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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

疑念。

2012年08月06日 15時19分28秒 | 意識論関連

○疑念。

 主観を意識と分類するのは間違いである。個人的主観は無意識であり、何ら論理検証性を必要としない固定観念的区別分類でしかないからだ。

 振り込め詐欺師からの電話を信じ込む被害者は、個人的主観として相手を詐欺ではないと論理検証出来ずに固定観念的区別分類の絶対化が生じているために騙されるのである。

 客観的論理検証こそが意識の本質である。

 「A」という文字記号を「A」であると認識することは論理検証を必要としないものであり。文字認識というのは無意識な認知能力である。ゲシュタルト心理学というのは論理検証を必要としない人工的規則「決まりごと」に対する認知能力を論じているだけであって、本質的な意識とは無関係である。

 ゲシュタルト心理学が取り扱うのは、動物的な認識識別能力だけであって。動物的な認識識別能力自体は通り魔でもシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であり、本質的な人間としての知能を伴う認識能力とは無関係なのである。

 ゲシュタルト崩壊が起こるとヒトは違和感を感じ、観念的疑いを抱く。疑う必要性のない文字の形に疑念を抱いてしまうのである。こうした意味のない感覚的疑念もまた錯覚の一種である。

 現在の認知科学においては、デジタルカメラの顔認識程度の機能を「高次認知機能」としており、サルでも可能な認知機能をして「高次」だと論じているのである。顔認識であればシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であって、何ら「ヒトが人間」たりうる論証とは全く無関係である。先天的に視覚障害があって顔認識が出来なければ人間として不完全であるわけもなく、どうでも良い話なのである。

 適応的進化というのは結果である。結果以上の何物でもないものを抽出枚挙したところで目的意識的行動選択とは関係がないのである。

 相手が嘘をついているか、それとも本当のことを言っているのかを判断するのは、本来論理検証性であるが。ヒトの多くは雰囲気的に本当「らしい。」かどうかを判別しているだけであって、権威性「らしさ」を演出することによって簡単に騙すことが可能になるのである。

 ヒトという種の生物には、「権威とは、こういうものである。」といった固定観念、権威「らしさ。」の外見を装うことで、多くのヒト達は権威らしいと「思う。」ことで、相手が服従するに値するかどうかの論理検証をパスして盲目的に服従してしまう習性がある。「権威に服従することは人間としての義務である。」という論理的根拠のない観念、「神話」類に取り憑かれ、「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手な決め付け、ヒトの多くは本能的に安心満足なことと、論理的安全性を区別することが出来ず、大抵の場合本能的安心満足による観念を優先してしまうのである。

 「ヒトとは、そういうものである。」が、これは傾向性や習性を論じているだけであって。別に傾向習性に流される以外の選択が絶対に不可能であることの論証ではない。難しいことを観念的に拒絶することと、論理的不可能性証明を混同すべきではない。

 個人的、主観的に「権威に服従してさえおけば気分的に安心で精神的に満足。」できることを、あたかも論理的安全性の証明であるかの如く錯覚するのである。こうした錯覚こそが心理学上における「甘え」の構造(:土居健朗)を作り出しているのである。

 権威への盲目的服従による安心満足というものは、動物本能的な社会形成習性による統率的封建社会形成を促す「結果」的な条件反射であり。動物的行動バイアスである。

 このような動物的行動バイアスの結果として、ヒトの多くは条件反射的に権威者の命令に服従「してしまう。」のであり、「してしまう。」ということこそが意識的行動ではない証明であり、当人の意識的な行動選択を介していないがゆえに「してしまう。」のである。



 自然界における生物進化というものは、全て「結果」であって、「結果」の全てが常に正しい結果をもたらす論証はなく。むしろ無意識による「結果」しか導き出すことはない。過去の「結果」を教訓にし、どのような選択をするのかの判断が伴ってこそ意識的「目的」となるのであって、結果の全てに後から意味をこじつけていれば意識的目的を見失うのは当然である。

 現在の進化生物学的には「結果」こそが全てである。淘汰の結果として生き残ったものを「生物」と分類しているからであり、その結果的分類という本来手段であるはずのものが目的へとすりかえられているからである。

