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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

見えない生き地獄

2021年10月05日 14時16分47秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物が人間性を発揮するために必要なのは 本人が主体的に人生を楽しめることを見つけられているのが大前提である

自律とは自発性の中にしかない

これは定理である

自発的ではないものは自律ではないからだ

他人から強要されたり洗脳されていたのでは他律にしかならない

だから論理的に定理なのである

 

自分がこれからも生き続ける上において 他人の不幸を放置することも出来ないのは 自分が生きていることに幸福を感じられるからである

だが 欲望と幸福は同じではない

欲望自体は自分では選択が出来ないからだ

だが 欲望の中から自分が本当に幸福だと思えるものを「選択」することは可能である

その選択可能性の中にこそ 本質的な自己 意識 意思というものが存在するのである

目先の欲望の強度程度に惑わされていたのでは 本質的な自分の意識としては働かない

他人の迷惑に配慮しないバカを尊敬できない以上 自分が他人の迷惑に配慮できなければ自己肯定感も得られないのは当たり前であり 自己肯定感がないまま生き続けることは本当は生き地獄なのである

 

欲望というものは あくまで動物的な行動を促すシーケンシャルで自然(自動的)なものであり 祖先の生息環境に依存した結果でしかない

目的とは 本質的な意識によって合理的に見極められた行動選択のためのものであって 目先の欲望に左右されていたのでは「本当の目的」を見失うのは当たり前の話である

 

「性的嗜好の少数派の存在を認めろ」と主張する風潮はあるが それなら幼児性愛傾向という多数派の存在を認めないのはおかしな話である

幼女に性的興奮をしてしまうのは「目的」でも「意思」でもない

先天的行動バイアス(習性)の暴走であり 錯覚のようなものである

どうせ錯覚ならば 相手はポリスチレンでもシリコンゴムでも塩化ビニールでも何でも良いのである

世間的には悪趣味だとしても 人畜無害ならとやかく言われる筋合いはない

森七菜や上白石姉妹や長澤茉里奈など どう見たって幼い顔の方が人気があるのであって 幼女趣味はそれ自体は異常ではない

行動結果が異常かどうかは 欲望と行動の間に理性が働いているかどうかによるものであって 欲望や趣味趣向そのものには罪はない

自分の趣味趣向が世間的に悪趣味だからといって 卑下する必要はないのである 人畜無害な行動なら誰に遠慮する必要がある

誰にも知られたくないというのであれば 別にカミングアウトする必要もない

プライバシーというのはそのためにあるのだ

性的衝動なんてのはヌイときゃとりあえずは収まる簡単なものであり 人畜無害な自慰行為なら他人からとやかく言われる筋合いはない

自慰行為が恥ずかしいといっても 脱糞だって放尿だって恥ずかしいのは一緒であって 誰でも恥ずかしいことなどあって当然である

女性の場合 汚い酔っぱらいに強姦されることを妄想すると性的興奮が高まるという趣味の人もいるという

それもまた悪趣味ではあるかも知れないが 他人にとやかく言われる筋合いも 他人と比較して卑下する必要性もない なぜなら欲望自体は意思とは無関係だからである

欲望の強度程度が行動に直結し そこに理性が働かないと人間性や倫理を欠いた行動になるのであって 人間性にとって重要なのは理性(客観的論理検証性)なのである

しかし 理性そのものは目的がない

純粋理性というものは人畜無害だが それだけでは何の役にも立たない

様々な欲望の中から 人生全体において統合的に最も優先度の高いものを合理的に選択することによって はじめて人間性として発揮されるのであって 主観(欲望)だけでも論理客観的論理検証性(理性)だけでも人間性としては機能しないのである

これはバランス問題ではない あくまで理性が欲望を制御していてこその人間性であり 特定の欲望を目的にした理性では利己的行動にしかならないのである

 

 

 ◇

利害関係の問題なら 利害の調整だけしておけば良い」(養老孟司)というものではない 理不尽な既得権を放棄させる上において「利害の調整」をする必要性はないからだ

イスラム過激派による自爆攻撃も 本当は「死後の世界における神からの祝福」だの「永遠の命」といった仮想の抽象化された利益利害が目的であって これもまた「調整」するようなものではない

学力成績という抽象化された脳への報酬や カネへの異常執着も 「死んでも良いから健康でいたい」という健康マニアの妄想と同じ欲望の暴走である

ヒトは元々野生動物であったため どうしても遺伝子レベルでの貧乏性を発揮し 欲望が暴走してしまいがちな欠陥がある

欲望の暴走に合理性がないことを自覚するのは理性である

特攻隊もヤクザの鉄砲玉も 集団内部での評価承認の暴走によるものである

何せ利益利害が形而上の妄想であるため これは「利害の調整」ができない

クソゲーに課金して満足しているのと同じで 主観と意思の違いを区別できない理性の欠如が原因である

 

 


Ende;

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ウソ充

2021年10月05日 12時34分50秒 | 意識論関連

自殺を罪だと規定してしまえば 生きていることがツラいと主張すること自体までもが「悪いこと」になってしまう

「絶望をするからこそ人間でもある」(セーレン:キェルケゴール)

サルは絶望しない

権威や多数や 根拠のない世間の常識や因習に唯々諾々と従っているだけのバカなら絶望などしないのである

こういうバカの群れが 「人間」を殺しにかかっているのである

 

ヒトにはそれぞれ得手不得手というものがある

決してそれは同じではない

言語コミュニケーションが苦手な者もいれば 体力の低い者もいる

胃腸が弱いのに身体を鍛えることが向いていないの当たり前であり トップアスリートというのは大半が消化器系が頑丈な人達である

それぞれが異なるのに 同じ能力を要求することの方が間違っているのであって むしろそれぞれの個性を活かすことによって より広い領域での活躍が見込め 社会効率は向上するのである

