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(07/06/01)

DEATH NOTE デスノート 前編

2006年06月21日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
一部の方からの熱い期待にお応えして「DEATH NOTE デスノート 前編」を観て来ました。
先週末、公開初日の「バルトの楽園」とどっち見るか一瞬迷って、悩むことなくバルトを選んだのですが、正直こっちを選んだ方が正解でしたね。観る気のなかった映画を観る機会を作ってくれたお二方に感謝。
でも、わてがこの映画を見たことは出来るだけ他人に知られたくないですよ、恥ずかしくて。こっぱずかしい。
前半は本当に観てられませんでした。正義感と露悪趣味が同居する今風のジュブナイルっぽい雰囲気が正視に耐えません。わても相当若いつもりでいましたが、この手の無能な大人をないがしろにして有能な少年が活躍する、少年誌にありがちな展開で根拠なくないがしろにされる大人の方が近い年になったことを実感させられました…。
そういったこっぱずかしい世界観がある程度提示された後に始まるキラとLの攻防戦、これが面白くて目がさめました。
シチュエーションミステリーとでもいうべき、その世界の中でのルールに基づいたテニクニカルなやり取りは絶品です。それだけで1本の映画を作れそうなヤマが、次から次へと贅沢に訪れるような感じです。しかもそのヤマを構成する駆け引きや謎を明示する伏線が(明示したら伏線じゃないですけど)、直径10センチの毛糸で編まれたセーターを解きほぐすかのように実に分かりやすくスルスルっとつながって解けていく快感と言ったら!
これっていわゆるアハ!体験ですかね?
ところがあんなに分かりやすいのに「アハ!体験」出来ない人たちがいるわけですよ。後ろにいた女子高生グループとか。
「どうしてあの人(L)、最後にポテトチップ食べてたの?」
コメント (2)
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バルトの楽園

2006年06月17日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
6月17日公開の「バルトの楽園」を観て来ました。
ドラマ的な要素は皆無でした。NHKの「その時歴史が動いた」でも見てるかのように、淡々と進んで、起伏なくそのまま終ってしまいました。とはいえかえって実話が持つ重みを存分に感じさせてくれたのですが。
ちょっと前に四国遍路のためにあの辺りを漂っていた時、やけにドイツ館だのドイツ橋だのドイツ公園だの、ドイツドイツと目立っていたことを思い出しました。観光目当てではなかったので通りすぎてしまったのですが、なるほどそういう縁でしたか。
四国遍路1番札所の町として「お接待」の心でドイツ人俘虜に接していたのでしょう。そしてその町並みも人柄も、今でもなにも変わっていません。なぜ四国遍路が世界遺産に認められないのか、よく分かりません。
鳴門とドイツ人俘虜。こういった地元の人は知ってるけど、それ以外は誰も知らない、そんな縁ってどこにでもあると思います。わては北海道は函館の出ですが、この映画の時代のちょっと後にドイツから観光旅行にきて、函館にいついたドイツ人、 >カール・レイモンなんかがまさにそう。函館市民は誰もが知っていて、それ以外は誰も知らない、はこだて賛歌みたいなものです。
こういった縁は、未知の世界への扉を開け、逆に既知の世界を再認識させ、やがて当事者がこの世を去り、たとえその記念碑が崩れ去ったとしても、文化として受け継がれ熟成し、いつしか遺伝子として組み込まれていく、そんな大きな出会いです。その出会いはお互いを受け入れ、尊重し合える懐の広さから生まれます。そしてその懐の広さは、辛さや悲しみの中からのみ生まれ得るんですよ。
この作品は「日本人ちょっといい話」レベルに終始してしまっていますし、そのちょっといい日本人像が、要するに近代化出来ない昔気質のサムライ・庶民としてしか描かれていないように見えてしまう点が気になりました。

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オーメン '06

2006年06月06日 | 丁稚 定吉の映画日記
オーメン、ソーメン、冷ソーメン!(死語)
わてが丁稚の定吉だす。
2006年6月6日公開の「オーメン」を観て来ました。
日本には神武天皇即位を元年とする皇紀という数えかたがありますが、皇紀で言うと今年は2666年です…。
という獣の数字666にちなんだイベントを楽しもう!という映画です。
もともとは1976年に公開されて社会現象にもなった映画のリメイクで、オリジナルと違う演出(殺され方)もありますが、ほぼオリジナルどおり。ただオリジナルを越える部分がない分、イマイチ盛りあがりに欠けるような気がしました。
古典の名作の現代語訳、という感じでしょうか。オリジナルでは微妙に描かれていたことがハッキリと描かれていて気になりました。特にダミアンの立場。
無邪気、本当に邪気がまったくないダミアンが悪魔だからこそ不気味なのであって、あんなに悪意丸出しのダミアンでは不気味というより恐いだけです。ってか恐いのかよ?て言われると恐いんですが。ただ意図と対象が限られている分、つかみどころのない不気味さよりはマシなような気がします。
やはり善悪・敵味方が分かりやすい単純二元論で描かれる映画は三文安いですよ。