 ヒトの多くは本能によって促される感情こそが意識であると錯覚しがちであるが、感情という大脳辺縁系の反射自体は自己の意識的選択によって促されるものではなく、これは意識ではない。ヒトの意識の9割以上は感情に基づく条件反射という無意識であることを忘れるべきではない。

 現在の生物学が生き残っているヒトの本能習性の全てに意味があると言い張るのは、生存という「結果」があたかも絶対的「目的」であると勝手に決め付けた上での論証しかしていないからである。生存という結果だけを絶対視し、生存しているヒトの遺伝的本能の全てに何らかの意味があると決め付けるのは、生物学上の「神話」に過ぎない。

 現在の生物学が優生学の間違いを指摘出来ないのは、「神話」に基づく「結果の全てに意味がある。」とするこじつけこそが科学的論証であると錯覚しているからである。

 感覚的違和感に基づいた疑念には論理的根拠はない。「自分だけが、なぜ自分なのか。」という感覚的違和感同様、それは疑う必要性のない感覚的違和感でしかないのである。


Ende;

バイアス。

2012年08月03日 20時18分57秒 | 意識論関連

○バイアス。

 分類というものは常に仮定でなければなりません。

 分類というものは、現状における知見の上においての分類可能なものに人工的に名前を付与したものに過ぎず。

 従って、知見の拡大によって分類方法自体に誤りが見つかった場合には、分類は変更され得るものであるからです。

 分類というのは決して絶対ではあってはならないものなのです。



 分類の絶対化というものは、優生学における「人種の観念」や、役所における計画変更への観念的拒絶反応の素となるマインドセット、思い込みを意味します。

 思い込みに囚われてしまう原因とは、問題に対しての本質的な自発的探究心、関心、意欲といった純粋さが欠落しており。多数他人や人工的権威からの評価報酬という不純な動機目的が根底にあるため。動機目的が問題解決自体ではなく、問題解決によってもたらされるであろう評価報酬(エサ)が目的であるため、問題解決自体への追究性に欠ける結果をもたらすのです。

 福知山線脱線事故調査委員会のように、「面倒臭いから、途中で調査をやめる。」などという思考放棄を平気でやらかすようになり。問題はうやむやにされてしまうのです。

 動機が問題自体になく、評価報酬である場合、贈賄の誘惑にも簡単に負けてしまい、自律というものが全く働かなくなるのです。そもそも他者からの評価報酬という行動バイアスが動機である以上、気分的に安心でさえあれば社会安全性や持続可能性への意識が働かなくなるのも必然的結果であり。当人は目先の金銭で満足することが出来るでしょうが、あらゆる問題は途中放棄され、社会的には負担しかもたらさない結果を生むことになるのです。



 カルト宗教の信者における、盲目的信頼を純粋だと思い込むのも間違いです。集団内部における権威からの評価という抽象化された「エサ」に対する条件反射的で無意識な行動は、極めて動物的で不純な動機です。

 イヌに芸を仕込むことで服従させることで、イヌは飼い主への忠誠忠実さを常に発揮させることも可能ではあります。しかし、これはあくまで飼い主への忠誠忠実な盲目性の結果の断片的抽出に過ぎず、イヌ自体の意識的選択ではありません。飼い主のしつけ方によっては残虐性を発揮することも少なくありません。

 盲目であるということや、忠誠忠実であること、無思考であることは、何らイノセント「純粋」であるとは言えないのです。

 他人から与えられる金銭で満足することも、これもまた「エサ」に対する条件反射的な無意識行動であり、根本的には全く同じ無意識がもたらす不純な行動なのです。

 学力という抽象化された「エサ」に対する条件反射的な行動動機というものは、個人から主体的な探究心、関心、意欲を剥奪し。世間的成功という不純な動機しかもたらしません。アメリカでの映画館銃乱射事件や、秋葉原での通り魔事件を起こしたヒト達というのは、学力だけは高くても、物事を探究しようとする本質的な自発性という純粋さが欠落していたため。結果的に他人からの評価が得られなくなった途端に自暴自棄に陥り、暴走破綻へと陥った典型例だと言えるでしょう。

