本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(22p~25p)

2015-12-19 08:30:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸してる森君の事、幹次さんの事
♦昭和2年6月5日付『岩手日報』
 「『牧草』讀後感」 下山清
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
♦昭和2年6月16日付『岩手日報』
 「郷愁雑筆」 上田智紗都
 五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(筆者略)… 
 いつも考へてゐながら森佐一には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。         
(終)
 したがってこれらの一連の報道からは、森は病気のために帰郷し、重病だったので病臥していたことが当時かなり世に知られたということになろう。しかも森は、「岩手詩人協会」を設立して同人誌「貌」を発行していたということだから交遊関係も広く、「一九二七年」頃の森は長期療養中だったことは詩友の間では特によく知られていたことがこれで確実だろう。
 しかも、森からはさんざん世話になったあの下山清が「森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院した」と言っているのだから、これは事実であったであろうと判断できる。また、
脚気衝心:脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至る。(『広辞苑 第二版』より)
ということだから、
   当時の森荘已池はかなり重篤であった。
とも言えよう。
 ところがこの♦昭和2年6月16日付『岩手日報』の記事以降、森の消息に関する記事はぷっつりと途絶えてしまう(見落としたのだろうか)。一方で、前掲の『森荘已池年譜』における昭和2年8月以降の主な記載事項は以下のとおりである。
♦8月10日 (劇)愛欲を見る(岩手日報)
♦9月1日 (詩)枯れる(銅鑼 №12)
♦9月8日 農民劇指導原理(岩手日報)
♦10月7日 第一回素顔社(岩手日報)
♦10月13日 友へ送る(上)(岩手日報)
♦10月14日 友へ送る(下)(岩手日報)
 そこで、『岩手日報』の実際の記事をそれぞれについて見てみると、次ようなことなどがそこには載っていた。
♦8月10日付『岩手日報』
 「愛欲を見る」 森佐一
 確か、第一幕が終つた時と思ふ。小泉一郎氏と阿部康蔵氏から、何か、今夜の印象を、日報に書けと云はれた。…(筆者略)…友人たちよ自分はうそはつかない。ほんとうにいゝものだ。ぜひ見に行つてくれ。細評はいづれ後にして、でひ((ママ))行きたまへとだけぜ筆((ママ))をおかう。
♦9月8日付『岩手日報』
 「農民劇指導原理」 森佐一
   序
 近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになつた。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。
♦10月7日付『岩手日報』
 「第一回素顏社展の印象」 森佐一
 スケッチ板五六枚描き、皆割つて了つたといふ經歴より持ち合さない私が、素顏社展の印象記を書くのは隨分をこがましい。が私は照井莊助君のあの眞面目さと熱に對して、どうしても黙つてをられない氣持を持つてゐる。
♦10月13日付『岩手日報』
 「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」 森佐一
 『銅鑼』同人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
 彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。彼はまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自稱しながら、文學年をあつめて東京にゐて、雜誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
 作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
 みつちやんと
 やつちやんは
 蓮花田のなかで
 まるまるをした。
   …(筆者略)…
 かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮澤賢治詩集『春と修羅』の中の、無聲慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に觸れるのである。
♦10月14日付『岩手日報』
 「友へ送る―彼の詩集に就いて―(下)」 森佐一
  (内容省略)  
(終)
 以上が、昭和2年6月中旬~12月末日までの『岩手日報』の森関連の記事の全てである(と思われる)。したがって、この期間の森の病状や回復状況に関する情報は全く得られないが、少なくとも執筆活動等はできたようだということがわかる。
 さて、ではこれらのことを少し考察をしてみよう。まず8月10日付及び10月7日付『岩手日報』の記事についてだが、前者からは少なくとも森はこのとき実際に演劇「愛欲」を観に行っていたであろうことがわかるし、後者からは実際森がその展示会に行っていると判断できる。したがってこの頃になると、森は長期療養中の身とはいえ、多少は出歩けるほどの病状までには回復していたということになろう。