 

大衆は既存の権威や世間的成功者の話にしか耳を貸そうとはしない

それは 自分も世間的地位や成功にあやかりたいという利己的計算に基づいた選択である

自己の生存にとっては その方が有利だが 真実を見極め社会安全性や平等公平性を高めることには全くならない

自分が地位や成功を手にしても 社会が崩壊したのでは何にもならないことには配慮が欠けている

たとえ地位や成功を手にしても それが本当に自分にとって幸福なのかと言えば 実際には「他人への憧れ」に基づいた妄想に過ぎず どんなに資産が増えても幸福にはなれないし 地位身分も既得権にしがみついて不正をしだすことからも 全く幸福にはつながっていないのである

本当の幸福とは 自分が主体的に「楽しい」と思えることに熱中することであって それは世間的評価や収入とは無関係である

 

絶望は罪ではあるが 絶望を感じるからこその「人間」でもある

「苦しい」と感じることを主張してはいけないような風潮は 他人の絶望から眼を背ける卑劣なものである

故 益川敏英氏は「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べていた

「苦手を克服」だとか言っているバカというのは 生徒子供の能力を既存の評価基準を平均的に高めることが自分の業績になるから言っているだけであって 利己的利益を優先した極めて卑劣な主張である

バカの主張に耳を貸してはいけない

バカ程声だけは大きいので むしろ主張を強く押し付けてくる奴ほど疑ってかかった方が良い

 

主体的に楽しめる純粋行為があれば 世間で嫌なことがあっても耐えられるようにもなる

加藤英明のように 爬虫類の研究に熱中できる者なら それだけで幸福になれる

体力的にキツくても むしろ好きなことで体力を使うのであれば ツラいとは感じないものなのである

私は自転車に乗るのが好きなので 一日中自転車を漕いでいても楽しいと感じる

体力的にはキツイのだが 精神的にはツラくはない

 

慶応の「塾員」のように 多数で協調的に統率行動が採れれば 金儲けや世間的成功にとっては有利かも知れないが そんな基準は人間性の基準にもならなければ 本当の幸福にもならない

本当に主体的に楽しいと思えるものがあれば 他人への配慮 社会安全性や公平性についても配慮ができるようになる

最も優先されるべきは 個人が主体的に人生を楽しめることを持つこと 知ること 見つけ出すことであって 宮沢賢治の場合には農業であったため 農業振興に寄与することも出来た

だが 宮沢賢治の活動は決して順風満帆ではなく 様々な抵抗に遭ってもいるのであり それでも挫折しなかったのは 決して宮沢賢治が「強かった」からではなく 自分が主体的に好きなことだったからこそ 挫折することなく突き進むことが出来たのである

「強い」人間などいない

「楽しい」か「楽しくないか」で挫折するかどうかは人それぞれ違うものなのである

他人が楽しいと思っていることでレベチになっているからといって 自分が真似出来ないことに劣等感を持つ必要はない

自分がレベチになれるようなものを見つけることが 結果的に外見的な「強さ」になるのであって 「強く」なることを先に強要されても意味がわからないのは当たり前の話である

何を「楽しい」と思えるのかは 人それぞれであって 他人との比較には意味がない

従って 他人と比較して自分の特定能力が劣っていることを嘆くのは無駄である

他人の脳と 自分の脳は違うものであって 脳神経接続がない以上比較は無意味だからである

世間的評価がなかろうが 貧乏だろうが まず自分が楽しいと思えることを持つことによって 生きる気力も続くのであって たとえどんなに世間的に成功しても 楽しくないと思ってしまえば自殺することもある

TBSの川田亜子アナウンサーのように視聴者から人気があって生活にも何ら困らなくても自分のベンツで煉炭自殺してしまうこともある

アコちゃんは他人と比べて自分が幸福ではないと「感じて」しまったらしいのである

幸福かどうかは外見ではわからない

世間的成功者に憧れても それが本当に幸福なのかは人それぞれである

TBSの人気女子アナになれても 決して本質的に「充実」できるわけではないのである

インスタグラムで上っ面な「リア充」を装っても そんなものは本質的な「リアル」ではない

むしろインスタグラムで外見を装うことに疲れて自殺を増やしている要因になっているという説もある

自分の幸福は自分で見つけなければ 本当の幸福にはなれない

自分が何に幸福を感じるのかを知らなければ 他人の幸福にも配慮はできなくなる

社会持続可能性や安全性や公平性への配慮というものも 前提に自分が生きることへの意欲があってこそのものである

 

 


Ende;

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似非人道主義者の咆哮

2021年10月05日 10時48分27秒 | 意識論関連

自殺を違法だと言い張っても自殺の原因究明にも再発防止にもならない

これはテロや通り魔も同じことで「許さない」と主張したところで再発防止どころか抑止にすらならない

「生命尊重派」などと称して生きることだけを目的にしてしまうから安全性や公平性が後回しになってしまうのである

自殺問題というのは 許す許さないの問題ではないのである

許さなかったら自殺が止められるのか

その「許す許さない」と主張しているお前は一体何様だと

何の権限があって他人の生殺与奪に関与してんだと

傲慢にも程がある

一方では自己犠牲を人間性だと言い出すバカもいる

バカは何の解決にもならないことを感情的になって大声で主張していれば正義だと勘違いしているので 何ら合理性のある実効的対策への転換をしようとはしないのである

合理的で実効性ある対策を放棄している無責任性については「なかったこと」にしているのである

穴の空いた鍋に大量の水を注いでおいて 「水は減ってない」と喜んでいるバカである

「アタシは生命を尊重している人道的な人間だ」とでも勝手に妄想しているのであろう

バカというのはつくづくどうにもならない

自殺は違法にすべきではない

違法にしても自死を止めることにはならない

違法にすべきは他人を自死に追い込むような行動の方であって 「自死は違法」だと他人に生存を強要する自称「生命尊重派」の無神経な主張もまた違法とすべきである

生存を絶対的な目的としてしまうことにより 自己の生存のために他人の犠牲をも求めるキチガイを助長してしまい 益々自死を増やしてしまうことになる

「死にたい」と一度も思ったこともない者にとっては 自死は「許されないもの」 「卑怯なもの」だと分類しておけば満足なのかも知れないが 自称「生命尊重派」の主観的満足のために自殺者を卑怯者扱いすることによって 自死を考えたことそのものまで蔑む無神経さについては「なかったこと」にしているのである