 それはまるで、瞬間記憶テストにおいて、エサを貰えなくなったチンパンジーの行動と極めて類似しています。

 多数他人やそれによって人工的に作り出された権威からの評価というものは、動物本能的な社会形成習性によってもたらされる盲目性を生み出します。目先の本能的快楽安心に意識を奪われ、意識狭窄を生み出し、自発的問題解決能力を失わせ、多数他人という世間的な評価「エサ」に対する条件反射的行動「結果」にしか誘導されなくなってしまうのです。

 当人に「目的」意識がなければ、あらゆる問題解決が出来ないのは必然的結果です。

 あらゆる組織体制腐敗というものも、その根源は組織を構成する個人の問題意識の欠落から生ずるものであり。現状組織への服従迎合による目先の保身が行動バイアス的に決定してしまう無意識性によって結果的に作り出されてしまうものなのです。

 行動バイアスというのは気分的な好き嫌いに過ぎません。物事の判断を単なる目先の好き嫌いや安心恐怖だけで行っていれば、こそに論理検証性という理性が働かないのは必然的結果です。

 カントは理性を批判しましたが、実際には論理整合性がない観念に終わっており。むしろカントが批判しようと試みたのは、本能的欲望による利己的行動選択を根源とした理性的行動選択であって、決して純粋理性を論理的に否定出来ているわけではありません。カントの勘違いというのは、「盲目性=純粋さ。」という観念によってバイアスがかかったこじつけに終始しており、失敗に終わっているのです。

 文系大衆観念者が主張したがる、「心を一つに。」とか「他人を信用しないのは心が狭い態度です。」といった話は。気分的な安心感によって本能的満足を与え、相手の思考を停止させるための典型的意識誘導の手口です。

 「心が狭い。」などと規定されることによって、気分的バイアスを用いて思考を整理させ、誘導することが出来るのです。

 何をもってして「心が狭い。」と言えるのか、その論理検証を放棄させ、強迫観念的な意識誘導によって相手の言うことを盲目的に信頼させているのです。意識狭窄を促されておいて「心が広い。」などということにはならないのです。

 ヒトの多くは、相手から感情的に強弁されると、気分的バイアスによって迎合服従してしまう習性傾向があります。気分的に面倒臭い相手に服従迎合しておくことで、論理検証判断をパスして気分的に楽になれる選択をしがちです。

 こうした行動バイアス、習性傾向を利用して意識誘導を行うのが詐欺や占いの手口です。

 占い師や詐欺師というのは、基本的に権威性を演出し、上から目線で相手を服従迎合させるように「お客」の意識を誘導します。ヒトという種の生物というのは、本能的に権威からの命令には盲目的に服従する仕組みがあり。これによって統率的封建社会を結果的に形成するようになっているのです。

 本能というのは、自然環境においての結果的生存の結果として遺った習性に過ぎません。どんなに結果に至るまでの複雑な説明をこじつけても、構造原理的に本能習性という無意識行動からは「結果」以上の何も抽出することは出来ないのです。

 自然がもたらす結果の全てが現在の生物相において最適化される論理的根拠は全くありません。自然界というのは生物史において時折大絶滅などの大きな破綻をもたらし、決して絶対不変な安定性を持っているわけではないのです。

 無意識な本能的行動の結果だけに流される以外に選択可能性が存在しない論理的証明でもあれば「人類は絶滅する。」と断言しても構わないでしょうが。ヒトには論理検証判断という意識的選択可能性が存在する以上、このような勝手な断言は科学的論証とは言うことが出来ないのです。



 ヒトの子供を服従させ、集団内部の規範に従わせておけば、大人は気分的には安心で満足することが出来るでしょう。しかし、それは子供の外見上の従順さを植え付けているだけであって、子供自身に自律的な社会的責任判断能力を育んだことにはならないのです。

 自律的に社会的責任判断能力がない者というのは、無責任ということです。原発が暴走しようと、子供がイジメで心に傷を負って自殺しようと、自分の利益権利さえ確保されれば構わないということです。

