私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

責任や原因を外に求めない

2015年04月07日 08時27分39秒 | 悟り
◇責任や原因を外に求めない◇

私たちは、何かあると直ぐに、責任や原因を外に求めます。
そして、「○○のせいだ」とか、「○○のせいでこうなった」などと言います。

それは、意識が外向きなのです。
外に依存していると言ってもいい。

そのようなことをいつまで続ければ気が済むのでしょう。
いつまでやっても、埒(らち)が明きませんし、切りがありません。
それに気づいてください。

あなたを中心とした、そのあなたの世界は、あなたの考え(意識)であり、あなた自身の現れです。
それは、誰のせいでもありません。
あなた自身の現れなのです。

あなた自身であるその世界と、真っ直ぐに向き合ってください。
そして、受け取ってください。

そんなに難しいことではありません。
その世界に対するあなたの意識や見方を少し変えてみてください。

起こってくる出来事や他の存在たちは、あなたの敵ではありません。
それらがやっかいなものだと思い込んでいる自分に気づいてください。
そして、受け取ってください。

受け取れば、終わります。


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読んで頂いてありがとうございました。

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涅槃を体験する方法

2015年04月06日 13時46分32秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇涅槃を体験する方法◇

一昨日の記事の流れで、涅槃を体験する方法について書いておこうと思います。

ここで言う涅槃とは、最終的な悟りを得た人が肉体の死に伴って至ると言われている涅槃とは少し違っていて(私は実質的には同じだろうと思っています)、感覚や認識を含めた一切の意識が断絶した状態である滅尽定のことを言っています。
なお、滅尽定は何段かある禅定の最深度にある禅定であり、涅槃の体験は禅定体験の一種と言うことができます。
禅定の体験は、悟りとは基本的に関係はありませんので、涅槃の体験も悟りは基本的に関係がなく、それを体験したからと言って悟れる訳ではありません。
ですから、余り涅槃の体験に拘らないようにして頂きたいと思います。

涅槃に落ちる方法として、私は二つの方法を知っています。
正確な言い方をしますと、私はその二つの方法で涅槃に落ちたことがあります。

一つは呼吸に意識を集中して瞑想する呼吸瞑想であり、もう一つは自覚を応用した手法です。
涅槃を体験するにはどちらが簡単かと言いますと、おそらく多くの方の場合、呼吸瞑想の方が簡単だろうと思います。
以下に、一つ目の方向から順に説明していきます。

呼吸瞑想は、呼吸に意識を集中して瞑想するものならどんなものでも結構です。
息を吸うときはその吸う息に意識を集中します。
そして、吐くときはその吐く息に意識を集中します。
短くて30分、長い場合は2時間程度、毎日続けます。
集中力の高い方だと、数週間程度で涅槃に落ちる体験が得られるかも知れません。

具体的な方法として、私が30年弱前にやっていたやり方を紹介します。
まず吸う息について、口は閉じた状態にして、息に意識を集中しながら、胸でなく、腹(丹田)で息を吸うような感覚で、息をゆっくりと鼻から吸っていきます。

このとき、頭の中で1から順に予め決めた値までゆっくりと数を数えながら息を吸います。
数を数えるペースは、厳密なものではなく、例えば1秒ごとに1、10秒で10数える程度にゆっくり目にします。
この呼吸法は、吸う、止める、吐くの三つで一つのサイクルになっているのですが、吸う、止める、吐くの各ステップでいくつの数を数えるかは、各自の自由です。
各ステップで数える数が異なっても大丈夫です(私の場合はややこしいので、三つとも同じ数にしていました)。
各ステップでいくつ数えるかは、呼吸が苦しくない程度に、程よい数に設定してください。
最初のうちは呼吸が浅いので、各ステップで8から10程度まで数える、つまり一つのサイクルを30秒それ以下にするくらいでいいのではなかと思います。
慣れてきて、深い呼吸ができるようになると、サイクルの長さを徐々に長くしていけばいいと思います。

息を吸いきったら、その腹(丹田)に溜めた息に集中しながら息を止め、予め決めた値まで数を数えます。
そして、その腹(丹田)に溜めた息を、吐く息に意識を集中しながら、ゆっくりと口から吐いていきます。
そのとき、予め決めた値まで数を数えながら息を吐きます。
息を吐ききったら、今度は息を止めずに、また数を数えながら息を鼻から吸っていきます。
この繰り返しです。

