1969年のスカ天創立当時から会の活動にご尽力頂いた中居理光氏が11/14日にご逝去されました。享年63歳です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
■中居理光さんを偲んで
横須賀に引っ越してきたのが18歳の時。それから大学生活、就職と、慌しい日々を過ごし、24歳で結婚。中居さんとは、私が結婚した年の1984年からお付き合いが始まりました。結婚を機に、星の活動を再開しようと思うようになり、地元横須賀に拠点を置き活動している横須賀天文研究会(以後スカ天と称す)に入会する決心を固め、平作にある事務局の中居さん宅を訪問したのが最初の出会いです。自宅の敷地内には、銀色に輝くドームが鎮座し、それを見て思わず興奮しながらドアホンを押しました。家の中に通されると、やはり星を趣味にしている雰囲気の部屋でしたが、天文書籍が多く占める中、音楽関係の書籍もチラホラ。部屋には愛用のクラシックギターも置かれていました。中居さんはギター愛好家でもありました。
最初の訪問では、星の事、スカ天の事、好きなミュージシャン等の話題で盛り上がりました。
晴れていれば、観測ドーム内にある機材で星を見せてもらう約束をしていましたが、その日はなぜか曇り空。実際に30センチの反射望遠鏡を覗く事になったのは、2回目の訪問の時でした。子持ち星雲やM13、それは素晴らしい見え味でした。さすがは苗村鏡です。
その後は、週末の度に自宅に訪問する日々が続き、私も星の世界にどっぷりと漬かる事になりました。
この頃のスカ天は、中居さんが看板を背負っているだけで、会員は中居さんただ1人。
多い時で30名いた会員も、進学、就職という流れの中で、次第に会から離れていき、
気づけば中居さん1人という低迷期に私が訪問したのです。
「近所に茶木さんという方がいるので、今度3人で会いましょう」と。
この3人の出会いの直後に小野さん、鈴木さんが会員に加わり、再スタートを切ったスカ天。
1988年の8月には機関誌「小びと星」の再発行も叶いました。その機関誌の巻頭言として書いた中居さんの記事が天文ガイド誌に載った事で、さらにヒートアップし、機関誌は2ヶ月毎に編纂し発行していきました。機関誌の原稿の大半は中居さんが書いたもの。私も「毎月必死に原稿を投稿しました」というか、見えない中居編集者の圧力に屈していました。再スタートした当時、スカ天は破竹の勢いで各メディアの目に留まるようになり、新聞社、雑誌社、ラジオ番組等で紹介されました。その立役者は、やはり中居さん。立案と行動力、文才と、彼の眠っていた能力が一気にバーストした頃でした。
その勢いは26号(1988年)から41号(1991年)発行の機関誌で知ることができます。
中居さんの天文ライフワークは、太陽観測と変光星観測。
太陽観測者としては、永年観測者として名を連ね、続アマチュア天文史40ページの表2.1によると、80mmの屈折望遠鏡で太陽黒点観測を行い、1970年から1977年までの期間報告しています。1977年以降は、変光星観測をメインに、亡くなる4年前まで観測を続けていたようです。機関誌のバックナンバーによると、1970年11月11日のアルゴル食の観測が最初の観測で、この時は極少から食の終わりまでの6時間の観測記録を報告しています。初めてのテスト観測でありながら、綺麗な曲線になっています。変光星も様々なタイプを観測していましたが、私が知る限りでは、激変星が特にお気に入りだったようです。暗い対象の変光星は30センチを利用していましたが、普段は12センチの反射望遠鏡でした。私にとって、中居さんは変光星観測のお師匠さんでもありました。中居さんとの出会いがなければ、変光星観測を開始する事はまずなかったでしょう。私も様々な天体は見るものの、変光星だけはアレルギーというか観測の対象外でした。それが、中居マジックに洗脳されてしまったのです。毎回、自宅にお邪魔すると変光星の話題になり、私に熱弁をふるう中居さん。帰りには必ずお土産として頂く変光星図を持たされました。そんなわけで、お邪魔するたびに変光星図は増えるばかりでした。しかし、当時の私は、何度も誘惑され「面白いから観測をやってみて下さい」と言われても、変光星図を活用する事もなく、その面白さが理解できないまま4年間が過ぎる事になります。自宅の観測ドーム内で、変光星観測のデモも披露してくれた事もありました。兎に角、変光星の事になると熱い人でした。その熱意に根負けしたのはある現象を見てから。偶然CYGSSが増光し8等台になっているところを見たのです。これは衝撃的な事件で、普段暗くて見えるか見えないかの星が、ピカッと輝いていたのですから。「これが中居さんが勧める面白さか!」その事件を切っ掛けに、私はのめり込んでいきました。それからは私の態度が一辺。「面白そうな変光星図ありませんか?」と逆に催促にまわりました。中々腰の重い私に、4年間もよく懇々と訴え続けたものです。先に日本変光星研究会に入会していた中居さんは、私にも入会を勧め、入会後は一緒に変光星関連のイベントに参加する事が多くなりました。