 懲役刑というものが再犯防止にならないのも、「集団内部の規範にさえ服従させてさえおけば気分的に安心だ。」という文系大衆観念に基づいた対策しか行われていない結果です。出所後の対策を行うだけでは、本質的な個人の自律的な社会的責任判断能力をつけさせることにはならず、特に再犯率の高い幼児性愛者には原理的に効果が期待出来ないのです。

 司法は自分達の権益を保守することしか考えておらず、数字上での再犯率さえ低下させておけば良いと思っているため、目先の取り繕いのような対策しか選びたがらないのです。

 少年院の教師達も、精神論的な努力辛抱根性で「生徒を信頼」することで気分的に安心しているだけであって、何ら生徒の自律的な社会的責任判断能力の獲得には寄与しない、無駄な努力を繰り返しているだけなのです。教師に対する盲目的信頼を植え付け、限られた集団内部での忠誠忠実さだけを動物行動学習(無意識な刷り込み学習)させておいても、その環境における順応能力が鍛えられるだけであって、環境が変われば簡単に流される自律の欠落性を刷り込み学習させているに過ぎないのです。

 ヒトという種の生物に「規範意識」という無意識を動物行動学習させても、無責任な者を大量生産しているだけであって、何ら社会安全性や持続可能性が確保される訳ではありません。既得権として権威性を維持するためには無責任であっても安易に服従迎合してくれる者を大量生産していた方が簡単で楽でしょうが、それは本質的な社会的要請に応えているとはいうことが出来ないのです。

 生物学界も、ヒトという種の生物の危険性を無視し、何が何でも本能習性という無意識行動の「結果」の断片的枚挙だけで「ヒト=人間。」という短絡的結論に大衆マスコミを誘導しようとするばかりです。

 ヒトの多くは固定観念に囚われ、努力辛抱根性的精神論さえ振り回しておけば安心することが出来るでしょう。観念に基づいた「悩み」で精神的に苦しんでおけば、あたかも深く「考え」たような錯覚に陥ることも簡単でしょう。

 養老の著作を読んで「深く考えさせられた。」などと言っているヒト達というのは実際には何の考えも成立しておらず、ただ悩ましい問題を「感じた。」だけに過ぎません。もし本当に深く「考え」たのであれば養老の支離滅裂な話に疑問を持たなければおかしいからです。

 こうした無駄な努力にばかり意識を奪われているからこそ、合理性のある効果的対策の存在を見失うことに陥るのです。

 意識の問題というのは、限られた権威や技術者だけが必要なものではなく、全ての人に必要な素養です。本来例外は認められるようなものではないのです。

 倫理というものは規範だの制度法律さえ守っておけば成り立つ訳ではなく、規範、制度法律、手続きといった「決まりごと。」に依らず、自律的に社会的責任判断を下してはじめて本当の倫理と言うことが出来るのです。

 ヒトの多くは論理的根拠のない固定観念に囚われ、自分自身の行動判断を全く論理的に検証することなく判断放棄をして安心します。自律的判断というものには論理的検証に基づく根拠が必要であり、論理的検証に基づく根拠もなしに気分的安心を優先していれば、これはそもそも「自律的判断。」ですらないのです。

 規範意識を植え付け、自律的判断を放棄して漫然と目先の集団内部の規範に従ってさえおけば、多くのヒトは安心で満足することが出来るでしょう。何も恐くないかも知れません。赤信号をみんなが渡っていれば自分も信号無視をしても「恐く」ないのと同様、環境に依存した安心とか恐怖といった気分でしか行動判断がなされていなければ、それは自律判断でも何でもないのです。「規範意識、みんなで従えば安心だ。」と称して思考を停止させておけば満足でしょう。

 規範意識を植え付けられた者にとっては、集団の規範に則っていさえすれば社会的責任を果たしていると錯覚するでしょう。規範に従うことこそが自律的な社会的責任判断であると錯覚することも簡単でしょう。

 ヒトの多くが簡単に錯覚に惑わされ、何ら自律的に論理検証をしないから、規範意識という無意識を絶対視するようになってしまうのです。

 原発を暴走させた無責任な原発関係者達というのは、誰一人として法律には違反していません。法律や社会制度さえ守っておけば全てはうまくゆくわけではないのです。何ら自律的に論理検証をせずに済むのであれば、もはや人間の判断などこの世に必要ないのです。それは同時に何が起きても誰にも文句を言う権利すら存在しないことを意味します。