今回のダミアン、こんな顔してました。


大人になるとこんな感じ


どれだけ似てるかは劇場かDVDでお確かめ下さい。

映画の中身よりも、6月6日にオーメンを観る、このことが大事な映画なわけで、明日からお客さんは来るんでしょうか?
ちなみに今日観に行った静岡ミラノ3、わても静岡で相当映画を観る部類ですが、このオンボロ劇場に80人も客がいるのを初めて見ました。ホラー映画というと若い人が多いものですが、今日は年配の方、下手すればおばあちゃん、お父さん、娘、と3世代で見に来てるらしき人たちもいたりして、一家総出でオーメンかよ?という気もしますが、やはりそれだけオリジナルにはインパクトがあったということでしょう。
わては当時小学生でこんなセリフが流行りました。で冒頭に戻るわけです。
そういえば小学校の音楽の授業で「てんとう虫のサンバ」を歌うとき(考えてみるとすごい選曲)、「くたばっちまえ、オーメン!」って歌ったとか、この手のネタにはコト欠きません。
コメント (9)
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花よりもなほ

2006年06月04日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
6月3日公開の「花よりもなほ」を観て来ました。
この映画はある意味、糞映画ですね。でも糞って悪いもんじゃありません。
お釈迦様は人間は糞袋だとおっしゃっいましたが、人間は誰でも糞と心に糞みたいな部分を持ち歩いて生きています。しかしお百姓さんが糞を肥料に使うために糞を買って行き、そのゼニを正月の餅に変えることが出来ます。もちろん糞みたいな心だって…。
予告編でも使われた「糞を餅に変える」システムに気付けば、殴られたくないし、殴りたくもない、その狭間にありえない第3の選択肢を作り出すことだって出来るわけです。
人生の視野の広さを再認識させてくれる珠玉の佳作といっていいでしょう。
描かれる長屋生活に全然リアリティがありません。舞台が昔で人間が今。だからこそ逆に生活が吐き出す生臭い息遣いが身に染みて感じられます。
剣術とか仇討ちとかって、要するに今の学校のお勉強とか、行き過ぎた資本主義・拝金主義による収奪とかを間接的に描きたかったのがミエミエで、その辺はあざとかったかもしれません。

この作品にはさまざまな立場のいろんな人間が描かれています。多くの人を思い遣れる、人としての器が大きいほどこの映画の評価は高くなるはずです。
中盤に仇討ちともコメディとも関係のない脇役どうしによる恋愛パートでややダレる場面があります。この映画の中ではポッと浮いた部分なのですが、ここがこの映画の真髄だと思います。
貧乏長屋でヤケ糞気味に生きる浪人、その元婚約者が吉原から身請けされて因業大家の奥さんとして嫁いで来ます。奪う、諦める、糞な心が用意した糞な二択の狭間には、その糞を餅に変える愛し方がありました。
傍目には「あの浪人と大家のカミさん、あやしいぜ」で終わってしまう話です。そう考えれば傍目にはおかしい、竹光で死ねない切腹を続ける浪人も、このスラム街に住む寺の遊び人の息子も、自分たちなりに糞を餅に変えた結果の姿なのだと思えてきます。
赤穂浪士の生き残りが赤穂に向かって走り出す場面、あれは人間臭くて実に気に入りました。一度は仇討ちという糞を親子愛という餅に変えておいたように見えて…。それを糞に戻してしまった時代の雰囲気が実に恐ろしく感じられた一方で、でも糞のままでは終わらせないなにかが心の中に残っていると信じたいところです。
ジャニーズの岡田准一が出てるとか是枝監督の新作とか、そんなことは割りとどうでもいい感じでした。