 次に、9月8日付『岩手日報』に寄稿している森の「農民劇指導原理」の文中の「過日、本紙に出た高橋剛君の文云々」という記述からは、病臥中の森は『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうことが窺える。なぜならば、確かに約一ヶ月前の同紙には高橋剛の「農民劇に就いて」という連載記事が載っているからである。
 ところで、この9月8日付『岩手日報』に載った森の「農民劇指導原理」に関しては、その一ヶ月前の8月8日には山形の新庄から松田甚次郎がわざわざ下根子桜を訪ねて来て、初めて上演する農民劇について、賢治からは「色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて」もらったということがよく知られているから、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、そのような話が森と賢治との間に交わされていた可能性が頗る高いはずだが、そのことはこの寄稿では全く触れられていない。
 さらには、10月13日、14日付『岩手日報』では、森は農民詩人・坂本遼の詩集『たんぽぽ』を激賞していることがわかる。そして、その批評の最後に賢治の名が出てきているが、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、少なくとも二人の間でそのことに関して何らかのことを話題にしていたはずだ。とりわけ、当時の賢治は「農民詩」といってもいいような詩を沢山詠んでいた頃だからである。ところが「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」でも「同(下)」でもそのことに関しては全く触れられていない。
 しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の「「くぬぎ」第三號瞥見」にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたと判断できる森はこの記事を見逃すはずもなく、もし森が「一九二七年の秋の日」に下根子を訪ねたということであれば、日頃より賢治を敬愛していた森は、「いや賢治は健在なり」というようなことを一連の寄稿において必ずや触れていたはずだが、それがない。
 以上、もし森が病身を押して「一九二七年の秋の日」に下根子桜を訪ねたのであったということであれば、その時のことを森が他の寄稿と同様に『岩手日報』に寄せない訳はないと思われるが、そのような投稿は一つも見つからないし、一連の寄稿の中でさえもそのことに一言も言及していない。
 したがって、当時の『岩手日報』のこれらの記事から判断しても、この頃の森はまだまだ重篤であったがため、多少の外出はすることができてもそれはせいぜい盛岡近辺だけであり、そこからわざわざ花巻までやって来てしかも下根子桜で一泊できるようなところまでは回復していなかったようだ。
 どうやら、森が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということはほぼあり得なかったようだと判断した方が妥当なようだ。
◇不自然な「一九二八年」の表記
 私は時々早池峰などに登る。ある時、山仲間の荒木と吉田と三人でその計画を立て終えた際のことである。
        ‡‡‡‡
吉田 ところで鈴木はこの前、森が「一九二七年の秋の日」に下根子桜を訪ねたということはほぼあり得ないとか、「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったとか言ってたよな。その理由わかったか。
鈴木 森がそのように書くわけにはいかなかったようだというところまではわかったが、よくわからん。
吉田 それじゃいいヒントを教えてやろうか。
鈴木 おぉ、ありがたい。頼む。
吉田 それはさ、『宮澤賢治と三人の女性』の中で、西暦と和暦がどう使い分けられているかを調べてみることだ。
鈴木 うん?どういうことだ。
荒木 論より証拠だ。やってみるべ。
鈴木 それじゃ、実際に調べてみるとするか。まずは「Ⅰ 挽歌を中心に」においてだ。
 24p :大正六、七年頃
 〃 :昭和十八年十月
 〃 :大正十二年
 27p :明治三十一年十一月五日
 30p :大正二年
 33p :明治四十五年の一月
 34p :大正二年
 36p :大正四年四月
 37p :大正七年十一月
 〃 :大正七年十二月二十七日
 42p :昭和十四年十一月二十三日
 52p :大正八年二月三日
 〃 :大正七年
 53p :大正九年九月二十九日
 〃 :大正十年七月
 〃 :明治十五年八月
 〃 :昭和二十三年
 54p :大正十一年
 61p :大正十年の九月
 63p :昭和十四年
となっている。
 それでは次は「Ⅱ 昭和六年七月七日の日記」についてだ。
 71p :昭和六年七月七日
 72p :大正十五年
 74p :一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねた……
 77p :大正十五年
 93p :昭和三年
 〃 :昭和三年八月
 96p :昭和六年
 104p:昭和六年七月七日
となっている。
 そして最後の「Ⅲ『三原三部』の人」についてだが、
 114p:昭和十五年十二月十五日
 〃 :昭和十六年
 144p:昭和十五年の十一月
 〃 :昭和八年
 〃 :昭和三年六月十三日
 146p:昭和三年
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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