 規範意識というものは、人々から自律的責任判断を奪い。権威に従順で、権威にとって都合の良い臣民の大量生産を促します。それは本能的社会形成習性的には気分的安心や精神的満足をも与えるでしょう。しかし、それ故に誰も自発的に「考え」なくなってしまうのです。

 規範意識というものへの絶対的信頼性というものは、本能的なバイアスが働いており、それこそが個人の責任判断であるという錯覚を促します。

 規範意識というものへの絶対的信頼は合理的根拠のない「神話」に過ぎないのです。

 誰も自発的に「考え」ない社会が暴走破綻に至るのは必然的結果です。それは現在の生物学的にはとても「自然」な結末なのです。



Ende;

2V電源。

2012年08月01日 19時58分13秒 | 日記

○2V電源。

 ニッケル水素充電池2本に FairchildeSemiconducter 製 1N4728A っつう3.3V型ツェナーダイオード(千石電商で\20-)を直列につないだら最大で2.2V、平均的に1.97Vが得られた。

 ほぼ2V前後になるので、黄色とか赤色のLEDを点灯させるには丁度いいかも知れない。

 ニッケル水素充電池はフル充電状態だと2本直列で2.77V程度になってしまうので、砲弾型LEDならまだしもパワーLEDだと熱で壊れそうなので、何らかの対策が必要だと思っていた。

 まだ試した訳ではないんだけど、もしかして直結でもいけるのかもしれないし、そのうち試してみようと思う。

 元々は白色LED用の電源素子として購入したものだけど、偶然にも赤色や黄色LED用として流用出来そう。

 ちなみに日立製の HZ3C-1E っていう2.9V型ツェナーダイオードだと最大2.18V、平均1.15Vで急激に低下する。

 リチウムイオン充電池につないだ時はFairchildeSemiconducterが2.91Vで、日立は2.9Vと、0.01Vしか差がなかったので、元の電圧でかなり違う特性を示すらしい。



 そういえば、まだ3端子レギュレータっていうのも試してなかた。秋月電子通商は八潮にもお店があるらしいので、一回行ってみたいな。距離的にはほとんど同じくらいなんだけど、売り場の広さが二倍くらいあるらしい。

 リチウムイオン充電池っていうのは小型軽量でエネルギー密度が高いのが特徴だけど、温度の高いところに放置プレイすると寿命が縮まるらしいので、自転車のライトとかに用いるにはニッケル水素充電池の方が適しているかもしれない。

 ニッケル水素充電池って充電するとき凄い熱が出るけど、熱が出ないと充電されないものなんだそうです。なので冬場は保温しないといつまでも充電が終わらないとか。でも夏場は熱が出すぎなんじゃないだろうか。熱が下がるまでは使っちゃいけないらしいしので微妙だな…。

 あ、ちなみに「…」の区点コードは0136でした。


 区点コードで余談。
 
「。」は0103。
「゜」は0112。
「°」は0175。
「゜」っていうのはどうやら1バイト文字らしい。おいらのPCだと出し方がわからない。
「o」ってのもあるけど、コード表では見つけられなかた。


゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜

 文章の区切りとかにつこたらかわういかな。

゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜


「゜°。゜」←これをコピペしてつこて。(゜μ゜)

 コピペ方法はカーソルを文字の端に持ってきて、SHIFTキーを押しながらカーソルキーで選択し、SHIFTキーを押しながらC(そ)キーを押ししておいてから、エディタの貼付けたいところでSHIFTキーを押しながらV(ひ)キーを押しします。

 SHIFTキーを押しっぱにしといてV(ひ)キーを連打すれば

゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜

 っていう風に任意の長さにコピペ出来ます。

 説明下手かな。そもそもがPCのキーボードってややこしいのよね。



Ende;