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愛より強い旅

2006年05月30日 | 丁稚 定吉の映画日記
世の中には二通りの人間がいます。故郷で生まれ育ち暮らす者と、そうではない者と。
前者はこの映画をどう見るんでしょうね。
こんばんは。わてが丁稚の定吉だす。
トニー・ガトリフ監督が昨年のカンヌで監督賞を受賞した「愛より強い旅」を観て来ました。
舞台はフランス。わてには「おフランス」の事情はよく分かりませんが、昨年には移民の、今年は若者の暴動が遠く離れた日本でも伝えられる国。主人公はアフリカ移民の若者です。
なにがそうさせるのかは明示的に描かれていません。フランスの安アパートでセックスをした後に移民系カップルはルーツ探しの旅に出ます。少なくとも彼女の方はその理由がなにか、分かっていません。もしかすると彼のほうも分かっていないかもしれません。
無賃乗車、バイト、出会い、浮気、喧嘩、迷子、越境、ロードムービーとして評価するべき部分が最後にぶっ飛びます。その後にエンディングがあるのですが、よく覚えていません。エンディングは墓地の十字架にヘッドフォンをかぶせる場面なのですが、誰の墓?その前の場面で完全に思考も感覚も停止してしまってよく分かりません。
彼女の方はアフリカに入って疎外感がさらに強まるのですが、つれていかれた先での儀式、これでワケが分からなくなってしまいます。
音楽的にはなんていうのでしょうか、トランス?  心の底から突き上げてくるなにかが理性すら突き抜けて、ただひたすらに狂ったように心解き放される。そんな場面がどれだけ続くでしょうか?3分、5分、10分、20分?そんなには続いていないでしょうが、とにかく訳がわかりません、理屈では。
もう10年も前になるでしょうか、ビシバシステム(開運!なんでも鑑定団のレポーターなどでお馴染みの住田隆のいるコンビ)の芸を見る機会がありました。「♪いさせて、いさせて、お姉ちゃんの胸にいさせて」この1フレーズを10分ほどの持ち時間の間、延々と歌いながら客いじりをするネタでした。そして延々歌った後に一言。「これでみなさんは一生この曲を忘れられなくなりました」すげー暴力的なネタです。リズムに乗せた同じフレーズの繰り返しは効きますよ。
古来のシャーマンの儀式にはこういった洗脳の要素が多分に含まれているのでしょう、その片鱗がスクリーンを通じて伝わってきます。
なかなか滅多に経験ではありません。

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嫌われ松子の一生

2006年05月28日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
5月27日公開の「嫌われ松子の一生」を観て来ました。
この作品で松子を通して描かれているのは、生への限りない肯定であり、愚かであるがゆえに愛すべき人間への讃歌である、



なーんて書いたら一端のレビューっぽいですがパクリです。誰のなんの文章かは覚えていませんが、確かこんな感じのレビューを読んだことがあります。「嫌われ松子の一生」の、ではなくて、ミュージカル・キャッツのレビューとして。
松子って結局はグリザベラなんですよ。キャッツの中ではグリザベラがジェリクルキャットに選ばれる理由を名曲「MEMORY」で表現しますが、その歌詞の抽象的な内容を具体的に描いたのがこの作品です。これは断言出来ます。元娼婦で紫のボロボロのコートを着て顔ににかかるウェーブの効いた長い髪、足を引きずって倒れて立ち上がって最後に上って行く。晩年の松子の姿はグリザベラそのものでした。
綺麗で派手で賑やかなお祭りのような映画ですが、実際そこに描かれているのは相当悲壮な内容。その陽気と陰気のギャップも魅力の一つですが、陽気陰気入り乱れて描かれるハレの雰囲気とたまに見せるケとのギャップが、また訴えかけるものが多いように思えました。
人間には一人でいられない人と、一人でも平気な人とがいます。松子は典型的な前者で、わては後者で、はっきり言って行動の仔細には理解出来ない部分が多くあります。ただそれ以上に同じ必死に生きる者として共感する部分が多くありました。必死でいながら、ふと我に返る瞬間、居たたまれないです。
コメント (2)
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夢駆ける馬ドリーマー

2006年05月25日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
5月27日公開「夢駆ける馬ドリーマー」の試写会に行って来ました。
さようなら、ダコタ・ファニング。君はもう、かわいい子役じゃありません。
もしかするとこの作品が「かわいい天才子役」の片鱗が残る最後の作品かもしれません。というか、この作品だって

