○疑念。
主観を意識と分類するのは間違いである。個人的主観は無意識であり、何ら論理検証性を必要としない固定観念的区別分類でしかないからだ。
振り込め詐欺師からの電話を信じ込む被害者は、個人的主観として相手を詐欺ではないと論理検証出来ずに固定観念的区別分類の絶対化が生じているために騙されるのである。
客観的論理検証こそが意識の本質である。
「A」という文字記号を「A」であると認識することは論理検証を必要としないものであり。文字認識というのは無意識な認知能力である。ゲシュタルト心理学というのは論理検証を必要としない人工的規則「決まりごと」に対する認知能力を論じているだけであって、本質的な意識とは無関係である。
ゲシュタルト心理学が取り扱うのは、動物的な認識識別能力だけであって。動物的な認識識別能力自体は通り魔でもシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であり、本質的な人間としての知能を伴う認識能力とは無関係なのである。
ゲシュタルト崩壊が起こるとヒトは違和感を感じ、観念的疑いを抱く。疑う必要性のない文字の形に疑念を抱いてしまうのである。こうした意味のない感覚的疑念もまた錯覚の一種である。
現在の認知科学においては、デジタルカメラの顔認識程度の機能を「高次認知機能」としており、サルでも可能な認知機能をして「高次」だと論じているのである。顔認識であればシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であって、何ら「ヒトが人間」たりうる論証とは全く無関係である。先天的に視覚障害があって顔認識が出来なければ人間として不完全であるわけもなく、どうでも良い話なのである。
適応的進化というのは結果である。結果以上の何物でもないものを抽出枚挙したところで目的意識的行動選択とは関係がないのである。
相手が嘘をついているか、それとも本当のことを言っているのかを判断するのは、本来論理検証性であるが。ヒトの多くは雰囲気的に本当「らしい。」かどうかを判別しているだけであって、権威性「らしさ」を演出することによって簡単に騙すことが可能になるのである。
ヒトという種の生物には、「権威とは、こういうものである。」といった固定観念、権威「らしさ。」の外見を装うことで、多くのヒト達は権威らしいと「思う。」ことで、相手が服従するに値するかどうかの論理検証をパスして盲目的に服従してしまう習性がある。「権威に服従することは人間としての義務である。」という論理的根拠のない観念、「神話」類に取り憑かれ、「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手な決め付け、ヒトの多くは本能的に安心満足なことと、論理的安全性を区別することが出来ず、大抵の場合本能的安心満足による観念を優先してしまうのである。
「ヒトとは、そういうものである。」が、これは傾向性や習性を論じているだけであって。別に傾向習性に流される以外の選択が絶対に不可能であることの論証ではない。難しいことを観念的に拒絶することと、論理的不可能性証明を混同すべきではない。
個人的、主観的に「権威に服従してさえおけば気分的に安心で精神的に満足。」できることを、あたかも論理的安全性の証明であるかの如く錯覚するのである。こうした錯覚こそが心理学上における「甘え」の構造(:土居健朗)を作り出しているのである。
権威への盲目的服従による安心満足というものは、動物本能的な社会形成習性による統率的封建社会形成を促す「結果」的な条件反射であり。動物的行動バイアスである。
このような動物的行動バイアスの結果として、ヒトの多くは条件反射的に権威者の命令に服従「してしまう。」のであり、「してしまう。」ということこそが意識的行動ではない証明であり、当人の意識的な行動選択を介していないがゆえに「してしまう。」のである。
自然界における生物進化というものは、全て「結果」であって、「結果」の全てが常に正しい結果をもたらす論証はなく。むしろ無意識による「結果」しか導き出すことはない。過去の「結果」を教訓にし、どのような選択をするのかの判断が伴ってこそ意識的「目的」となるのであって、結果の全てに後から意味をこじつけていれば意識的目的を見失うのは当然である。
現在の進化生物学的には「結果」こそが全てである。淘汰の結果として生き残ったものを「生物」と分類しているからであり、その結果的分類という本来手段であるはずのものが目的へとすりかえられているからである。
ヒトの多くは本能によって促される感情こそが意識であると錯覚しがちであるが、感情という大脳辺縁系の反射自体は自己の意識的選択によって促されるものではなく、これは意識ではない。ヒトの意識の9割以上は感情に基づく条件反射という無意識であることを忘れるべきではない。
現在の生物学が生き残っているヒトの本能習性の全てに意味があると言い張るのは、生存という「結果」があたかも絶対的「目的」であると勝手に決め付けた上での論証しかしていないからである。生存という結果だけを絶対視し、生存しているヒトの遺伝的本能の全てに何らかの意味があると決め付けるのは、生物学上の「神話」に過ぎない。
現在の生物学が優生学の間違いを指摘出来ないのは、「神話」に基づく「結果の全てに意味がある。」とするこじつけこそが科学的論証であると錯覚しているからである。
感覚的違和感に基づいた疑念には論理的根拠はない。「自分だけが、なぜ自分なのか。」という感覚的違和感同様、それは疑う必要性のない感覚的違和感でしかないのである。
Ende;