中居さんとは6歳離れていますが、接し方は同級生感覚で、腰の低い方でした。表舞台に出ることは苦手のようでしたが、舞台裏での活躍は、とても真似の出来ないものがありました。機関誌編纂に注ぐパワーは凄すぎの一言。一度エンジンがかかるとそれは早いもので、原稿もスイスイと書き上げます。
時間や納期はきっちりした方でした。活字を見ても読みやすい字体で書きますし、室内もきちんと整理している方でした。タバコは吸いませんが、お酒は嗜むレベルではありませんでした。酔うと相撲の四股を踏む癖も何度か見ています。
そんな楽しいお付き合いも、長くは続かず、1991年の後半、中居さんの父親が亡くなってからは、スカ天も日本変光星研究会も退会し、疎遠になっていきました。退会後は、ご結婚されて、2人の息子さんにも恵まれて暮らしている事は、風の便りで聞いた程度。
山梨県北杜市大泉町にある乙女座宮の近所に、観測所付きの別荘も建てたとか。
人はそんなに変わるものではないと思いますが、私は中居さんとの出会いで星との接し方が変わりました。スカ天を通して、7年間という短いお付き合いでしたが、今にして思うと、人生の中で最も濃厚な時間を過ごした7年間だったような気がします。
一昨日、茶木さんから訃報の連絡が入り、先週の土曜日(11/14日)に亡くなった事を知りました。享年63歳。定年後、まだまだ多くの天文現象や星への夢や発見、ロマンを抱いていたと思いますが、早すぎる死です。中居さんからは多くの事を学びましたし、素晴らしい出会いでした。感謝することは山ほどあります。名前の通り、中居さんは星の光を愛した方でした。中居さんの生き抜かれた生涯を偲び、星への情熱や生き方を学ぶと共に、その意志を引き継いでいけたらと思っています。
合掌
画像は左から中居氏、私、小野氏、茶木氏
1988年月刊「かながわ」12月号に掲載された時の写真です。
中居氏の観測ドーム内です。(現存)
■中居理光さんを偲んで
横須賀に引っ越してきたのが18歳の時。それから大学生活、就職と、慌しい日々を過ごし、24歳で結婚。中居さんとは、私が結婚した年の1984年からお付き合いが始まりました。結婚を機に、星の活動を再開しようと思うようになり、地元横須賀に拠点を置き活動している横須賀天文研究会(以後スカ天と称す)に入会する決心を固め、平作にある事務局の中居さん宅を訪問したのが最初の出会いです。自宅の敷地内には、銀色に輝くドームが鎮座し、それを見て思わず興奮しながらドアホンを押しました。家の中に通されると、やはり星を趣味にしている雰囲気の部屋でしたが、天文書籍が多く占める中、音楽関係の書籍もチラホラ。部屋には愛用のクラシックギターも置かれていました。中居さんはギター愛好家でもありました。
最初の訪問では、星の事、スカ天の事、好きなミュージシャン等の話題で盛り上がりました。
晴れていれば、観測ドーム内にある機材で星を見せてもらう約束をしていましたが、その日はなぜか曇り空。実際に30センチの反射望遠鏡を覗く事になったのは、2回目の訪問の時でした。子持ち星雲やM13、それは素晴らしい見え味でした。さすがは苗村鏡です。
その後は、週末の度に自宅に訪問する日々が続き、私も星の世界にどっぷりと漬かる事になりました。
この頃のスカ天は、中居さんが看板を背負っているだけで、会員は中居さんただ1人。
多い時で30名いた会員も、進学、就職という流れの中で、次第に会から離れていき、
気づけば中居さん1人という低迷期に私が訪問したのです。
「近所に茶木さんという方がいるので、今度3人で会いましょう」と。
この3人の出会いの直後に小野さん、鈴木さんが会員に加わり、再スタートを切ったスカ天。
1988年の8月には機関誌「小びと星」の再発行も叶いました。その機関誌の巻頭言として書いた中居さんの記事が天文ガイド誌に載った事で、さらにヒートアップし、機関誌は2ヶ月毎に編纂し発行していきました。機関誌の原稿の大半は中居さんが書いたもの。私も「毎月必死に原稿を投稿しました」というか、見えない中居編集者の圧力に屈していました。再スタートした当時、スカ天は破竹の勢いで各メディアの目に留まるようになり、新聞社、雑誌社、ラジオ番組等で紹介されました。その立役者は、やはり中居さん。立案と行動力、文才と、彼の眠っていた能力が一気にバーストした頃でした。