数を数えるのは、無駄な思考を抑え、意識を息に集中するのを助けるためです。
最初のうちは数を数えることの方に意識が行ってしまい、余り息に意識がいかないかもしれません。
それでも構いませんから続けてください。
慣れてくれば、数を数えながら息に意識が集中できるようになっていきます。

そして、息への意識の集中が十分に進んでくると、集中が途切れている訳ではないのに、途中で数を数えるのを忘れてしまって呼吸だけを続けている自分に気づくというようなことが起こるようになります。
それは、息への意識の集中が高まっている証拠ですから、余り気にされず、気づいた時点で数のカウントを再開して、呼吸法を続けてください。

息への意識の集中がさらに進んでくると、呼吸を吸いきったところで、自分が意図して息を止めた訳ではないのに、知らないうちに呼吸が止まっていることに気づくということが起こるようになります。
あるいは、呼吸を吐ききったところで、知らないうちに呼吸が止まっていることに気づくということも起こるようになります。
このように呼吸が止まるようになれば、かなり意識の集中が進んでいる証拠です。

そしてさらに続けていると、呼吸瞑想中に、自分の呼吸が止まり、それだけでなく、自分の意識も完全に断絶していたことに気づくときが来ます。
それが涅槃です。

ここでは、私のやっていた呼吸瞑想を紹介しましたが、呼吸に意識を集中しながら瞑想するならどんなものでも大丈夫です。
例えば、お釈迦さんが勧めていた数息観でもいいです。
数息観のやり方については、ネットで調べるとあちこちで紹介されています。


次に、二つ目の自覚を使った方法について説明します。
これは一昨日の記事で簡単に説明した方法です。

この方法は、自覚を使うので、自覚を体得していることが必要となります。
つまり、「私」をしっかりと捉えている必要があります。

涅槃に落ちるための行程は二つのステップからなっています。
最初のステップでは、私に意識を集中することで、通常の意識状態から、世界をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識である観照意識に移行します。
高い集中度で意識が私に向けられると、それに伴って思考が抑制され、自ずと観照意識へと移行します。
このとき、感覚として、世界を遠く感じたり、静寂を感じることがあります。

次のステップでは、その観照意識を自覚を使ってコントロールすることで、涅槃に入っていきます。
まずは、私に高い集中度で向けていた意識の集中を緩めていきます。
それに伴って、世界に対する認識が低下又は後退していき、意識も薄れていきます。
そして、それに合わせるようにして、自覚により捉えている「私」をポイと放り投げるようにして、観照意識を手放します。
すると、それに伴ってストンと意識が完全に落ちます。


涅槃から通常の意識に帰ってくるのは、特に何もしなくとも、自動的に帰ってきます。
涅槃に落ちている長さは、そのときの姿勢や意識の状態など種々の要因により異なるのだと思いますが、個人的には比較的短い時間で戻ってくることが多いのではないかと思っています。
私の場合、短いときは、おそらく1秒前後から2、3秒程度で、長いときはおそらく十秒から十数秒程度ではないかと思っています(最長だと1分とか、1分以上もあったのかもしれません)。
呼吸瞑想で涅槃に入るときほ方が涅槃に落ちる時間も長いように思いますので、深い瞑想の延長で涅槃に入ると、涅槃に落ちている時間も長くなる傾向があるのではないかと思っています。


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観照と内観と自覚の違い等について

2015年04月04日 21時02分10秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇観照と内観と自覚の違い等について◇

観照と内観と自覚の違いについて、メールでご質問を頂きまして、その返事をもとにブログ記事をつくることにしました。


自覚と内観の違い等については、先日のブログ記事に書いた通りです。

観照とは、内側、外側の区別なく、起こってくる現象や、感情、感覚、思考、衝動、行為など、すべてのこを、ただ観る(ただ認識している、あるいは気づいている)という瞑想のような意識の使い方のことです。
「ただ観る」という意識の使い方にウエイトがあります。

これに対し、内観は、その名の通り、外側のことよりも、主に内側で起こる感情や思考等の考えを観るものですが、内観の場合は、「ただ観る」という意識の使い方だけでなく、分析したり、掘り起こしたりするような意識の使い方も、含むものです。

また、自覚は、「私」に意識を向けることを基本とし、内側及び外側で起きてくるすべての考え(現象も感情も思考等を含む)について、その考えは「私」の考えだと自覚するものです。
そして、もちろん、自覚は「私」に意識を向けることが基本なので、ただ「私」に意識を向けてるだけでも自覚になります。