 

他人が自死を選ぶ権利を阻む権利はない

他人が自死を選んでしまうような社会を変えることの方が優先されるべきであって 「俺が死にたくないのに勝手に死ぬんじゃねぇ」と主張するのは傲慢であり悪平等というものである

穴の空いた鍋に とりあえず対処療法的に水を注ぐことも必要ではあるが 鍋の穴をどうやって塞ぐのかにまで言及しないのは 上っ面で薄っぺらな雰囲気重視の大衆迎合的な似非人道主義に過ぎず 無責任というものである

 

 

Ende;

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デッドドア(死亡フラグ的な)

2021年10月05日 01時01分05秒 | 日記

「言い合いやけんかになれば、玉川氏の方が不利だね。理屈じゃない人間も世の中にいる」と冷静なユーザーもいた。

 出典:https://news.livedoor.com/article/detail/20971209/

 

⇨暴力で解決する奴に不利で勝てそうにないことがどうして「冷静」だと言えるのであろうか

理屈が通じない奴がいたら「道理を通すことの方が冷静ではない」とでも言うのであろうか

ライブドアのライターもバカ過ぎて話にならない

 

「言い合いやケンカになれば勝てない」というのであれば ナチス政権下のドイツにおいてユダヤ人迫害を放置することが「冷静」だとでも言うのであろうか

多数派が暴力者なら迎合服従することの方が「冷静」だとでも言うのであろうか

少なくともライブドアのライターはそう「思って」いるらしいのだ

こうした多数派同調的な「冷静さ」こそが人間性の欠如につながるのである

 

「勝てそうにないから 怖いから 反論せずに服従する」というのは卑屈なだけであって 「怖い」という感情を正当化するための屁理屈に過ぎない

怖かろうが勝てそうになさそうが「ならぬものはならぬ」と頑として曲げない「意思」なくして人間性でも何でもないのである

フリードリヒ:ニーチェはこう言った「できそうにないことは やらない方が良い」と

学級内でイジメが起きている時に イジメを止めるのは「できそうにない」と主観的に思ったからといって イジメを止めないのは「冷静」とは言えない

自分の主観的感情を 意識か何かと勘違いしているからこそ 理不尽な暴力に屈服するバカが世の中の大半を占めているのである

事なかれ主義的な「冷静さ」こそが理性を喪失させていることを全く自覚しておらず

バカという他ない

 


Ende;

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間違ってますよw

2021年10月04日 23時48分17秒 | 日記

口がない虫というのはカゲロウの他に存在しません。

 出典:https://nazology.net/archives/97563

オオミズアオも口はないよ

ちゃんと調べてから書こうね

 

 

 ◇

夜行性の哺乳類にとって「緑色」は最も視認しやすい色でしたが、あえて捕食者に対して目立つことで

「不味いから食べるな!」

とアピールしていたのです。

 出典:https://nazology.net/archives/79070/3

 

⇨毒を持つ生物の外見が派手なのは

決して「毒があるぞ」とアピールするために自分の姿を派手に進化させたわけではない

毒があっても見た目が地味だと区別ができずに喰われてしまって淘汰されてしまうが

見た目が派手なら有毒であることが天敵から区別できることから喰い尽くされずに済んだ結果 外見が派手な個体種への収斂進化が起きたのであって 毒があるのに見た目が毒のない個体種と区別できない地味な個体種が死滅した結果であって 目的のために派手に進化したわけではない

 

ライターの「川勝康弘」 及び 編集者の「やまがしゅんいち」の解釈は間違いである

バカが多くてキリがねぇわ

 

 

Ende;

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自己犠牲≠人間性

2021年10月04日 22時05分47秒 | 意識論関連

私は 人間性の本質とは「個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」だとは言ったが

「人間性は自己犠牲だ」という解釈をするバカがいてビックリしてしまった

バカは何も理解しないので もはや憤慨を通り越して恐慌すら覚えてしまう

個人が主体的に社会的責任判断選択をしていれば 誰も理不尽な犠牲を払わずとも済むのであって 自己犠牲=人間性という短絡的方程式で片付けられる話ではない

「人間性は自己犠牲」と言っている奴は 自分から自律的な社会的責任判断選択をするつもりが一切ないのである

自分が生き続ける社会の安全性のために 他人に犠牲をお仕着せようとしている時点で 自分が責任を負うつもりが一切ないのである

これは極めて利己的発想であり バカ過ぎてどうにもならない

他人に犠牲を押し付けている時点で 自分が責任判断選択をするつもりも 犠牲になるつもりもないのである

もはや傲慢を通り越して 自分だけを特別な存在や神か何かと勘違いしているのではないか

 

自己の生存において社会安全性や平等公平性といったものが不可欠であるとは言えるが これは個人が主体的に望むものであって 他人からお仕着せ強制されるようなものではなく あくまで自発的に求めるようになることが重要なのである