その勢いは26号(1988年)から41号(1991年)発行の機関誌で知ることができます。
中居さんの天文ライフワークは、太陽観測と変光星観測。
太陽観測者としては、永年観測者として名を連ね、続アマチュア天文史40ページの表2.1によると、80mmの屈折望遠鏡で太陽黒点観測を行い、1970年から1977年までの期間報告しています。1977年以降は、変光星観測をメインに、亡くなる4年前まで観測を続けていたようです。機関誌のバックナンバーによると、1970年11月11日のアルゴル食の観測が最初の観測で、この時は極少から食の終わりまでの6時間の観測記録を報告しています。初めてのテスト観測でありながら、綺麗な曲線になっています。変光星も様々なタイプを観測していましたが、私が知る限りでは、激変星が特にお気に入りだったようです。暗い対象の変光星は30センチを利用していましたが、普段は12センチの反射望遠鏡でした。私にとって、中居さんは変光星観測のお師匠さんでもありました。中居さんとの出会いがなければ、変光星観測を開始する事はまずなかったでしょう。私も様々な天体は見るものの、変光星だけはアレルギーというか観測の対象外でした。それが、中居マジックに洗脳されてしまったのです。毎回、自宅にお邪魔すると変光星の話題になり、私に熱弁をふるう中居さん。帰りには必ずお土産として頂く変光星図を持たされました。そんなわけで、お邪魔するたびに変光星図は増えるばかりでした。しかし、当時の私は、何度も誘惑され「面白いから観測をやってみて下さい」と言われても、変光星図を活用する事もなく、その面白さが理解できないまま4年間が過ぎる事になります。自宅の観測ドーム内で、変光星観測のデモも披露してくれた事もありました。兎に角、変光星の事になると熱い人でした。その熱意に根負けしたのはある現象を見てから。偶然CYGSSが増光し8等台になっているところを見たのです。これは衝撃的な事件で、普段暗くて見えるか見えないかの星が、ピカッと輝いていたのですから。「これが中居さんが勧める面白さか!」その事件を切っ掛けに、私はのめり込んでいきました。それからは私の態度が一辺。「面白そうな変光星図ありませんか?」と逆に催促にまわりました。中々腰の重い私に、4年間もよく懇々と訴え続けたものです。先に日本変光星研究会に入会していた中居さんは、私にも入会を勧め、入会後は一緒に変光星関連のイベントに参加する事が多くなりました。
中居さんとは6歳離れていますが、接し方は同級生感覚で、腰の低い方でした。表舞台に出ることは苦手のようでしたが、舞台裏での活躍は、とても真似の出来ないものがありました。機関誌編纂に注ぐパワーは凄すぎの一言。一度エンジンがかかるとそれは早いもので、原稿もスイスイと書き上げます。
時間や納期はきっちりした方でした。活字を見ても読みやすい字体で書きますし、室内もきちんと整理している方でした。タバコは吸いませんが、お酒は嗜むレベルではありませんでした。酔うと相撲の四股を踏む癖も何度か見ています。
そんな楽しいお付き合いも、長くは続かず、1991年の後半、中居さんの父親が亡くなってからは、スカ天も日本変光星研究会も退会し、疎遠になっていきました。退会後は、ご結婚されて、2人の息子さんにも恵まれて暮らしている事は、風の便りで聞いた程度。
山梨県北杜市大泉町にある乙女座宮の近所に、観測所付きの別荘も建てたとか。
人はそんなに変わるものではないと思いますが、私は中居さんとの出会いで星との接し方が変わりました。スカ天を通して、7年間という短いお付き合いでしたが、今にして思うと、人生の中で最も濃厚な時間を過ごした7年間だったような気がします。
一昨日、茶木さんから訃報の連絡が入り、先週の土曜日(11/14日)に亡くなった事を知りました。享年63歳。定年後、まだまだ多くの天文現象や星への夢や発見、ロマンを抱いていたと思いますが、早すぎる死です。中居さんからは多くの事を学びましたし、素晴らしい出会いでした。感謝することは山ほどあります。名前の通り、中居さんは星の光を愛した方でした。中居さんの生き抜かれた生涯を偲び、星への情熱や生き方を学ぶと共に、その意志を引き継いでいけたらと思っています。
合掌
画像は左から中居氏、私、小野氏、茶木氏
1988年月刊「かながわ」12月号に掲載された時の写真です。
中居氏の観測ドーム内です。(現存)