卑屈の正当化。

2012年08月01日 19時56分54秒 | 意識論関連

○卑屈の正当化。

 無意識な者というのは、自分よりも強そうな相手、暴力的で恐そうな相手に対し、服従迎合して仲間になることで気分的安心を得ることも出来る。

 しかし、こうした行為が人間個人としての尊厳がなく卑屈な態度であることは理解してはいる。それでも暴力的な相手に服従迎合するのは、「自分は下らない人間だ。」などと勝手に規定し、固定観念化することによって、あたかも人間性の欠落した卑屈な行動選択が正当化出来るものであると錯覚しているからである。

 「自分だけが卑屈なわけではない。」として、安心して卑屈になることが正当化できたと錯覚し、安心するのである。

 過剰なまでに「安心」したい原因というのは、主体的に自分の個人的に好きな純粋行為に熱中するという心的余裕がないための不安であって。こうした不安「心の穴」というのは、自分で自分の感情本能を抑制することが出来ないという不安をもたらし、「自分は下らない人間だ、だから自分では治すことが出来ない。」という思い込み、マインドセット、自己暗示をかけることで、人間としての尊厳を意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがるための過剰な「安心」追究である。

 自分の感情を自律的には抑制できない者同士で、自分の感情本能を抑制出来ないことを共有しておけば気分的に安心することが可能なため、安心して固定観念上正当化出来たような錯覚に陥ることが出来るのである。

 「自分はこういう人間だから。」とか、「自分はバカだから。」といった勝手な決め付けというものは、「どうしたらバカに陥らないように出来るのか。」という自発的探究心を放棄するための言い逃れ/取り繕いである。

 自分というものを固定観念化しておくことによって、自分自身を自己検証することを放棄し、バカな行為を正当化できたような錯覚に陥って気分的に満足したいからである。

 こうして無意識な感情が促す思考停止のまどろみに浸り、ますます安心満足して尊厳を放棄し、目先の快楽に溺れるようになるのである。



 ヒトは皆、自由でありたいと願うものである。それは禁欲的な研究者であっても、欲望に溺れる怠惰な者であっても同じであるが。何をもってして「自由であるか。」の基準が異なることによって分かれるのである。

 自発的で多数他者からの評価報酬を必要としない純粋な動機に基づく研究者というのは、自分自身の欲望を自分で賄うことが出来るため、結果的に外見上禁欲的で、心理的余裕があるため他人への配慮にも意識が働くようになるのである。

 従って、その正反対の者というのは、多数他者からの評価報酬という不純な動機でしか自分の欲望を満たす術を知らぬため、どんなに世間的評価報酬を得たとしても、心理的余裕がなく、客観的に自己検証することも出来なくなるのである。

 たとえ卑屈な行為によって自己の尊厳を喪失するとしても、心理的余裕が全くなく「脳が餓えて。」いるため、目先の欲望本能が優先してしまい、本能習性の結果にしか陥ることが出来なくなるのである。

 狭い意識の中において、自由とは目先の本能欲望に流される以外に何も見ることはできない。しかし、一旦意識狭窄状態に陥いりそれに「慣れて」しまうと、統合的に広い視野を持つことを観念的に恐れ、拒絶し、ますます盲目であろうとするようになる。

 心理的に不自由である者にとって、自由とは目先の欲望以外に見ることが出来ない。そのため欲望に流された結果がどのようなものであるかの予測がつかず、破綻に至るまで暴走を続ける以外に何も選択することが出来ないのである。

 予測や想像といったものは、検証する自発的意思がなければ働くことはない。

 暴走や破綻に至る可能性があるとしても、自発的意欲のない自暴自棄な者にとってはどうでも良いことである。「どうせみんないつか死ぬのであれば、たとえバカげた価値観であっても優位に立ちたい。」と願うようになるため、歪んだ願望の結果は暴走破綻であっても構わなくなるのである。

 勝ち負けだの他人との比較による優位性だのといったものは、そもそも多数他人からの世間的観念に基づく評価を求めているのであって、これは個人の主体的目的ではなく、世間から刷り込まれた固定観念に過ぎない。



 「暴力はセクシー。」と論じたのは伊勢崎賢治だったと思う。暴力と性的欲求は本能的に深く結びついているが、本能というのは誰の意識的選択も介さない、単なる自然淘汰の「結果」に過ぎず。意味など最初からない。

