足尾銅山のお膝元の谷中村は野鳥の楽園と呼ばれ1000種類以上の植物が生息する楽園であったが銅の採取が進むと、鉱毒ガスや硫酸が含まれた排水が渡良瀬川に流され、水田の稲は1粒も実らず、畑の作物も育たず,河川の魚は生きたえてしまった。
そこで立ち上がったのが衆議院議員の田中正造であった。田中は議員を辞職して、谷中村に住み込み、反対運動するが、政府は谷中村を買収して、廃村にしてしまう。田中は72歳で大正年に亡くなるが、残された財産はわずかな小物と数札の本であった。田中正造も天皇に直訴を試みているが、失敗している。
当時の日本は国策で銅の採取を行っており生糸と並、輸出品の銅の採取の為には手段を選ばなかった。
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