角度がよければ美少女ですが、角度によっては古今亭志ん生師匠に見えて仕方ありませんでした。

「アリーmyラブ」で出会って、「ハイド・アンド・シーク」のチャリー!連呼でその才能を確信して「宇宙戦争」で悲鳴を堪能して、それでおしまい。短すぎます。
ただ彼女のこれからにはちっとも不安を感じません。落ちつきもありますし演技力もあります。オーラもありますし、なにより今回の役が地じゃないかと思うのですが大人と渡り合えるクレバーさを持ち合わせていますから。
少なくともわてがリアルタイムで見てきた、ブクブクデブった間下このみや子供のまま子供を産んだ安達祐実のようなことはなく、演技人として全うしてくれると信じています。天才女優としてふたたび出会えることを楽しみにしています。
映画自体はお子様向け。悪人王子が飼ってる競走馬が骨折、安楽死させる前の売り言葉で調教師が引取って喧嘩別れ、娘がオーナーになってすごいレースに出て悪人王子の馬と対決、と。はい、おめでとさん。
ただ、馬を間近で見た事がある人は分かると思いますが、その大きさと美しさ、これがスクリーンで実物大で再現されてるわけですよ。これはなかなかの見モノです。
ほかに無理に感動ポイントを探すと、本来馬がいるべき牧場に馬を置かずに土地を切り売りする親父でしたが、馬と一緒に戻ってきたものがあることに気付きます、ってところでしょうか。

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GOAL!

2006年05月24日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
5月27日公開の「GOAL!」の試写会に行って来ました。
試写会のゲストになんとエスパルスの兵働選手が!!!!!って誰?ってサッカー音痴のわてでも分かり過ぎる映画でした、いい意味でも悪い意味でも。
アイドルの出ていないアイドル映画、って感じでしょうか。ストーリーは王道、映像は綺麗で音楽はオアシス、テーマはハッキリ。でも「夢を諦めない」というテーマはガンガン伝わってくるのですが、その6つの文字の意味するものが作品の中にはなにもありませんでした。
家が貧乏で親にも夢を見ることを禁じられた青年が、苦労しながら夢をかなえるサクセスストーリー、といえば聞こえはいいですが…。結局のところは才能があって、才能を見出す人とめぐり合えて、援助してくれる身内に送り出され、かばってくれる仲間と一緒に、失敗しても見捨てない理解ある指導者の下で、温かい応援に包まれて勝利を掴む、スポーツの世界では恵まれすぎたお坊ちゃまでしょ、これじゃ。なにもかもがお膳立てされていて、勇気をもらうどころか反感すら覚えます。
続編が2本もあるみたいですけど、再起不能になった友達が単なる引き立て役扱いでこのまま消えたら、わて許さんよ。というか、そもそも三部作の第1作としては妙に完結しちゃってるんですけど?1作目が売れたからって続編を作るレベルの続編しか出来ないんじゃないですか?
苦労したというフレコミでトントン拍子でスターになったサンティアゴ君の前に立ちふさがるのは、看護士に再起不能歩けるのがやっとと宣告されてクビになって、故郷に帰り子供にサッカーの指導をしながらもでも本当に夢を諦められなかった彼。このライバル対決が第2部。第3部は彼に打ちのめされてやる気なくJリーグに流れてきたサンティアゴ君の復活物語。
そのくらいじゃないと続きませんよ、この3部作。
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ダ・ヴィンチ・コード

2006年05月21日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
5月20日公開のダ・ヴィンチ・コードを観て来ました。
これは非常に危険な作品です。洋画、その50年の歴史に幕を下ろしかねない危険な作品でした。
いやー、本来の意味での「やおい」ですよ。「ヤマなし、オチなし、意味なし」。
ドキドキハラハラのヤマはなく、ダイジェストのように動きをなぞっているだけ。オチは、探していたものがアラこんなところにあったのね、で意味を考えても所詮は荒唐無稽な珍説に過ぎません。
それはそれでいいんです。この原作を映画化するとこうならざるを得ません。よく分かります。アナグラムや球体の謎解きも視覚的に頑張って考えたんだな、と納得できました。
でもね、見る側が製作者側を思い遣って心配してみているようじゃ大作としてはダメなんですよ。だってただ金を払ったからといってその分楽しませろ、という観客に支えられるのが「大作」なんですから。金を払った上に金を受け取る側の心配までするバカ相手の映画じゃないんですよ。
客入りは非常に良くて、SW3以来の大入りでした。年に2-3回ある映画ファン以外も巻き込んでの一大イベント。それでこれって…洋画の信用をなくしますよ。
普通の洋画としては決して悪くはありません。マグダラのマリアが誰かという西洋の常識レベルの多少の聖書の知識さえあれば難しいこともなく、キリスト教史を舞台に知的好奇心刺激しまくりの原作をその意味では損なうことはありませんし、2時間半という長丁場でもそのながさは感じさせません。
ただ小説のしての人物描写が映画としての人物描写に生かされておらず、そのためにドラマが完全に死んでしまってします。
結果として名所旧跡めぐりをしながら謎解きをするだけ。どうせそれならばそこにエンターテイメント性が加わった「ナショナル・トレジャー」のDVDを駿河屋で買って観てたほうがまだよっぽどマシってなもんです。
コメント (5)
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ブロークン・フラワーズ