天動説の時代に地動説が火炙りにされたのは 天動説が間違いだったと大多数が理解し認めれば「地動説は火炙り」という理不尽な結論にはならない

ナチス政権下においてドイツ人の大半がユダヤ人迫害に異議を唱えていればヴァルター:ベンヤミンはスイス山中で自決などしなくて済んだのである

自己犠牲は結果であって 原因は大多数の無責任なバカが少数の「正直者」を殺すことで「正直者」が自己犠牲に陥ってしまうのである

大多数の個人が自律的な社会的責任判断選択をしていれば 誰も犠牲にならずに済むのであって 「自己犠牲を人間性だ」と短絡的に解釈するのは 自分の自律的判断選択の放棄であり あまりにも利己的で都合の良い曲解にも程がある

バカは誰かを犠牲にすれば自分達の生存にとって有利だと そういうご都合主義的解釈によって 自律というものの本質を著しく捻じ曲げ解釈しており あまりに身勝手で人間性を欠いた著しい傲慢である

 

バカというのは自分だけはバカではないと「思って」いるため 何ら自発的には何も考えず 自分達にとって都合の良い勝手な解釈をして他人に責任判断を丸投げすることしか頭にないのである

あまりにバカ過ぎてどうにもならない

物事を論理客観的に「理解」し「検証(考え)」ることが それほどまでに嫌いなのか それともあまりにバカ過ぎて「できない」だけなのかはわからないが バカな奴ほど声だけは大きいので注意深く判別する必要がある

 

「自己犠牲=人間性」という短絡的解釈に基づけば ヤクザの鉄砲玉も 軍事政権に服従するだけの特攻隊も 殉教の名の許に行われる自爆攻撃も人間性だということになってしまう

そいういう短絡的な方程式をでっち上げるのが バカの常套手段である

あまりにも論理客観的理解力が欠如していて 本当に同じ脳容積があるのかと疑ってしまう

「コイツ 言語話すチンパンジーじゃねぇのか?」と 本気で疑ってしまう

もはや恐怖しか覚えない

 

 

Ende;

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子供の駄々に付き合っているヒマはない(碇ゲンドウ)

2021年10月04日 13時30分33秒 | 意識論関連

自殺者が増えると自殺者対策と称して自殺者の数字だけを抑えこもうとする対策ばかりが優先されるが

自殺したくなるような原因の方を無視して 自殺者だけを減らそうとするのは

底の抜けた鍋に水を溜めようとするようなものである

一生懸命水を注げば 一時的には水は溜まるかも知れないが 根本的解決には全くならない

自殺の最大要因は人間関係であり これはヒトの先天的な民族浄化バイアスによる差別排除が根本原因である

先天的にヒトは他人を差別排除することで他人よりも有為に立とうとする習性があり 主観的な優越感が客観的な社会安全性や公平平等よりも優先してしまうからである

これもつまり人間としての本質的な意識が働かず 先天的本能習性によって促される無意識な行動バイアスに無為に流されているからである

慶応出身の「塾員」が 連携して金儲け能力を発揮しても 東大出身者への劣等感からイジメなんぞをしていたのでは これは振り込め詐欺師の統率協調性と同じものであって 到底人間としての価値にはならない

 

ヒトという種の生物には 先天的に差別排除や懲罰で満足する習性があり これがヒトの社会の人間関係上の「生きづらさ」を作り出すのである

ヒトは決して先天的な人間性など存在していないのである

社会心理学や生物学者共は 断片的な利他的行動だけを抽出してきて「先天的人間性だ」などと言い出すが これはとんでもない大嘘であり 大衆迎合的ペテンに他ならない

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験 通称「アイヒマン実験」では 権威(自分よりも上)と見なした対象の命令に唯々諾々と服従して他人に危害を加えてしまう習性がヒトには存在することを証明しているのである

たとえ特定環境下において利他的行動が見られたとしても 差別排除をする習性が存在する以上は先天的本能習性だけで人間としての社会性が立証することは出来ないのである

非人間的行動習性を無視して 特定環境下だけで見られる利他的行動だけを都合良く陳列して「ヒトには先天的に人間性ガー」などと言い出すのは 生物学や社会心理学という「科学」を逸脱したオカルトでしかない

 

大衆観念的には ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているかのような話さえしておけば あたかも自分が先天的に人間性が組み込まれた優秀な存在であるかのように錯覚し 主観的気分感情のままに差別排除をしていても構わないものだと勝手に解釈するようになる

だから差別排除がなくならない

「自分だけは絶対に大丈夫だ」と盲目的に信じ込んでしまえば もはや自分の頭の悪さには意識が一切働かなくなり 一方的にバカにしかならなくなる

たとえ慶応大学を卒業できるほどの学力成績があっても バカはバカのままであり 自分の行動に間違いがあっても誰も気付くことは出来ないのである

むしろ 「学力=知能=人間としての優秀さ」といった大衆観念を鵜呑みにし 先天的な差別排除の行動バイアスに無意識に陥っていることには一切配慮しなくなるのである

バカというのは自分からは何も検証しない

自分からは「考え」ないからバカなのである

教えられたことを鵜呑みにして 教えられた通りにこなすことしかしない奴はバカという以外に形容詞はない

学力偏差値や出身大学は人間性とは関係がない

だから大企業や官公庁でも不祥事が後を絶たない

それは 人事部の採用基準や選別能力にも問題があるからだ

官公庁はもとより 企業の全ても社会的な存在であって 金儲けだけを目的にして社会的役割を放棄して良いわけがない

「経済」とは「経世済民」の略であり 「民を救済すること」が目的であって 「利己的金儲けさえしておけば社会全体が潤う」などというアダム・スミスの根拠なき妄想観念を鵜呑みにしている頭の悪さによって

人間としての社会性というもの 人間としての本質的な価値基準というものを錯覚しているからこそ 無責任なバカが責任職に就けることになっているのである

原発事故も同様である

ハーバードのバカ学生も金儲け能力は高いのかも知れないが 貧富格差の解消にも 紛争解決にも全く役に立たない

マイケル:サンデルの講義内容の論理的齟齬 論理整合性の欠落を誰も見抜けないデクノボウに過ぎないからだ

 