このように、自覚、内観、観照は、意識の使い方やそのウエイト配分等が少しずつ異なっていますが、三者は完全に別個独立しているものではなく、互いに共通する部分を有しています。
ですから例えば、自覚を伴った観照という意識の使い方もあります。
と言いますか、高い集中度で「私」に意識を集中し、深い自覚に入ると、自ずと、自覚を伴った観照の意識状態になります。

自覚、内観、観照の基本的な関係については、こんな感じです。


補足として、ついでに観照意識と呼ばれるものについて説明したいと思います。

観照意識とは、起こってくる現象(考え)をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識であり、私という自我の意識の根底にある意識です。
私という自我の意識は、その観照意識をベースとし、その上に、感覚や感情、思考等が重ね合わされるようにして構成されています。

多くの方の場合、起こってくる感情や思考等がとても多いため、観照意識がその思考等の厚い層に常に覆われています。
それが、悟りの道に入り、思考等が減ってくるにつれ、観照意識が思考等の隙間を介して意識の表面に露わになってきます。
観照意識が意識の表面に露わになると、思考等が十分に抑制され、起きてくる現象(考え)をただ観ている(あるいは、ただ認識している)意識状態になります。

さらに補足して、この観照意識は自我の範疇なので、その強さを自我の力で制御することができます。
例えば、「私」に対する集中度を高めれば高めるほど、観照意識も強くシャープなものになります。
そして、通常の意識状態から観照意識に移行した状態で、観照意識の強さを落としていくこともできます。
その強さを落としていくにつれ、この世界に対する認識が低下又は後退していきます。
そして、「私」をポイと投げ捨てるようにして観照意識を手放すと、完全な無我である涅槃(気絶状態です)にストンと落ちます。

観照意識から涅槃に入ることができるのです。
興味のある方はぜひやってみて頂きたいと思います。

面白いでしょ。(^^)


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社会への依存について

2015年04月04日 13時27分57秒 | 悟り
◇社会への依存について◇

私たちが持っている囚われには、社会や他者との関係に関連したものが多いです。
その中に、社会への依存が含まれています。
例えば、人は一人では生きていけないなどの思い込みがあります。

社会への依存心が強いため、社会から阻害されることなどに対して、とても強い恐怖心が生じます。
阻害されること、孤立すること、仕事等の居場所を失うこと、収入を失うことなどに対して、必要以上に恐れおののきます。

孤立するのはダメだ、孤立すると生きていけない等と思い込み、無用な不安や恐怖をつくっている自分自身に気づいてください。

孤立したって、一人きりになったって、収入がなくたって、生きていけます。
大丈夫です。
なるようになっていくだけです。
(例え仮に、死ぬようなことがあっても、死だって大したことじゃありません、笑)

社会を「私」の上に置かないでください。
社会に依存しているあなたは、社会の奴隷です。

社会を足の下に踏みつけるくらいの強い気持ちで、その依存心や恐れを断ち切ってください。
そして、社会を対等でフラットな視線で眺めて頂きたいと思います。


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自覚と内観の違いについて

2015年04月03日 07時52分18秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自覚と内観の違いについて◇

誤解しておられる方が多いのではないかと思ったので、自覚と内観の違いについて改めて書いておこうと思います。

自覚と内観とは、起こってくる考え(現象を含めて)を観るという点では共通しています。
しかし、両者は決定的に違っています。

何が違うのかと言いますと、自覚の肝は、「私」に意識を向けることなのです。
考えを観ることは補助的なものなのです。
「私」に意識を向けさえすれば、考えを観なくとも、自覚になるんです。

ですから、自覚をやられる際には、起きてきた考えをただ観るのではなく、まず、「私」に意識を向けた状態をつくっていただきたいのです。
その上で、起こってきた現象や、感情や思考等の考えに対する自覚をやって頂きたいと思います。
まずは、「私」に意識を向ける、これが基本であり、自覚の最大のコツにもなります。

繰り返しますが、まずは、「私」に意識を向けた状態をつくる、これが基本です。

その状態を保ちつつ、起こってきた考えについて自覚をやっていくのですが、そのときもちょっとしたコツがあります。
現象でも、感情でも、思考でも、行為でも、何か考えが起こってきたときに、『私』、あるいは『私が』という主語が入った自覚のフレーズを心の中で唱えながら、その起こってきた考えに対する自覚をやって頂きたいのです。
具体的には、
「『私』がこれをやっているんだ」とか、
「『私』がそう考えているんだ」とか、
「これは『私』の考えなんだ」等の
主語である『私』が入った自覚のフレーズを唱えながら、逐一、徹底的に、かつ丁寧に自覚をやって頂きたいのです。

