自殺を罪だと規定してしまえば 生きていることがツラいと主張すること自体までもが「悪いこと」になってしまう
「絶望をするからこそ人間でもある」(セーレン:キェルケゴール)
サルは絶望しない
権威や多数や 根拠のない世間の常識や因習に唯々諾々と従っているだけのバカなら絶望などしないのである
こういうバカの群れが 「人間」を殺しにかかっているのである
ヒトにはそれぞれ得手不得手というものがある
決してそれは同じではない
言語コミュニケーションが苦手な者もいれば 体力の低い者もいる
胃腸が弱いのに身体を鍛えることが向いていないの当たり前であり トップアスリートというのは大半が消化器系が頑丈な人達である
それぞれが異なるのに 同じ能力を要求することの方が間違っているのであって むしろそれぞれの個性を活かすことによって より広い領域での活躍が見込め 社会効率は向上するのである
大衆は既存の権威や世間的成功者の話にしか耳を貸そうとはしない
それは 自分も世間的地位や成功にあやかりたいという利己的計算に基づいた選択である
自己の生存にとっては その方が有利だが 真実を見極め社会安全性や平等公平性を高めることには全くならない
自分が地位や成功を手にしても 社会が崩壊したのでは何にもならないことには配慮が欠けている
たとえ地位や成功を手にしても それが本当に自分にとって幸福なのかと言えば 実際には「他人への憧れ」に基づいた妄想に過ぎず どんなに資産が増えても幸福にはなれないし 地位身分も既得権にしがみついて不正をしだすことからも 全く幸福にはつながっていないのである
本当の幸福とは 自分が主体的に「楽しい」と思えることに熱中することであって それは世間的評価や収入とは無関係である
絶望は罪ではあるが 絶望を感じるからこその「人間」でもある
「苦しい」と感じることを主張してはいけないような風潮は 他人の絶望から眼を背ける卑劣なものである
故 益川敏英氏は「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べていた
「苦手を克服」だとか言っているバカというのは 生徒子供の能力を既存の評価基準を平均的に高めることが自分の業績になるから言っているだけであって 利己的利益を優先した極めて卑劣な主張である
バカの主張に耳を貸してはいけない
バカ程声だけは大きいので むしろ主張を強く押し付けてくる奴ほど疑ってかかった方が良い
主体的に楽しめる純粋行為があれば 世間で嫌なことがあっても耐えられるようにもなる
加藤英明のように 爬虫類の研究に熱中できる者なら それだけで幸福になれる
体力的にキツくても むしろ好きなことで体力を使うのであれば ツラいとは感じないものなのである
私は自転車に乗るのが好きなので 一日中自転車を漕いでいても楽しいと感じる
体力的にはキツイのだが 精神的にはツラくはない
慶応の「塾員」のように 多数で協調的に統率行動が採れれば 金儲けや世間的成功にとっては有利かも知れないが そんな基準は人間性の基準にもならなければ 本当の幸福にもならない
本当に主体的に楽しいと思えるものがあれば 他人への配慮 社会安全性や公平性についても配慮ができるようになる
最も優先されるべきは 個人が主体的に人生を楽しめることを持つこと 知ること 見つけ出すことであって 宮沢賢治の場合には農業であったため 農業振興に寄与することも出来た
だが 宮沢賢治の活動は決して順風満帆ではなく 様々な抵抗に遭ってもいるのであり それでも挫折しなかったのは 決して宮沢賢治が「強かった」からではなく 自分が主体的に好きなことだったからこそ 挫折することなく突き進むことが出来たのである
「強い」人間などいない
「楽しい」か「楽しくないか」で挫折するかどうかは人それぞれ違うものなのである
他人が楽しいと思っていることでレベチになっているからといって 自分が真似出来ないことに劣等感を持つ必要はない
自分がレベチになれるようなものを見つけることが 結果的に外見的な「強さ」になるのであって 「強く」なることを先に強要されても意味がわからないのは当たり前の話である
何を「楽しい」と思えるのかは 人それぞれであって 他人との比較には意味がない
従って 他人と比較して自分の特定能力が劣っていることを嘆くのは無駄である
他人の脳と 自分の脳は違うものであって 脳神経接続がない以上比較は無意味だからである
世間的評価がなかろうが 貧乏だろうが まず自分が楽しいと思えることを持つことによって 生きる気力も続くのであって たとえどんなに世間的に成功しても 楽しくないと思ってしまえば自殺することもある
TBSの川田亜子アナウンサーのように視聴者から人気があって生活にも何ら困らなくても自分のベンツで煉炭自殺してしまうこともある
アコちゃんは他人と比べて自分が幸福ではないと「感じて」しまったらしいのである
幸福かどうかは外見ではわからない
世間的成功者に憧れても それが本当に幸福なのかは人それぞれである
TBSの人気女子アナになれても 決して本質的に「充実」できるわけではないのである
インスタグラムで上っ面な「リア充」を装っても そんなものは本質的な「リアル」ではない
むしろインスタグラムで外見を装うことに疲れて自殺を増やしている要因になっているという説もある
自分の幸福は自分で見つけなければ 本当の幸福にはなれない
自分が何に幸福を感じるのかを知らなければ 他人の幸福にも配慮はできなくなる
社会持続可能性や安全性や公平性への配慮というものも 前提に自分が生きることへの意欲があってこそのものである
Ende;