生物学界では長期にわたって遺伝的進化が合目的に能動的に選択可能なものであると信じ込まれ チャールズ:ダーウィンの進化説を曲解したまま「生存のために進化を選んだ」という説明をしてきた

だが 論理的に考えればランダムな突然変異と環境や配偶者選択などによる淘汰圧力だけでしか起こらない遺伝的進化に目的も戦略も存在しないことは明らかである

どんなに学力成績が高くても その大半 ほぼ全員は論理的に物事を検証できないバカに過ぎないからこそ 「遺伝的進化に目的だの戦略だのが存在する」といった大間違いを誰も指摘できなかったのである

 

驚いたことに 遺伝的進化には目的も戦略も存在しないことが周知されてくると 今度は「生きているだけでも 立派なものなのだ」などというはぐらかしや 「創造性は自然現象」など称して遺伝的進化を無理やり正当化するような訳のわからぬ話まで出てくる始末である

遺伝的進化も生物も 全ては「結果」であって目的ではない

進化は進歩ではなく 進化任せにしておいて都合良く社会安全性や公平平等性が改善進歩するわけではない

遺伝的進化というものは膨大な失敗の中から偶発的に起きた「結果」であって その多くは祖先の生息環境の影響によって意味のない行動習性も残されており その進化の先に絶滅が起きない保証はどこにもないのである

ヒトは 人間としては欠陥品である

この客観的事実を「信じたくない」かどうかは関係がない

客観的事実である以上は主観的に「信じたくない」という「個人の感想」は「駄々をこねている」だけの幼稚な観念に過ぎない

 

 


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徒労

2021年10月03日 13時20分43秒 | 意識論関連

人間関係での位置取り、相手のアクションに素早く対応する反射神経、場の空気の読み方、人の心を動かす言葉選び……いじめのうまさとコミュニケーション能力の高さは通じるところがある。

 出典:https://president.jp/articles/-/50500?page=4

この場合における「コミュニケーション能力」とは ヒトという種の生物としての社会形成習性という意味でもある

統率協調的に金儲けをすることには長けているが 同時に差別排除においても高い能力を発揮するのである

本能習性としての動物的な社会形成習性こそが 差別排除の原因であり 断じて「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」わけではなく むしろ逆で「ヒトには非人間性が先天的に組み込まれている」のである

慶応大学を卒業しても イジメや差別をしていたのでは人間としては幼稚である

どんなに金儲けの能力が高くても 公平性や安全性に基づいた人間としての社会的行動選択ができないのであれば ただの「高学歴なバカ」でしかない

大衆観念上では 慶応や早稲田を卒業していれば人間として優秀だと思い込まれているが 原発を暴走させたのも粉飾決算をしたのも大企業に雇われた高学歴なバカの仕業である

上司やコンプライアンス担当者からは見えないように隠れてコソ~リとイジメを繰り返す能力がいくら高くても それは人間としての知能とは到底言えないのである

「塾員」を雇えば会社の業績は向上するかも知れないが 何せ平気で嘘をつくだけにどんな失態をやらかすかわかったものではない

東大生というだけで差別するなら 障害者を差別するのは簡単であろう

イジメを平気で むしろ率先してやらかすくらいであるから 金儲け能力に発揮されるような「コミュニケーション能力」というものは 障害者差別でも平気でやらかす本能習性に過ぎず 何ら人間性には適さない

それは理性に基づいた本質的な「人間としての意識」がないからである あればイジメなんぞやらない

「イジメをしてはいけません」などという幼稚園レベルの規範すらも自律的に守れない「意識の低さ」というものは 自律的な社会的責任判断選択に全く配慮が働いていないからである

理化学研究所における論文不正においても 野依良治理事は「不正をしてはいけません」などという幼稚園レベルの「教育」対策しかしていないのである

これは「納税者をおちょくっている」としか言いようがない

その一方で山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が存在するはずだ」などという根拠のないデマで大衆人気を集めているのである

どうしてこうしたバカが学術権威扱いになっているのかは知らないが 学部ごとの縦割り審査構造に大きな要因があると言える

物事を論理客観的に検証することに長けた工学や物理学 天文学系研究者であれば 生物学者や哲学者達の支離滅裂な非科学的な話を鵜呑みにはできないはずである

 

哲学というものは 本来科学の暴走への歯止めとしての役割を持っているからこそ「科学の帝王」と位置づけられているのであって プラトンだのニーチェだのカントだのといった似非哲学をまことしやかに学生に教え込んでいるというのは 社会的な詐欺ペテン行為であり これを放置している物理学系研究者達にも責任の一端は存在するのである

マスコミのバカが大半を占めているため 生物学界内部の多数決が科学的に正しい内容だと思い込み 誰一人として論理検証することもなく松沢哲郎の嘘を検証することができない

松沢哲郎の話で気分的に安心満足してしまえば むしろヒトという種の生物の先天的危険性や欠陥についての認識が甘くなることは避けられない

更には「ウイルスは必ず弱毒化する」などというデマまで助長することになっているのである

もう バカ過ぎて説明する気も失せる

何だお前ら 絶滅したいのか?

社会を破滅に陥れたいのか?

何なんだ

小峠英二みたいな芸風になりそうだわ

 

 


Ende;

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ガラス玉・オンライン

2021年10月02日 16時15分51秒 | 日記

お育ちが良い人に見られたいのか?


大丈夫か? 何かの病気じゃねぇのか?

