手県産米の作柄がどうだったのかというと、『岩手県災異年表』(昭和13年)によれば、
  大一四年 豊作  米の反当収量 二石一斗七升
  大一五年 不作
  昭和四年 不作
  昭和六年 不作   
  昭和八年 豊作  米の反当収量 二石二斗五升  
  昭和九年 凶作
とあり、「不作」年と「凶作」年の場合の稗貫郡及びその周辺郡のデータを同年表から拾って、「当該年の前後五ヶ年の米の反当収量に対する偏差量」をグラフ化してみると次頁の図表《図1 当時の米の反当収量》のようになる。
 よって大正15年の、赤石村を始めとする紫波郡の大旱害はやはり相当深刻なものだったというこが改めてわかるが、稗貫でも結構不作だったということもまたわかる。ということであれば、あの賢治のことだからこの旱魃や旱害に対して、巷間いわれているようにさぞかし「農民のために徹宵東奔西走した」であろうし、全国から陸続と救援の手が差し伸べられているというのに地元の我々が負けてはならじと、罹災者を救援せんとして賢治は先頭に立って協会員とともに救援活動に粉骨砕身したことであろう。
 では、下根子桜に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものは何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌
    《図1 当時の米の反当収量》
<『岩手県災異年表』(中央気象台盛岡市台、昭和13年)>
の圖解、あるひは茶色の原稿用紙に靑く謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(筆者略)…私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(筆者略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
  <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、395p~>
 さて、この伊藤の語るところの「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」の「その頃の冬」とは何年の何月頃のことだろうか。まずは、伊藤が語っているこのような「樂しい集まり」が行われたのは少なくとも昭和2年の4月頃以降ではなかろう。それ以降の賢治は、農民等に対しては肥料設計などの稲作指導しかほぼ行っていなかったいわれているからである。とすれば、それ以前の冬にこのような事柄が行われたであろうし、『新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は、
◇大正15年
11月 29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 上京
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
     エスペラント、タイプライター、オルガン習
     得図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊     藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義 農業ニ必須ナル化学ノ基     礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を     引いていった。
ということだから、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」というところの「冬」とは本来ならば大正15年12月頃~昭和2年2月頃の間となろうが、この場合それはもっと限定されてしまって、
 伊藤が、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という期間は昭和2年の1月のほぼ1ヶ月間のことである。
となってしまうであろう。なぜならば、その冬の12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は「悲しい日がきてゐた」ということでもはやそれ以降は、楽しい集まりになり得なかったと判断できるからである。

 したがって逆に言えば、隣の郡内の紫波一帯は大旱害であることが知れ渡っていた昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集まりの日」を持ってはいたが、彼等がこの旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりした昭和2年1月であったとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 しかし、「農民のために徹宵東奔西走した」と巷間言われている賢治ならば、東京の小学生でさえも義援金を贈っていたというほどのこの時の紫波郡内の大旱害でもあるから、賢治はその救援のために徹宵東奔西走していたはずだ。それは、老農とか聖農といわれる賢治にまさにふさわしい献身だからでもある。当然そのような賢治の献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだ。
 ところがいくら調べてみても、残念ながらそのような証言等は誰一人として残していない。したがって、賢治はこの大旱害の際に、何一つ救援活動をしていなかったと判断せざるを得ない。しかも、実は下根子桜に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。
 となれば結局のところ、賢治は大正15年の大旱害で近隣の多くの農家が苦悶していた時に松田甚次郎とは違って慰問することも、自身が、あるいは協会員と共にその救援活動をしていたわけでもなく、それどころか、賢治はこの時のヒデリに無関心であったと言わざるを得ない。なおかつ、羅須地人協会の活動は地域社会にリンクしていなかったとなってしまうのではなかろか。
 どうやら極めて残念なことだが、この時の大旱害に於いては、
  「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
であったということになってしまうし、それだけでなく、賢治はこの時の大旱害に対して無関心でいたということになってしまう。延いては、
 少なくともこの当時の賢治も羅須地人協会も、そしてその活動も地域社会とはリンクしていなかった。
という、思いもよらぬ結論を出さなければならなくなってしまった。だから当然、この無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていったはずだ。そして、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうか。   
 なお、今回のこの項目に関しては拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』も参照にされたい。
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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