2006年05月17日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
2005年のカンヌ映画祭グランプリ作品「ブロークン・フラワーズ」を観て来ました。
実にカンヌ好みの映画と言いますか、実に困る映画でした。
主演のビル・マーレイの表情はもともと困り顔ですし、訪ねていった元カノ達宅の居にくさもそれぞれいろいろあって困りもの。
元カノよりその娘がノリノリで居にくかったり、全然自分と遠うセンスの持ち主だったと気付かされて居場所がなかったり、まったく理解不能な変化をしていてつかみどころがなかったり、嫌な思い出を爆発されて殴られたり…。死んだ5人目こそが死んだと聞いたときは一番大きな変化と思いきや実は一番変わってなかったりしてね。
他人の不幸ってなんでこんなに面白いんでしょうねぇ…。映画だから他人の不幸を心から楽しめます。もっとも沈黙の間とビル・マーレイの顔の筋繊維1本単位と目玉の1ミリ単位の動きで笑わせるコメディだから合わない人は合わないかもしれません。笑っていいものか周りをうかがってしまうような、一昔前の言葉で言えば不条理ギャグが散りばめられています。
登場人物全員が実に普通で、それでいながら一歩間違えたら第三者から誤解されるような狂気を秘めたヘンな生活を送っています。もちろんそれはわてら同様に、ですけど。
元カノにはどれぞれドンと分かれた後に、今の生活に至るまでの過程が存在するのでしょう。それらをぶっ飛ばして元カレ・ドンが現れます。
二人は一気に過去へと記憶をたどり、さまざまなものがわいてくるのですが、湧いてきた先はあくまで年月を経た後の現在。どうするわけでも、どうなるわけでも、どうできるわけもありません。そもそも最初からどうする気もありません。訪問の目的はそんなことじゃないわけですし。
過去に通じ合わせた心と現在の表面上の言葉のやり取りとの対比、そこから醸し出される、それぞれ一生懸命に生きているという温かみあふれる人間像が強烈に心に残りました。
で、謎解きはというと…あの終わりかたは映写トラブルかと思いました。えええ?って感じ。困る他人を楽しんできて、最後にわてが困りました。困るわてを、わては楽しめたでしょうか?


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ナイロビの蜂

2006年05月14日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
5月13日公開の「ナイロビの蜂」を観て来ました。
恋愛映画っぽい宣伝で実際は違うパターンかと思いきや、逆。「恋愛映画に見せかけて、そういう宣伝はやめろよ、と思わせる社会派映画」に見せかけたラブストーリーでした。1枚上手。
まず気になったのがスクリーンサイズ。ビスタサイズで作成されていますが、シネスコサイズに比べると無限に広いアフリカの左右が切り取られてしまって本当に「画面」を見ているに過ぎないような感じなってしまっていたのが残念。
アフリカでNGO活動家の奥さんが殺された外交官の旦那。同じ活動家との不倫中に強盗に襲われたと思いきや巨大製薬会社のアフリカ人を使った人体実験を告発しようとした結果だったことが分かり、真実を追究していくとさまざまな妨害が…。
と書くといかにも社会派のようですが、「スーパードクターK」で何回かこんな話を読んだような覚えがありますよ。アフリカの現状は!とか、先進国が発展途上国から搾取の現実!とか、そんなところに力点はないように感じました。
嫁の事をまったく知らない、嫁とはいえ近くて遠い存在だったことに気付かされて、彼女が何を感じて考え思い、そしてどう行動をしたのか、それらを共有して一つになりたい。その1点だけがブレることなく描かれていました。
結局は肉体を持って生きているうちは人と人とは通じ合えない、ってことなんでしょうか。テッサが死んで、その思い出をたどるうちに妄想力を駆使してテッサの存在そのものを自分の中に取り込み、100%自分のものにする。それからでないと人と人とは気持ちを通じ合わせることが出来ないのかもしれません。100%自分のものとする、この部分はカニバリズムの理由の一つとして聞いた事があるような話でもあります。
演出面では非常に癒されました。癒しの映画でもあります。直接の表現はないとはいえ、観ただけでゲロを吐くような死体が存在したりもしますが。
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海猿(on TV)