ダイアモンドオンラインはマナー産業が大好物だな

そんなに儲かるのかね

すぐ忘れるのは本当は興味がないからだよ

知識の「量」を増やせば頭が良くなると勘違いしているだけで 本当は興味がないから記憶に残らない

典型的なバカの発想だよ

もはや危ない宗教みたいだな

そんなもんで評価が変わる会社の方が問題だよ

 

いやお前らが頭の良し悪しを語れる立場じゃねぇだろ

 

 

 

Ende;

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楽しいとか 救われるとか

2021年10月02日 16時15分51秒 | 意識論関連

「ヒトは先天的に楽しさよりも苦痛が優先する」という話があったけど

ゲームって面白いのよ

何でかっていうと ゲーム設計者が「ゲームバランス」ってのを最適化して設計しているからなのね

ゲームバランスって何かっていうと 難しさと達成感とのバランスのことなのよ

極端に難易度が高くてほとんど全く成功できない「無理ゲー」は面白くないんだけど

逆に簡単すぎてすぐに成功できちゃうと これまたつまんないのよ

共に「クソゲー」に分類される

適度に難しくて 適度に成功できると達成感が得られて楽しくなる

だから多くのヒトは何の役にも立たないゲームに課金して散財しちゃうことにもなる

 

ゲームの場合 難易度はゲーム設計者が予め設計したものであって 提供された達成感でしかないために 課金してでも達成感や「仮想の射幸心」を満たそうとしてしまうんだけど

これがゲーム以外の たとえば「千住真理子がバイオリンを上手く弾きたい」とか 「加藤英明がトカゲを見つけ出したい」といった主体的な楽しみである場合 達成感を自給自足することができる

すると 難易度が高くても その難易度の高さすらも楽しいと感じられるようになる

難しいことに挑戦し続けているとスキルが上がって更に難しいことにも挑戦したくなる

そうなるとレベチな領域にまで達しても まだ満足感が足りなくて 究極まで突き詰めるようになる

自発的純粋行為には「ビクトリーロイヤル」みたいなゴールがない

 

ゲームの場合 点数とか順位が決定してしまうので 他人と比較してしまうことになって 他人との競争に勝ちたいがために課金に手を出してしまうことになる

その意味においては スポーツ競技の順位というのも他人との比較になってしまうため 純粋にスポーツを楽しむ気持ちを忘れがちになってしまうこともある

伊藤みどりが成績へのプレッシャーで体調崩して演技がボロボロなったのも 成績という順位への強迫観念が純粋な楽しみを奪ってしまったためである

だから荒川静香は得点にならないイナ:バウアーをやっても金メダルを獲得することもできた

スポーツは基本的に「自分が楽しむ」ことが最優先であって 順位序列は「結果」に過ぎない

負けても勝っても 競技を楽しめたということ自体に競技の価値があるのであって 「勝ち」よりも「価値」の方が重要なのである

競技であれば 勝つこともあれば 負けることもある

負けて「悔しい」という気持ちになるからこそ 「次はもっと上手くなろう」という向上心も生まれるわけで

負けることも楽しみの一環とみなすのが スポーツ競技の純粋な楽しみ方だと言える

大谷翔平って エンジェルスで試合していて楽しそうなのよね

盗塁に失敗しても楽しそうなのよ

「うわー やっちまったー」って思いながらも 楽しそうなのよ

スポーツ競技って 勝ったからってパレスチナ紛争やミャンマー難民問題が解決するわけでもないので 高度な競争をすることで楽しみを与えるエンターテイメントだということを忘れてはいけないと思う

世の中解決しなきゃいけない問題っていっぱいあって 温室効果ガスも削減しないといけないし 貧富格差問題も解決しなきゃいけないし 自分の生活も守らないといけないし もう問題だらけで頭がいっぱいになっちゃうんだけど

スポーツ選手の凄技を見ることで 観る人にひとときの楽しみを提供することができる

それは 宮崎駿の映画とかと同じ「気晴らし」にしかならないけど

気晴らしがあるからこそ 問題にも取り組むことができる意欲にもなる

マスコミはすぐに順位成績ばっかり評価したがるけど そんなもんは自己肯定感の低い糞DQNの寝言とかネトウヨの誹謗中傷みたいなもんなので 所詮何の役にも立たないのでどうでもよろしい

元々スポーツも映画も「気晴らし」であって 何の役にも立たない「お楽しみ」に過ぎないのに その順位序列をとやかく言っても 社会的には糞の役にも立ちゃしないので マスコミなんぞ勝手に言わせておけばよろしい

それこそ「小室さんの髪型ガー」なんて話は妬み嫉み(ねたみそねみ)が動機の誹謗中傷でしかない

マスコミが率先して個人を誹謗中傷しておいて 一方ではやれ「ダイバーシティ」だの「公平中立」だのと主張しているのは 言っている内容に論理整合性がなく支離滅裂というものである

世の中には自己肯定感の低い下世話な大衆は多いため 下世話なゴシップネタの方が金にはなるのだろうが 金のために社会安全性や持続可能性を優先しないというのは マスコミの社会的役割を放棄しているのと同義である

「利益になること=社会的要請」ではないのである

ナチス政権下における社会的要請は正しいとは言えない

東京電力社内における会社内での求められる行動選択も正しいとは言えない

だから「自律」が重要だと言っているのである

自分が世間の中で「生存」にとって有利な行動を採ることが人間性に適うわけではない

多数の衆愚に迎合していれば 民主主義はバカ主義にしかならないのである

衆愚が多数を占めていれば 地動説は火炙りにされ ナチスに反対すればスイス山中で自決を余儀なくされる

自己の生存価よりも 「本当に大切なもの」「本当の目的」とは何かを「選択」してこその人間性というものである

「正直者がバカを見る」のは バカが大勢を占めているのが原因であって バカでない集団組織の中なら正直者もバカを見ずに済むのである

 

