本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(18p~21p)

2015-12-19 08:00:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
「昭和2年の秋」となっていないし、しかも、こちらは「昭和六年七月七日の日記」にあるような「一九二八年の秋」でもなくて、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋」、すなわち「大正15年の秋」ということになっているからである。
 しかし、この『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃であれば、『校本全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)が発行されてから10年以上も経っているのだから、同巻所収の「賢治年譜」は関係者の間ではもう周知定着していただろう。したがって常識的に考えれば、森が下根子桜を訪問した時期が「昭和2年の秋〔推定〕」となっていることや、その通説が「昭和2年の秋」となっていることを森自身が知らなかったはずなかろうと思われるのに、である。
 さてそこで、ここでまでのことを整理してみれば森はその訪問時期については、
・『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)所収「追憶記」          →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)所収森荘已池著「追憶記」   →「一九二八年の秋」
・『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年1月)所収森荘已池著「昭和六年七月七日の日記」                 →「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月)所収「昭和六年七月七日の日記」→「一九二八年の秋」
・『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年10月)所収「高雅な和服姿の〝愛人〟」                  →「大正15年の秋」
とそれぞれに記述していることになり、いずれの場合も通説となっている「昭和2年の秋」を意味するような記述の仕方は決してしていないことがわかる。ということは逆に言えば、実は森は「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったということであり、やむを得ず、「一九二八年の秋」としたのではなかろうかという新たな疑惑が生ずる。
 となれば、「旧校本年譜」の
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という註記をこのまま放置しておくわけにはもはやいかないだろう。もっと踏み込んで、なぜ森は通説となっている「一九二七年の秋の日」と書くわけにはいかなかったのだろうかという疑問に答える必要がある。言い換えれば、先に懸念したように、この下根子桜訪問自体が果たして実際に行われていたかどうなのかがさらに危ぶまれことになってきたのである。
◇当時森荘已池は長期療養中
 さて、なぜ森はそう書くわけにはいかなかったのだろか。そんなことなどをあれこれ考えていた矢先、私はたまたま眺めていた平成26年2月16日付『岩手日報』の記事に釘付けになった。同紙の5面に、毎週日曜日連載の「文學の國いわて」が載っていて、次のようなことがそこに述べられていたからだ。
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…
 荘已池は卒業後も東京に残り、文筆活動を続けるつもりだった。ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
 昭和三年六月、病の癒えた荘已池は、盛岡中学時代から投稿を重ねていた岩手日報へ学芸記者として入社。会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった。
<「文學の國いわて」(道又力著、平成26年2月16日付      
『岩手日報』連載)より>
 そこで私は念のため、浦田敬三編『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)も見てみた。これらを見比べてみた結果、
・大正15年4月 東京外国語学校ロシア語学科に入学。
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷。
 その後盛岡で長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
と整理できる。つまり、当時の森は心臓脚気と結核性肋膜炎という重病に罹っていて盛岡で長期療養中だったのだ。
 となれば、快癒したという昭和3年6月以降でさえも森は「会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった」というくらいだから、病が癒える前の、通説となっている「昭和2年の秋」の下根子桜訪問があったとは考えにくいことになる。帰郷して入院するほどだからかなり重病だったと判断されるし、重病の「心臓脚気」であればわずかな運動でも胸が苦しくなるということだから、そのような「心臓脚気」等に罹っていて長期療養生活していた森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて下根子桜へ訪ねて行き、しかもそこに泊まったとは常識的には考えられないからだ。つまり、
 昭和2年の森は盛岡で心臓脚気等で長期療養中だったので、通説となっている「昭和2年の秋」の森の下根子桜訪問が現実にあったという可能性はかなり低い。……①
ということになる。
 するとここで思い出されるのが上田哲が前掲論文中で紹介しているところの、
 露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81pより>
という菊池映一氏の証言である。この証言に基づけば、
 露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏までであった。
ということになるから、森が「昭和2年の秋の日」に下根子桜に賢治の許を訪れたとしても、そこで露とすれ違うということは難しい。その頃の露は賢治の許に出入りすることを遠慮していた可能性が大だからである。つまりこの菊池氏の証言に従えば、