そうやって、『私』という主語が入った自覚のフレーズを心の中で唱えることで、自ずと、私(自分)に意識が向くようになり、考えに対する主体性(主導権)が養われていきます。
それとともに、自覚も深まっていきます。
そして、自覚が深まってくると、そう言った自覚のフレーズを唱える必要もなくなっていきます。


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感情等に翻弄されているときはチャンスです

2015年04月02日 20時36分54秒 | 悟り
◇感情等に翻弄されているときはチャンスです◇

自覚の基本は、自分に意識を向けることです。
特に何も無い平穏な状態のときは自覚が上手くできていても、人と対峙しているときや、悩みや心配事があるときなどは、起きてくる感情や思考に同化してしまい、自覚を喪失してしまうということがよく起こるだろうと思います。
そのように、起こってくる感情や思考に同化してしまい翻弄されることは本当にしばしば起こるだろうと思います。

それで普通です。
最初のうちはそういうものなのです。
余り落胆したり、自分を責めたりしないで頂きたいと思います。

それよりも、いかに粘り強く自覚を続けていくのかが重要です。
考えに翻弄され自覚を喪失してしまうことを嘆くより、自覚を続けていくことの方に意識を向けて頂きたいと思います。

また、こんなことも言えます。
感情や思考等の考えに翻弄されているときは、そのときこそ、自覚の絶好のチャンスなのです。
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、ただ無力に考えに翻弄されてしまうのではなく、一瞬でもいいので、考えに翻弄されている自分に気づいて頂きたいと思うのです。

「あっ!いま自分は考えに翻弄されている!」と、気づいて頂きたいのです。

そして、そのことに気づくことができたなら、もう一踏ん張りして、その自分が翻弄されている感情や思考を、自覚の視点から観て頂きたいのです。

その瞬間、あなたは、そのような感情や思考を引き起こしている考え(囚われ)に気づくはずです。
気づけば、その囚われはパッと消失します。
後には、ウソのように晴れやかな、あるいは思わず笑いたくなるような感覚が残ると思います。

ぜひ、この感覚を味わって頂きたいと思います。

感情等に翻弄されているときこそ、チャンスなのです。(^^)


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幸せという不自由に気づく

2015年04月01日 23時19分01秒 | 悟り
◇幸せという不自由に気づく◇

多くの方が感じる幸福感は、実はとっても不自由な状況です。
幸せは、多数の条件で縛られたとても窮屈な状況なのです。

どういうことかと言いますと、まず幸福感を感じるためには、感覚的に少なくとも不快でない必要がある訳なのです。
つまり、寒くて死にそうだとか、お腹が減って死にそうだとか、何処かが痛くて、あるいは苦しくて死にそうだという状況では幸せとはほど遠いのです。
通常の場合、衣食住等の基礎的な環境がある程度整っていてこそ、幸福感が得られるのです。

私たち人間は貪欲ですから、ある程度感覚的な面で不自由がなくとも、多くの人はそれだけでは満たされません。
自分のいる状況に対して、より厳しい条件を設け、それを満たそうとします。
多くの場合、その条件は、何かを獲得することによりクリアされるものとなっています。
学歴、仕事、お金、恋人、家庭、家等のモノ類などなどです。

大きな幸福感や喜びを得ようとすると、際限なしに条件の数は増えていき、限りなく窮屈になっていきます。

これが、みなさんが求めている幸福の姿です。

そのことに気づいて頂きたいと思います。


中には、自分は、真の幸福である愛や平和、世界の調和を求めているのであって、一般の人と自分を一緒にしないでほしいと言う方がおられるだろうと思います。
いや自分は、何も求めていない、ただあるがままでいいんだ、そこにこそ真の幸福があるんだと言う方もおられるのだろうと思います。

しかし、愛や平和や調和、そして「あるがまま」も考えであり、囚われであり、条件付けなのです。

そうすると、幸せって何だろうと思う方がおられるかもしれません。

幸せって、何なのでしょうね。(^^)

ぜひ、考えてみて頂きたいと思います。(^^)


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