自分が純粋に楽しいと思えることを 心から楽しむためには 社会が安全で公平で持続可能であることが前提である

楽しくも幸福でもなく 救いすらもない世界で ただ「生きているだけ」では「生き地獄」にしかならない

生き続ける理由とは 誰も不幸にならない社会で 他人の評価に左右されない純粋な楽しみに没頭できることである

「人生は短い 他人の顔色を窺っているヒマはない」とは スティーブ・ジョブズの言葉である

アップルの社長になっても死ぬ時は死ぬ 大ヒット漫画の原作者の三浦建太郎も亡くなった

誰も永遠に生きられるわけでもないのに 生存自体に執着しても意味はないのである

 

私は自殺を否定はしない 尊厳として自らの生殺は自分で決めて良いはずだからである

だが 誰かが理不尽な理由で自ら自死を選ぶような社会は望んでいない

生きているのが苦しいというのであれば 他の誰かが同じ様に苦しまない社会にするにはどうしたら良いのかを考え 対策を立てるべきである

黙って死んでも何の役にも立たない 何がどう理不尽なのかを論理客観的に原因究明し 同じような苦しみに陥る人を減らすことで 個人の苦しみも社会的に意味のあるものに昇華することも可能である

宗教も結局はエンターテイメントに過ぎず どんなに神を信じても戦争はなくならない 平和とは 人間が求めているものであって神から与えられるものではない

宗教で気晴らしになったからといっても それは個人の主観的な感想に過ぎず 他人に押し付けるべきものではない

絵画などの芸術に個人的好き嫌いがあるのと同様に 宗教も所詮は個人の好き嫌いの範疇(主観)でしかないのである

 

 

Ende;

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些細なこと

2021年10月02日 10時53分58秒 | 日記

宮沢賢治の有名な詩(メモ)で「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」っていうのがあるけど

「慾ハナク」と言いながらも

「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」というのも慾ではある

賢治は「物欲がない」ことを意味しているんだろうけど

様々な欲望の中から本当に欲しいものが何なのかを選んでゆくと

究極的には「誰も不幸にならない社会」というものが 人間としては最も大切という結論になる

どんなに純粋行為で楽しみを持っていても 近所の子供が酔っぱらい運転で轢き殺されていたら 何も楽しめなくなる

自分と同じ社会を構成する他人が不幸なら 結局自分も本心から幸福になんぞなれないと

賢治は言っているのである

自分が誰かから「デクノボウ」と呼ばれても 社会が安全で持続可能であれば安心して生き そして死ねる

だから他人から嫌われようと貧乏だろうと そんなことは「些細なこと」なのである

 

 出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

文章の最後には仏教経典の題目が列挙してあるのね

初めて知ったわ

 

 

Ende;

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他人を殺してまで生き続ける理由

2021年10月01日 12時00分26秒 | 意識論関連

生存とは結果である

「生きたい」という欲望であっても所詮は「この世に産まれてからずっと生きている」ことによる常習性がシーケンシャルに作り出した中毒に過ぎず 生存そのものに合理的目的も根拠もなく 「死にたくない」という強迫観念以上の意味はない

それでも生き続けるからには その合理的な意味や意義 価値といったものが必要である

それは 「生き続けるに価する社会」があってこその自己の「生存」なのである

ヒトがヒトを殺してはいけない理由はないが

ヒトがヒトを殺してまで生き続ける必要性もないのである

ヒトがヒトを殺すような社会で生き続ける意味はない

それなら ヒトがヒトを殺さない すなはち ヒト個人が社会的責任を負う社会こそが 個人の「生存」よりも優先されることになる

 

自己の生存を優先すれば 社会的責任は二の次になってしまうことになる

「生きるためには」だの「生き残るためには」などといった話の全ては 利己的目的であって 他人を陥れたり蹴落としてでも生き残ることを優先することを意味する

それは社会的責任判断選択を放棄することも正当化されることになる

そこに「人間性」としての社会性 倫理といったものは優先されることはない

生存だけを優先するというのは サルの正義 ケダモノの正義に過ぎない

 

遺伝的進化というものは 先天的に「生存にとって有利な形質や習性を持った個体」への収斂進化しか促されることはない

これを人間社会に適用しようとするから個人が社会的責任判断選択を優先しなくなるのである

人間としての社会性とは 「誰も取り残さない」人道性に基づいたものであり 決して「生存にとって有利な形質や習性を持った個体」だけが優先的に生き残ることではない

遺伝的進化のアルゴリズムを文明社会に適用すれば どうやっても優生学が正当化されることになるのである

他者を見殺しにしてまで自己が生き残ることを優先しておいて人間性も倫理もあったものではない

ヒトは 眼の前で大量に他者が死んでしまう状況に遭遇すると 根拠のない罪悪感に苛まされる性質があり これは合理的には何の瑕疵もない感覚的な錯覚に過ぎないのだが 人間は他者が無為に死ぬことを傍観放置してまで生き残ることには存在の価値を見出すことができない存在である

ここで留意していただきたいのは 単なる生物種としての「ヒト」と社会的責任意識を持った「人間」の違いである

 

ヒトは元々野生動物であるため どうしても自分の生存を優先しがちな習性がある

自分の生存を優先しなかった個体は自然環境下では生き残れなかったからである

だが それは「結果」であって「目的」ではない

ナチス政権下においては ユダヤ人迫害に反対することよりも 積極的にユダヤ人殺害計画書を作成した方が「生存」にとっては有利だった

東京電力社内においては 原発の津波に対する脆弱性は無視しておいた方が失職のリスクを避けることに有利であり 「生存」にとっても有利であった

個人が自律的な社会的責任判断選択を放棄する屁理屈というのは 自己の生存にとって有利な行動を採るためのものが大半である

イスラム過激派による自爆攻撃も 結局は自分が死後の世界で神の祝福を受け 妄想世界で生き延びられるという錯覚が動機であり

太平洋戦争における特攻自爆攻撃も 英霊としてまつり上げられるという栄光(世間的評価)が目的である

世間的評価というものは ヒト集団社会において「生存にとって有利」なものであり その世間的評価だけを暴走的に求めた結果が「実証不能の観念の振り回し」を促すのである

「死んでも良いから健康でいたい」的な観念(欲望)の暴走である

欲望という先天的本能習性には合理性がない

先天的本能習性というものは あくまで祖先の生息環境における淘汰圧力による収斂進化の結果であって 非合理で無意味な行動バイアスがあっても何の不思議もないのである

「遺伝的進化のアルゴリズムを応用すれば創造性が発揮される」などというバカもいるが 遺伝的進化のアルゴリズムというものは全て結果であって目的がなく 何の「成功」の保証もないのである