 自然選択の「結果」以上の意味が原理的に存在しない本能に対し、現在の生物学は事後正当化のためのこじつけを行うばかりで、意識的に選択されるべき「目的」とは何かを区別することも、言及することもない。

 原始に近い生活を送る民族の結果的行動だけを取り上げておいて、あたかも「ヒトとは本来平和的で友好的なものである。」などと勝手に規定することで安心満足するばかりで。何らヒトという種の危険性について検証することはない。



 集団生活によって集団の規範を無意識的に植え付けるというのは、いうなれば「サル回し」に過ぎず、どんなに高度な迎合性という特定能力「芸」を獲得させても、所詮は評価という抽象化されたエサと引き換えでしか行われることはないのである。

 どんなに高度な「芸」を覚えさせても、サルはサルである。ところが文系大衆観念上では「芸」を動物行動学習的に身につけることを「賢くなった。」と形容する。こうした無責任な文系大衆観念こそが、あらゆる問題の論理検証を撹乱し、あらゆる「人災」の根源となっているのである。

 遺伝子自体は人間性の論証には全くならない。ヒト科ホモ・サピエンスでありさえすれば「人間」であるとは言えないのである。通り魔でもテロリストでも遺伝的にはヒトであり、むしろ生物身体的には「健康」ですらあるのだ。

 遺伝的にどのような本能的行動習性を示すのかを都合よく枚挙しても、ヒトの残虐性や無責任性という危険性の反証には全くならない。監獄実験と全く同じことが日本の学校では行われているのであり、これを無視してご都合主義的に遺伝的習性を正当化する事後こじつけばかりを繰り返す生物学は悪質で無責任なのである。

 どんなに偏差値が高くても、こうした基本的間違いに誰も気付かないというのは、それが単なる高学力なバカに過ぎず、学力成績という「芸」を覚えたに過ぎないからである。


 文系大衆観念上では、外見上従順に服従する者を「社会性や規範を身につけた。」と錯覚するが。これは単に服従させているだけであって、自律的な社会的責任判断能力が身についているわけではない。

 刑務官や教師の前でだけご機嫌を窺うように服従しても、本質的な自己の意思による自律的社会的責任判断が身につくわけではない。統計的にも特定の者に対して従順であることが自律的社会的責任判断能力とは無関係であることは明らかである。当然論理的根拠も全く存在しないばかりか、むしろ従順さこそが自律を喪失させるのである。

 暴走族を検挙すると、警官に対して急に従順になることを、警官は「素直な子供」だと錯覚する。実際にはその場限りの本能的な服従対象の転移の結果的服従習性に過ぎないのだが、目先の服従迎合性を短絡的に「素直」だとか「賢い」などという錯覚で判断する文系大衆観念に過ぎず。何ら個人の人間性とは無関係なのである。

 衆人環資下において、その場限りに多数や権威に服従しておくことは。逆に言えば仲間内で群れている場合には仲間内での統率者(首謀者)に服従迎合するということでもある。

 服従対象をその場限りに転移させておけば生存に価する可能性は高いかも知れないが。それを正当化するならシエラレオネの少年ゲリラも正当化される。それを「賢い」と形容するのは、形容している者が無思考でバカだからに過ぎない。

 生存は「結果」である。結果を事後的に正当化していれば、目的意識の意義が無視されるのは当然であろう。

 大人にとって従順で取り扱いやすいバカを大量生産しておけば、バカな大人にとっては便利で気分的に安心でもあろうが。誰にも目的意識のない社会の結果は常に暴走破綻にしか至らない。

 外見上の個人に対する従順さを、普遍的な人間性と錯覚するのは。服従させている教育者が自分を絶対的人格者であると勝手に倒錯しているからに他ならない。自分を絶対的人格者だと倒錯していれば、自分の過ちも認めることはなく、目の前で起こる現象についての論理検証も全くされることはない。