2006年05月07日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
Limit of loveの宣伝の一環としてフジテレビで地上波放映された「海猿」を見ました。
わては劇場で観ていません。薄い関係の顔見知りからいい評判は聞いてはいたのですが、「ケッ。どうせ邦画だろ」と華麗にスルーしたのをハッキリ覚えています。同時期の下妻物語も同様に華麗にスルーしたんでしたっけ。邦画を観なおすのはたまたまもらった東宝の招待券で「スウィングガールズ」を観てからのこと。
密かにこんな良作が上映されていたとは! この作品、世界に通用します。通用しないとすればコトあるごとに流れるJOURNEYのOPEN ARMSが不似合いで失笑されるからです。韓国映画を観ていても洋楽が流れることがあって「なんだかなー」と思わされることがありますが、それと似たような感覚を欧米人も持つことでしょう。結局アメリカ万歳の2等3等国民ども、って。
ま、それは暴論としても肝心要の表現の部分を洋楽、しかもJOURNEYにお任せということは、つまりそれだけ自分たちの作品にあまり自信を持っていなかった、だから一種の権威の力を借りてしまった、という構図が見えてしまってどうも…。
ただそんな風にナメるには惜しい映画ですよ。ハリウッドがすっかり忘れてしまった「客は何を求めて劇場に足を運ぶのか」その答えの骨格がこの作品にはあります。習作という言葉がふさわしいでしょうか。
それを基に、肉付けして、大正解を描いたのが続編のLimit of loveだと言えます。
まぁ、劇場公開がすっかり終わってテレビ地上波放映を観てから言うセリフではありませんが、Limit of loveが話題になっていて観に行こうと思っている方には必見です。


駿河屋の在庫はこちら   とリンクを貼ろうと検索したらタイムアウトで「ページを表示出来ません」
いつものことながらお客様にはご迷惑をおかけして申し訳ありません。現在サーバ補強の手続き中だそうです。とはいえ一事が万事cgiに頼りきりのサイト構成では…というのは丁稚の粋から出すぎた言葉ですのでやめておきます。
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モンスター(on DVD 「モンスター プレミアム・エディション」)

2006年05月03日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
2004年公開の「モンスター」をプレミアム・エディションのDVDで購入しました。
駿河屋の在庫はこちら   現在在庫切れ。

本編は劇場公開時に見て、いろいろと思うところがあり、印象と示唆に富むものとして納得して消化しました。だからこそそれはそれで終わらせて一件落着としたかったのですが…。どうしても納得できなかった唯一のことが未公開シーンとして描かれているという話をさんざん聞かされて、我慢が出来ませんでした。
シャーリーズ・セロンがブスメイクまでして実在の連続殺人鬼を描いたとしてアカデミー主演女優賞まで受賞したこの作品、それのみならずプアホワイトを描いた社会性や盲目の愛を描いた普遍性でも評価され、さらには共演のクリスティーナ・リッチの心理描写をコト細やかに忠実に顔に出した怪演は「あの眉間のしわにはさまれたい」と思わせるものではありました。
ただ唯一の欠点がありました。
それは、クライマックスが意味不明だということ。

セルビーとの逃避行の中で殺人を続けるアイリーン。その限界を感じ、セルビーを高速バスに乗せて送り返す、「バス停」での別れ。

利用価値のなくなったアイリーンには興味を示さず無表情に地図を見る最低女のセルビー。煙草に火をつけようとしてつかないアイリーン、そして泣き崩れる。
「あんたに言いたかった。私は愚かな過ちを犯してしまった。なにもかもが台無しだよ」
ここで切り替わった画面のセルビーの表情が急変しているわけですよ。かけがえのない人を見る目つき。なんで急変?さっぱり分からん。
さっぱり分からんまま、とりあえずセルビーはアイリーンのことを思っているという設定だと理解して最後の電話の場面へ。ここは声に出す言葉のやり取りと心のやり取りとが微妙にリンクしつつも裏腹な、盗聴されていることを前提にした言葉の下に押しこめた二人だけには分かる心のやり取り、二人のどっちかに感情移入していなければ理解出来ない映画史に残すべき名場面。
ここで「とりあえずセルビーはアイリーンのことを思っているという設定だとして」という前提が非常に邪魔です。
だから理屈としては納得できても感情として晴れないままでいました。