進化に「失敗」して絶滅した生物種の方が圧倒的に多いのが遺伝的進化であり 生き残った現存生物種というのは「百階から目薬」くらいの偶発的「成功」の結果でしかないのである

よく考えてみろ バクテリアがヒトにまで進化するのに どれだけの犠牲(失敗)があったと思ってんだ そんなアルゴリズムを人間社会に適応してヒトが生き残れる保証なんぞほぼゼロに近いのである

たとえその淘汰収斂進化の果てに生き残った生物に 人間性が伴う保証も全くないのである

なにせ自分の生存以外は何も優先しなかった個体種の末裔であるから 平気で他者をも食い殺すケダモノであろう

それはゴキブリと何も違わないだろう

 

遺伝的進化というものは 自然界における強力な淘汰圧力が働かなければ生じないものであり 大量死滅を許容する必要性がある

そこに人間性や倫理が伴うわけがない

マナー産業的にデマをでっち上げることに「創造性」を発揮して世間的に成功して利益を上げることはできるかも知れないが それは社会持続可能性や安全性にとって百害あって一利ない

ヒトはいままで本能欲望のままに環境資源を喰い続けた結果 自分で自分の首を締めるような状況に陥っているのであって 先天的本能欲望を制御する理性なくして自滅を回避することはできないのである

何にも論理的に検証出来ないバカであれば「遺伝的進化は素晴らしい だから 遺伝的進化さえしておけば全ては解決する」とでも思っておけば主観的には安心満足であろう

それは「バカの満足」である

世の中「創造性は自然現象」だとか「生きているだけでも 立派なものなのだ」といったデマや嘘やはぐらかしに気付かないバカが大半である

なにせ「養老孟司を読めば頭が良くなる」と思っていたバカが大半である

マイケル:サンデルの講義で頭が良くなったと思っているバカも非常に多い

主観的に気分が良くなる話をしておけば 衆愚の人気を集めて金儲けにはなるだろう

だが それこそが真理を撹乱するデマ産業の手口である

 

自死は自由である 誰も自分の意思で産まれてきたわけではないからだ

だが 本当は死ななくても済むはずの他者が死ななければならない社会に自分が生き続ける意味はない

「本当の目的」とは何か それを見極めるためには論理客観的根拠が必要である

目先の世間体を気にして自分の子供を無理やり学校に送り込んで自殺させては意味がない

「教育の義務」とは 「子供が知りたいと願う知識を大人が提供する義務」であって 大人が勝手に決め付けた内容だけを子供に無理やり押し付けることではない

それこそがむしろ「教育の義務」の放棄である 大人の都合で教師の「業績」のために子供を利用しているだけであって 何ら子供の為になっていないから子供が自殺するのである

読書猿は「学校の勉強は認知的ワクチン」だとでも言っておけば 衆愚の大半は鵜呑みにするが

学力偏差値が高くても地下鉄に毒ガス撒いて「人類の救済だ」と信じ込むバカはいるのであり 何ら「認知的ワクチン」としての機能は持っていないのである

嘘やデマを見抜くために必要なのは 自分の頭で論理客観的に考えることであって 他人から教え込まれた内容を漫然と鵜呑みにしている時点で嘘もデマも見抜けていないのである

「勉強は強いて勉めて読み書きソロバン丸暗記だ」と私の世代では強制されてきたが これを次世代に「連鎖」しているだけなら何の「意識」も働いていないのである

子供の自主性 主体的意欲というものを優先し 子供自身が自発的に物事を検証し 考える能力を育まなければこれから激変する社会には適応できなくなる

教えたことを教えた通りにこなすだけのバカを大量生産する教育からは脱却しなければ 子供達の未来はない

 

「誰も取り残さない」ためには たとえ犯罪者であっても救済する必要があり 「罰で解決」などという非合理な懲罰感情を制度化しただけの司法制度も抜本的に見直す必要性がある

なぜ「へずまりゅう」だの田代まさしのような「人間のクズ」が出てきてしまうのか その原因を徹底的に検証究明し 再発防止策を確立する必要性がある

本来誰も「人間のクズ」になりたくて産まれてきた者などいないはずだからである

ハインリッヒの法則に則って考えれば 「著しいバカ」の陰には無数の「小さなバカ」が隠れているのである

バカの程度を横軸にした正規分布的に「中程度のバカ」が温床となって「著しいバカ」が産まれてくると考えるべきであり それこそ身勝手な「私刑」で満足するような「結構なバカ」も少なくはないのである

政府が率先して罰で解決とみなしている限り 衆愚も私刑が正当化されると「思って」しまうものである

「へずまりゅう」の実家にペンキで落書きをしても 「へずまりゅう」的な「著しいバカ」がどうして出てきてしまうのかについての原因究明にも再発防止にもならないばかりか むしろ私刑という「へずまりゅう」と大して違わないバカげた行動にしかなっていないのである

それは司法刑罰でも同じことである

バカがバカを殴ってもバカがいなくなるわけではない

バカではない者がバカの構造を解明し バカにならない方法論を確立しないことにはバカはいなくならない

極めて当たり前の話である

 

 


Ende;

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