観光企画人材育成セミナー「道頓堀発おもてなしの心」というテーマの講演を聞きに行ってきました
講師は、
柿木 道子さん 【㈱くいだおれ代表取締役会長】です

くいだおれ太郎のお店ですよ~
講演の流れとして、
くいだおれ閉店の頃→現在の話→先代(父)の頃の話→自分が店を継いだ時の話→
まとめという流れでした。
ある新聞社がまとめた統計で、くいだおれの閉店を発表してから、閉店するまでの3カ月間で、
道頓堀全体の経済効果は17億円もあったそうです


それは、閉店を惜しんでくいだおれに駆けつけてくれたお客さんがたくさんいて、
その時に店が満員で入れなったお客さんが、他の店に流れていったことによるものだそうです。
柿木さんは、「そんなお金、うちには一切入っておりまへんわ~(笑)それがあれば、くいだおれ辞めてなかったです」
とおっしゃっていました
現在は、くいだおれ太郎プロジェクトと称して、「コンテンツビジネス」を展開しているそうです。
道頓堀にビル(地上8階、地下1階)を建てたのは、昭和34年で、1日に1万人ものお客さんが来ていたそうです。
くいだおれのコンセプトは、三世代の家族が楽しめる食堂で、「総合食堂」という形式をとっていました。
その頃には、芝居小屋や映画館などが続々出来てきて、以前の道頓堀のように活気が溢れてきたそうです
有名な「くいだおれ太郎」は、うちにしか無い看板を作ろうと考えた結果を開発されたそうです。
(人は、動いて音がするものを見る習性があるので、チンドン屋を見本にした)
そして、くいだおれ太郎の服のしましま模様は洋裁の仕事をしていた先代がデザインしたそうです
大阪万博の年は、外食産業元年でもあり、その後、外食産業が発展していき、
昭和50年~60年の時期には、道頓堀に人がいなくなってしまったそうです。
要因として、テレビの普及がし、映画館には人が行かなくなり、芝居もテレビで見られるようになったため、
客足が遠いてしまい次々と周りのお店がが閉店に追い込まれたそうです。
でも、くいだおれは、「全国の人に3回は来てもらいたい」という先代の考えから、
全国に販促をしていたので、観光客などで売り上げが激減することはなかったそうです
先代が腰を悪くし、お店に出られなくなったとき、自分の考えを伝え、手足となって仕事をしてくれる人が欲しいと考え、
当時専業主婦をしていた道子さんを選んだそうです。
専業主婦をしていたので、道子さんの夫宛に「道子を貸していただけないだろうか」という手紙を送り、
その答えとして柿木さんの夫が「ここまで大きくなったのも親のおかげ。親が困っている時に子供が助けるのは当然のことだ」と言っていたそうです。
くいだおれを継いで、「さあ、これから色々教えてもらおう」とした時に、
先代が他界したため、経営のノウハウを学ぶため、コンサルタントを何人も雇ったそうです。
しかし、コンサルタントみんなが、「くいだおれ太郎は時代遅れです。なおかつ総合食堂という形態も流行遅れ」
と口をそろえて言ったそうです。
しかし、原点であるくいだおれ太郎を寄せてしまうと、くいだおれでは無くなってしまうと考え、
コンサルタントをすべて解雇し自分で勉強したそうです

その他にも、様々な勉強を自分でしたそうです
最後の方に、いつも気をつけていることを話してくれました
「現場実践」:なにをやるにも全て自分で体験してから決める。フロアの改装や厨房の改装のときも全部自分で、料理人と相談したり、お盆で物を運んでちゃんと歩けるかどうかも試したりもした。
「原点回帰」:お客さんが何を考えているか、料理の値段の高い安い、何を食べたいか、などすべてお客さんの気持ちになって考える。
「人の心を大事にする」:人の世の中だから、おもてなしをする。気配りの仕方などは、マニュアルには無いので感性を磨くことが大事である。
この他にもたくさんのことを話していました。大阪の人らしく、ときには笑いも取り入れ和やかな雰囲気で進められました

くいだおれ太郎コーナー

・モデルは、父親。(よく道子さんがモデルと言われる)
・くいだおれ太郎の服は、1ヶ月ごとに新調していた。
・太郎に吹き出しが付くようになった理由。
平成4年に阪神タイガースが優勝しそうになったとき、「優勝したら太郎が道頓堀にダイブする

」という噂が広まった。
しかし、落とされるのは困るので、『私は泳げません』という吹き出しをつけた。
その吹き出しが、太郎の気持ちだと認識されるようになり、今日は何を思っているのだろうと観光客が見に来るようになったため、続けるようになった。
・今も元気に働いているそうです