◇私とはまるで自転車操業◇
私という存在は自我と真我の二面性を有しているのですが、その活動はまるで自転車操業のようです。
どういうことかと言いますと、常に自我が考えをつくりだし、それを握りしめていないと、私という存在が終わってしまうのです。
それはまさに、ペダルをこぐのを止めるとすぐに自転車が倒れてしまうのとよく似ています。
まず私という自我についてですが、自我は、私があるというコアの感覚(これも考えですが、魂と言ってもいいです)を中心にして、自我が握りしめた多数の考え(執着や固定観念のようなものです)がそのコアを何層にも取り巻くようにして出来ています。
このように、自我とは考えの固まりのようなものなのです。
コアとそれを取り巻く考えとは、互いを強め合うように、まるでジャングルジムのように互いに関連付けられています。
このジャングルジムのように組まれた考えは、固定的なものではなく、自我がつくる考えの傾向が変化してくると、その変化に応じてジャングルジムを構成する考えの一部が順次入れ替わっていくようになっています。
このような自我ですが、自我が常に考えをつくり、考えを握り直すようにしてエネルギーを注ぎ続けないと、ジャングルジムの構成が直ぐに崩壊し始めるのです。
そのように、私という自我の構成はとても崩れやすく脆いものなのです。
自我がつくる考えの量が減った場合でも、その減った分だけ崩壊が起こるようになっています。
もし、自我が何も考えをつくらなくなってしまったら、その瞬間、自我そのものがすべて崩壊してしまうのです。
自我とはそれくらい脆いものであり、直ぐに崩壊してしまうものなのです。
真我も自我と同様に自転車操業ではあるのですが、真我の操業はもっとゆっくとしています。
真我とは、自我がつくった考えそのものというか、自我がつくった考えを反映させる装置であるというか、私(自我)を中心としたこの世界そのものというか、そういうものなのですが、真我には考えを溜めておく機能があるのです。
この考えを溜めておく機能とは、例えば前世でつくった考え(執着)が今世で反映される等のことです。
この考えを溜めておく機能により、仮に自我が新たな考えをつくらなくなっても、その後一定期間の間(例えば、肉体が滅ぶまでの間)は、真我の活動(つまり、タンクに残っている執着の反映活動です)が続くようになっています。
そして、その真我の反映活動が続いている間は、その反映活動により起こってくる出来事に関連して、自我が顕在化し、その出来事を経験するとともに、その出来事に起因した種々の考えをつくるようになっています。
但し、この残りの執着(残りカルマ)に起因して自我がつくる考えは、残りカルマの消化のために起こるものであるため、新たな執着をつくりだすことはないのです。
最後に余談ですが、ここまで説明すると、悟りの手段としてなぜ自覚(自分に意識を向ける)や受容に大きな威力があるのかが分かると思います。
自覚をすると、考えをつくり続けている自我の活動が大きく抑制さるのです。
さらには、すべてを受け入れるほどの受容が起きてしまうと、その瞬間自我の活動がほぼ完全に止まってしまうのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私という存在は自我と真我の二面性を有しているのですが、その活動はまるで自転車操業のようです。
どういうことかと言いますと、常に自我が考えをつくりだし、それを握りしめていないと、私という存在が終わってしまうのです。
それはまさに、ペダルをこぐのを止めるとすぐに自転車が倒れてしまうのとよく似ています。
まず私という自我についてですが、自我は、私があるというコアの感覚(これも考えですが、魂と言ってもいいです)を中心にして、自我が握りしめた多数の考え(執着や固定観念のようなものです)がそのコアを何層にも取り巻くようにして出来ています。
このように、自我とは考えの固まりのようなものなのです。
コアとそれを取り巻く考えとは、互いを強め合うように、まるでジャングルジムのように互いに関連付けられています。
このジャングルジムのように組まれた考えは、固定的なものではなく、自我がつくる考えの傾向が変化してくると、その変化に応じてジャングルジムを構成する考えの一部が順次入れ替わっていくようになっています。
このような自我ですが、自我が常に考えをつくり、考えを握り直すようにしてエネルギーを注ぎ続けないと、ジャングルジムの構成が直ぐに崩壊し始めるのです。
そのように、私という自我の構成はとても崩れやすく脆いものなのです。
自我がつくる考えの量が減った場合でも、その減った分だけ崩壊が起こるようになっています。
もし、自我が何も考えをつくらなくなってしまったら、その瞬間、自我そのものがすべて崩壊してしまうのです。
自我とはそれくらい脆いものであり、直ぐに崩壊してしまうものなのです。
真我も自我と同様に自転車操業ではあるのですが、真我の操業はもっとゆっくとしています。
真我とは、自我がつくった考えそのものというか、自我がつくった考えを反映させる装置であるというか、私(自我)を中心としたこの世界そのものというか、そういうものなのですが、真我には考えを溜めておく機能があるのです。
この考えを溜めておく機能とは、例えば前世でつくった考え(執着)が今世で反映される等のことです。
この考えを溜めておく機能により、仮に自我が新たな考えをつくらなくなっても、その後一定期間の間(例えば、肉体が滅ぶまでの間)は、真我の活動(つまり、タンクに残っている執着の反映活動です)が続くようになっています。
そして、その真我の反映活動が続いている間は、その反映活動により起こってくる出来事に関連して、自我が顕在化し、その出来事を経験するとともに、その出来事に起因した種々の考えをつくるようになっています。
但し、この残りの執着(残りカルマ)に起因して自我がつくる考えは、残りカルマの消化のために起こるものであるため、新たな執着をつくりだすことはないのです。
最後に余談ですが、ここまで説明すると、悟りの手段としてなぜ自覚(自分に意識を向ける)や受容に大きな威力があるのかが分かると思います。
自覚をすると、考えをつくり続けている自我の活動が大きく抑制さるのです。
さらには、すべてを受け入れるほどの受容が起きてしまうと、その瞬間自我の活動がほぼ完全に止まってしまうのです。
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