「愛してる 生まれて初めてだった 心が近いと感じたのは」で始まる未公開シーン。
セルビーに対する愛を打ち明け、強気一辺倒のアイリーンが自らの恐怖と弱さとを吐露する場面、この感情をまっ正面から受け止めるからこそ急変するセルビーの表情。
ここをブツブツカットして繋げたらそりゃ意味不明にもなるでしょ。
しかも監督のコメンタリーによるとそのカットの理由が要するに「試写ではこの場面が一番感動的に受け取られたけど、本意じゃない。死刑になる場面まで興味を繋いで欲しい。そこまで描きたい私のわがまま最優先」

おかげで大事なことを見失うところでしたよ。
セルビーがどんな気持ちでアイリーンを死刑台に送ったのか、それは分からないにしてもそこに100%自己正当化のための悪意が含まれていないことが分かった分だけでも、買って良かった、と心から思えました。

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白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々

2006年04月26日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
「白バラの祈り」を観て来ました。
わての書き込みはトラックバック先での表示を念頭に置いて、上記2行に続いてキャッチコピーのような1センテンスでまとめてから本題に入る、というパターンを作ろうとしているのですが、この作品だけは1センテンスでまとめらんね。

いくつかの視点がありますが、まずはドイツ映画として。
日本もドイツも同じ敗戦国ですが、作られる戦争映画には決定的な違いがあります。それはゾフィーの同囚だったおばさんの言う「ゲスな臆病者」が日本の戦争映画には存在しないことです。
第2次世界大戦の意義についてはここでは言及しません。正当性と正当性がぶつかるのが戦争なのですから、その正当性について論じても意味が薄いと思います。
ただ、その戦争を後押しした大衆はどうでしょうか?戦争の正当性や戦争行為の功罪についてどれだけの考えがあったのでしょうか?なにか考えたとしても戦争を行なう共同体の一員としての利害が優先されてはいなかったでしょうか?
故郷の善良な普通の村人たちがナチスを熱心に後押ししていた、そんな隠蔽された過去を明るみにしようとした学者が陰湿な妨害にあいながらも真実を暴き、その功績を賞賛する人たちにも共通性を見出し罵倒した「ナスティ・ガール」が公開されたのが1990年。
残念ながら日本はそのあたりにまでも達していないようですし、その気配もありません。悪い指導者、やむをえなかった指導者、悪い兵隊、一生懸命な兵隊、かわいそうな国民、清い日本人。なにか欠けてる、直視していないものがドイツの戦争映画には描かれています。

次に戦争映画として。
「ナチスは私たちを恐れている」全てはこのセリフに凝縮されています。
ゾフィーは初め、取り調べ官の前で声を震わせますが、自らの確信を深めるにつれ堂々と、逆に取り調べ官のモーアの声が震えてきます。法廷でも開廷時に揃っていた「ハイル、ヒトラー!」が閉廷時には微妙にバラバラ。良心がとがめないのは浮世ばなれした裁判官のみ。
「ヒトラー/最期の十二日間」ではこの浮世離れした人物だけが描かれていて、対照的です。(ゾフィー役の人もモーア役の人もともに出演してたりしますが)

そして青春映画として。
はっきり言ってショル兄妹は調子に乗ったクソガキです。安っぽい正義感に燃え、リスクも考えずに突っ走り、証拠は残しまくり、早く逃げなければならないのにビラがもったいないからとビラ撒き続行、最後はカッコいいからって3階から撒き散らす。
バカそのものです。
まして白バラって自己陶酔も甚だしすぎ。今の日本でいうゴスロリのセンスですな。


最後に宗教映画として。
ただの甘ったれたクソガキのおイタ。
冒頭で取調官のモーアも、そしてゾフィー自身もそれでおさめようとします。
ゾフィーは最初から後年全ドイツの尊敬を集める存在だったわけではありません。ちょっとインテリで小ざかしい知恵の回る女子大生に過ぎません。自分のしでかしたコトの大きさに気付いてもいませんでした。
しかしコトは露見、オオゴトに。
ここからの腹の括りかたがハンパじゃありません。座った目つきというか、抱かれたいというか。
腹を括れた理由はまず第一に自らの正当性を確信出来たことにあります。ユダヤ人が連れ去られ、精神障害児がガス室に送られる様を実際に見て、東部戦線の悲惨さを聞き、その過ちをもたらした組織や立場と接したナマの実感にあります。
第二に両親からの正当性の信頼。
そしてなによりもプロテスタントとして信ずる神の導きを実感できたこと。ドイツの民衆が立ち上がるため神に選ばれたという感覚は確実にあったはずです。
神が見ていてくださる、再三描かれる空を見上げる描写は決して太陽や外界を描いたものではなく、この前提をもとにしているのではないでしょうか。

