天正十年(1582年)6月2日京都の本能寺において主君信長を討ったのは事実ですが、前半世は謎に包まれています。
美濃の名族明智氏の嫡流に生まれ、国主の斎藤道三の死後、諸国を放浪、武者修行し、越前の朝倉義景の客将となって、この地に流浪してきた室町幕府15代将軍候補の足利義昭の知遇を得て、信長に義昭を周旋。その功績で破格の待遇で信長にめしかかえられたというのは、すべて江戸時代に創られた物語です。光秀の父の名はもちろん年齢も出生地も不詳のままです。美濃の土岐氏の分流であった可能性はあるものの、それは確定とは言えません。競馬でいえば無印です。
永禄六年(1563年)諸役人柄という室町幕府の資料には足軽衆として明知の名前があります。もしかしたら、明智光秀かもしれません。近年、明智光秀は医者の息子であったという資料も見つかっていますが、---。
ドラマでは前半世が不明なことから、いろいろ脚色できて面白くできます。
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