 こうした自己絶対倒錯は、倒錯している当人に自己検証を行う意識が存在しないための結果として生ずるものである。

 これはカルト宗教の教祖の倒錯と同じ構造原理である。

 人工的な権威、力を用いた強制的服従というものは、生徒個人から本質的自発性を奪い、結果的に自律的な社会的責任判断能力をも奪うことで、無責任で従順な臣民を大量生産することになるのである。

 無意識で目的意識のない無責任な者しかいない社会からは、暴走破綻という「結果」しか導き出されることはない。

 本当の人間らしい社会とは、個人が主体的に社会を切り開き、自発的に自己や社会の問題を解決出来る本質的な意識/論理検証性を持つ社会である。

 目先の気分的安心ばかりを追究していれば、巨視的な社会安全性や持続可能性を見失うのは当然である。

 教師大人が目先の気分的安心ばかりを追究しているから、生徒子供が目先の気分的安心ばかりを追究するようになってしまうのである。

 日本人はやたらと精神的に「悩む。」ことを努力であると錯覚したがるが。気分的にどんなに一生懸命「悩んで。」も、そこから合理的で効果的な「考え。」が出てくるわけではない。

 何の効果も存在しない気分的苦痛で「悩んで。」も、無駄な努力にしかならないのである。少年院の教師が生徒に何度裏切られても「信じる。」などというのは、根本的に「信頼」だの「裏切り」などという動物習性的な仲間意識本能を植え付けているだけであって、全く生徒個人の自律的な思考判断能力の育成になっておらず、その場限りの環境に依存した行動しか出来なくさせているだけなのである。

 「裏切り」というのは、現在の生物学上における生存価にとって有効な行動であり。生物生存においては「正しい。」行動選択なのであるが、これはそもそも「生存」という「結果」だけを絶対視する前提が間違っているからである。生存してさえいれば良いというのであれば嘘でも裏切りでも正当化されるのである。そこにあるのは生存価という「サルの正義」だけであって、人間としての尊厳もすったくれもあったものではない。

 ヒトという種の生物には、本能的な社会形成習性が存在し、感情的に利己を他人に押し付けるような統率者に多数のヒトは観念して服従する。暴力団などという訳のわからぬ集団が形成されるのは、それが本能習性の「結果」であるからに他ならない。生物学はこれに対する論理的反証を一切持たないにも関わらず、ご都合主義的に本能習性結果の枚挙から人間性を論証しようとしている。

 それは大衆の大脳辺縁系にとってウケが良く、思考停止に陥れることが出来るからである。

 「ヒトという種の生物には、本能習性的に平和的で安全な社会を形成する傾向がある。」ことを断片的証拠の枚挙から論証しても、それがヒトという種の生物の危険性の反証には全くならないのである。

 白いスワンをどんなにたくさん集めて来ても、「この世のスワンの全ては白い。」ことの科学的論証には全くならないのである。(:科学哲学者 カール:ライムンド:ポパー)

 既に「黒いスワン。」が大量に見つかっているにも関わらず、「白いスワン。」だけを抽出枚挙するというのは科学者としての客観性がなく、極めて思考バイアスのかかった偏った論証に囚われているからである。




 生存自体は生物的な結果に過ぎないという理論的証明は、大衆にとっては気分が悪く、あたかも自殺者を増やすことにしかならないと「思う。」であろうが。実際には社会を構成するヒトの多くが無意識で無責任な結果として自殺者が生ずるのであって、目先の対処療法に意識を奪われ、根本的治癒策を無視放棄することの方が自殺志願者から望みを奪うのである。

 世の中が多少は改善する余地が期待できるのであれば、自殺は防げる。しかし、目先の生存だけを目的とした対処方法では、自殺志願者の根本的な将来への希望には全くならない。

 将来への希望という尊厳なくして、人間として生きることは出来ないのである。

 生き続ける権利と死ぬ権利は等価であり、「頑張って。」生かされる必要など全くないのである。

 バカで無神経な生物的優位性ばかりを追究する、人間性の欠落した社会に個人の尊厳など存在しない。だからこそ自殺が減らないのである。この根本的原因から目を逸らせ、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておけばバカは安心満足して利己的欲望の追究が可能であろう。それこそがバカがバカたる所以であるからだ。



Ende;