光は神、神が見ていてくださる、必ず助けてくださる、99日間の執行猶予がある、だから米英軍の空襲をあたかも花火大会のように眺めていたのでしょう。
しかし、公判、死刑判決、即日執行。まさに神からの裏切りそのものです。知らされた部屋での嗚咽。
聖書によれば十字架に磔になったイエスは叫びました。「神は我を見捨て給うか!」
イエスのようにゾフィーも永遠の命を得ます。その源は両親との面会であり、兄、同士との抱擁。なぜなら彼らこそ人というものに永遠の命を与える神そのものなのですから。

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Vフォー・ヴェンデッタ

2006年04月23日 | 丁稚 定吉の映画日記
わてが丁稚の定吉だす。
4月22日公開の「Vフォー・ヴェンデッタ 」を観てきました。
海外コミック原作の洋画ってどうしてこうも完成度が高いのでしょうか?それに引き換え邦画は頑張ってるし日本のコミックの質の高さは疑いようもないのに、コミック原作の邦画のクソ映画揃いといったら…
とはいえ洋画はしょせん洋画、欧米の常識を持たない我々野蛮な東洋人のことなど配慮してくれません。マザーグースやシェイクスピア、そして本作の精神的な土台になっているであろう岩窟王(モンテ・クリスト伯)については一通り知っておいたほうがいいかもしれません。そのあたりは不親切です。
ではそれ抜きでは楽しめないのか、というとそうではありません。というよりももともとこの映画は、誰が見ても1回で100%理解するなんて不可能でしょう。いろんなことがよく分からなくて心に引っかかる作品です。
近未来のファシズム国家となったイギリス。ヒューゴ・ウィービング演じる「V」はガイ・フォークスの理念を受け継ぐマスクマン。外出禁止令を破って自警団に捕まったナタリー・ポートマン演じるエヴィを助けて仲間に引き入れ革命を目指します。これを追いかけてくる刑事の場面は少々冗長ですが、しかし役者は揃っていて飽きさせはしません。
Vは自作自演でエヴィをとらえて拷問にかけることによって恐怖から解放させ最終決戦へ。

特殊な容姿のためにマスクをかぶった男が少女を軟禁して教育するといえばオペラ座の怪人が有名ですが、最終的に生じたエヴィとオペラ座のクリスティーヌの違いはマスクの下の顔を知っているかどうかではないかという気がします。
素顔を見せることによって弱さを持った人間と堕ちてしまったファントムと、決してマスクをとることを許さず強さと神秘性を保ったV。その差は求めていたものの違いと言っていいでしょう、
片や心の充足、片やヴェンデッタ(血の復讐)。前者は仮面では得られないもの、後者は仮面でしか得られないもの。
だからこそ最終的にエヴィとの恋愛関係においてはファントムとクリスティーヌのような心のキャッチボールが出来ずに、一方的に言いっぱなしで終わってしまった、そのあたりが実に不憫に感じました。もっともファントムの元を去ったクリスティーヌと違ってエヴィはVを受け継ぐわけですから、どっちがいいとは一概には言えません。
議長を殺しにいくとき。エヴィに、復讐なんかやめて私と新しい世界に生きて、みたいなことを言われるわけです。
そこで「そうだ、愛こそが全てだ」と気付きハッピーエンドを迎える恋愛ドラマタイプだったら良かったんでしょうが…。Vは決して揺れ動いたわけではなく、こうでなければ今まで生きて来られなかった、もう変えられない、だからこそはっきりと確信を持って”I can't”と拒絶したのです。(字幕では中途半端に「すまない」でしたが、謝罪するいわれはありません)もう少し踏みこんで考えると、憎しみの連鎖の一つを断ち切るための唯一の解決手段として消極的な自殺を選択した、ということも言えるかもしれません。

あと、今晩わての中で臨時の踏まれたい番付会議が召集されて満場一致で、25位だった「パドメ姫姿のナタリー・ポートマンに強気に踏まれたい」改め「坊主頭のナタリー・ポートマンに泣かれながら踏まれたい」が6位になりました。
また世界尼さんグランプリのランキングが発表され、写真集「LIVE」での井上晴美を抜いて3位に入りました。あの美形の顔とデコボコ頭のギャップがなんとも…
コメント (2)
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