「昭和2年の秋の日」に森が下根子桜を訪れたとしても、そこで露とすれ違うことは現実的にはかなりその可能性は低い。……②
と言えることになる。
 しかもこの②と①とを併せて考えれば、昭和2年の秋に森が下根子桜を訪ねて来た際に露とすれちがった可能性はますます薄れてしまうことになる。
 そういえば、小倉豊文は露が高橋慶吾に宛てたという昭和2年6月9日付の葉書( (註七))を『「雨ニモマケズ手帳」新考』において紹介していて、
 先生ハ「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
ということがそこに認められているという。よって、賢治は昭和2年6月頃から露のことを拒否し始めたことが窺われるし、なおかつ露は「アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ」と葉書に書いているということだから、一般的に昭和2年の夏頃から賢治は露のことを拒絶するようになったと言われているようだが、そのことをこの葉書は裏付けているともとれる。
 そうすると当然問題が生ずる。なぜなら、「昭和六年七月七日の日記」には、森が秋の日に訪れたという件の下根子桜訪問の際の様子があまりにもまざまざと、
 二階に音がした。しきりにガラス窓を開けている賢治を見た。彼は私に氣がつくと、ニコニコツと笑つた。…(筆者略)…
「いま、とちゆうで会つたでしよう?」
といきなりきいた。
「ハア――」
と私が答え、あとは何もいわなかつた。少しの沈默があつた――。
「おんな臭くて、いかんですよ。」
 彼はそういうと、すつぱいように笑つた。彼女が残して行つた。((ママ))烈しい感情と香料と体臭とを北上川から吹き上げる風が吹き拂つて行つた。そして彼はやつと落ちついたらしかつた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)75p~より>
というように述べられ過ぎているからである。
 もちろん、この引用部分からは「その秋の日に、賢治は露のことをしばしの間二階に招き入れていた」ということが導かれるし、なおかつこれは先の葉書の日付以降の出来事であるから矛盾が生ずる。露の『その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました』という証言や6月9日付葉書の中の「アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ」からは、森が下根子桜を「秋の日に訪れた」としても、その時に露も下根子桜を訪ねていたという可能性は低いと考えられるからである。
 となれば、森の前掲の引用部分はまざまざと書かれているだけにかえって、実は単なる虚構であったという可能性がある。それは先に「昭和六年七月七日の日記」において森は幾つかの虚構をしていることが否定できないからなおさらにである。
 したがって、これと、先の①と②とにより、森は昭和2年の秋の日に下根子桜を訪れたことも、その際に露とすれちがったことも共になかったという蓋然性が極めて高いと言えることがわかったから、
 通説とはなってはいるが、昭和2年の秋の日に森が下根子桜の賢治の許を訪ねたということも、その際に露とすれ違ったということも実は単なる虚構だった。
ということがあり得ることを真剣に考えなければならなくなってしまった。そして一方で、
 森は「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった。なぜならば、長期療養中だったと思われる森が一九二七年、すなわち昭和2年の秋に下根子桜を訪問することはまず無理だったと考えられるからである。
ということも同様にである。
 なお、この訪問が一九二六年(大正15年)の秋であったという可能性もこれでほぼゼロになったと言える。なぜならば、森が心臓脚気と結核性肋膜炎を患って岩手に戻ったのは大正15年11月下旬だから、残された「大正15年の秋」の期間はほとんどなかったことになるからである。しかも、重篤だったからこそ盛岡に帰郷したはずの森が、その直後に下根子桜までわざわざ泊まりに来ることは常識的にはあり得ないからである。

 森の「下根子桜訪問」自体が虚構
 さて、森が「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった理由は、森の病状がかなり思わしくなかったことが当時かなりの程度世間に知られていたことにもあったからに違いないと私は直感した。そこでそのことを以下に検証してみたい。
◇昭和2年の新聞報道によれば
 その頃の森は生出仁と共に「岩手詩人協会」を設立し、機関誌『貌』を創刊するなどの活躍をしていたから、その存在がかなり世に知られていたと思われる。そこで、当時の『岩手日報』を少し調べてみる(なお、以下の傍線〝   〟は筆者による)。
♦昭和2年4月7日付『岩手日報』
 「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
 岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
 その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
 その時の一人森君は今、宿痾の爲、その京都の樣な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以來詩作は日本詩にもちよいちよい發表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに歸されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(筆者略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
♦昭和2年5月19日付『岩手日報』
 「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
 二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
 仙臺の事、メーデーの事、同人雜誌が長つゞきしない事、
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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