「書き逃げアンドロイド。」をググったときに、記事の上位3っつまでは表示させるのだが。その中に、以前書き始めてすぐにやめてしまった記事があったので、改めて書こうと思う。
本質的自己選択というものがなければ、それ以外のあらゆる行動というものは全て本質的には自己選択ではない。あまりに自明な理屈ではある。
この話に触れると、時折パニック障害のような情緒不安定に陥る人もいるので、学者とか専門家の学生以外にはあまりお勧めできない。
当ブログのタイトルの「書き逃げ。」とは、ソネットブログに書いたままほったらかしになっている「意識論。」などのブログに由来する。この論文のようなものを読んだ人の中に、一体どれ程の精神不安定を及ぼしたのかがわからないので、私としてはどうしたものか、判断がつかない。
とりあえず、この記事では本質的な自己とは何かについて論じてみるが。お勧めはできないので、予めご了承願う。
§:本質的自己
今、現在存在する自分とは何か。自分では選択していない遺伝的な構造に由来する本能や感情は、構造原理的に自己ということはできない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳の構造は自分では選択していないのである。
従って、本能や欲望、感情といったものの全ては、それだけでは自己選択ということが出来ない。
ここまでは一部の生物学者も理解したらしいのだが。ここから先、自分が育った社会環境や時代に由来する固定観念的なあらゆる価値観もまた、自己選択ではないという話には、多くの学者もついて来ることができないらしい。
「潜在知。」などという、個人的、主観的な価値観、好き嫌いは。一面的には「個性。」ではあるのだが、それを「知能。」の一部であるとするのは大間違いである。
成育環境に由来する個人の無意識的な価値観に個体差が存在したとしても、それは「個性。」ではあっても、自己自身で意識的に選択されたものではない。
たとえば、虐待をされて育った人が、虐待を連鎖する行動とは。成育環境によって無意識な深層心理に刷り込まれた個人的な好き嫌いによって促される情動行動が原因である。
成育環境によって、無意識的に学習「された。」ものの全ては、自己自身によって意識的に選択された行動とは言えないのである。
過去に学習「された。」あらゆる情動行動の全ては、それだけでは本質的な自己選択ではない。
「それだけ。」では本質的には「自己選択。」ではないのである。
そこに何が介在すれば、本質的自己選択であると言えるのか。それが統合的な認識から導き出される、理性による行動選択である。
ただ、完全なる統合的な認識などというものは存在しない。個人の認識可能な知識に絶対などというものは存在し得ないからである。従って、自分が知り得る範囲内、理解可能な範囲内においての統合的な認識における判断で構わない。しかし、認識可能であるにも関わらず、それを意識から外して無視していたり。あるいは認識不可能であるにも関わらず、あたかも認識できたような錯覚に陥って勝手な判断をする場合。それらは個人の認識可能な範囲を逸脱した認識に基づくものであり。これは本質的には理性的判断自体が伴わない。
認識可能、理解可能な範囲内におけるあらゆるものを。全て客観的に認識するためには。そこに一切の感情や価値観によるバイアスを放棄した上での、冷静で広い視野を持った自己分析が必要である。
恐らく、これが一番難しいのかも知れない。
いわば、心理臨床的な自己治療の範囲になるのかも知れない。だが、生活習慣病の治療などにおいての治療と一緒で、「コレステロールの過剰摂取が循環器系に悪影響を及ぼす。」などの知識であれば、それは臨床医でなくとも知っておくべき内容であるのと同様。カルト宗教だの詐欺だのに引っ掛からないための感情コントロールの基礎として、本質的な自己自身の理性的な選択、判断というものは知っておくべき、身につけておくべきである。
日本人というのは、とかく他人任せにばかり執着し、自律的に判断するということが大嫌いな民族性がある。「お役所仕事。」的な、上司に対する従順性と責任逃ればかりを考えていれば、封建的な縦割り制度に陥るのである。それが規則上において責任がないとしても、結果的に社会が崩壊してしまえば、社会の一員としての責任を放棄していたツケは払わなければならないのである。
社会というものは、神から与えられたものではないので、間違いがあるのなら自分達で正さなければならないものなのである。封建的な年功序列制度に従順なだけの自律判断の欠落したヒトしかいないのであれば、社会は指導者任せにしかならない。それなら安物の新興宗教と変わらないのである。
血液製剤の権威の言うなりになった厚生省の役人を糾弾しておきながら、一方では支離滅裂な東大名誉教授には何の批判もできないマスコミというのは。やっていることに論理的整合性が欠落している。こうした支離滅裂な行動というものは、マスコミに限らず、日本に限らず、多くのヒトに見られる行動選択である。
単に振り込め詐欺に引っ掛かった程度であっても、暴力団の資金源になってしまっているのであれば、それは暴力団に協力したのと結果的には同じことであり。個人の損失だけで収まる話ではない。
多くのヒトが頭が悪いままでは社会全体の損失になるのである。騙したつもりになっている者であっても、結局は社会全体が疲弊すれば、程度の差はあれ、誰しもが将来負担被ることになるのである。
行動責任の重さというのは、人によってまちまちである。原子炉の運転に関わる人と、町のパン屋では違って当然である。しかし、パン屋にはパン屋なりの責任というものはある。重大な責任を負う技術者だけが倫理的判断を求められるのではなく、人にはそれぞれの立場なりの行動選択責任というものがあるのだ。厚生省の役人には行動責任を求めておきながら、マスコミの方は無責任な世間的ウケ狙いに邁進して良い理由など存在しない。
世間多数からの要望なり、視聴率や販売部数を稼ぐことだけが本当の意味における「社会からの要請。」ではない。たとえ多数からの批判をされても、社会にとって必要な事柄、行動というのは存在する。公益倫理的な自律判断を行ったからといって、それが必ずしも報われるとは限らない。それでも、社会全体にとって必要な行動であるならば、それは自律的に選択しなければならない。人は必ずいつか死ぬのである、死に臨して目先の利益に何の意味があろうか。心安らかに死に臨むためには、本当に社会全体にとって必要な、公益的な倫理判断というものを自律的に選択することというのは、結局自分自身の人生にとって最も大切な選択なのである。
目先の利益を優先し、結果的に社会全体の損失になるような選択を行えば。それは自分自身の良心を傷付けることになり、最終的には自己嫌悪にさいなまされ、後ろめたい気分を抱えたまま死に臨むことになる。養老孟司はそれを「健康。」と言った。
生物としては、それを「健康。」であるとしても構わないであろう。だが、人間の精神としては充分不健康である。生物種としての「ヒト。」として健康であるか、それとも「一人の人間。」として健康であるか、本来選択の余地など始めからない。
逆に、自己選択とは無関係の事柄に対して観念的に責任を感じてしまう場合というのもある。これもまた、理論的な「考え。」が伴わないことから生じる気分的な条件反射によるものであり、こうした観念的な自己嫌悪というものは理論的に「考え。」ていれば回避できるものでもある。
心理臨床における認知行動療法というものも、自己自身の観念的自己嫌悪というものの原因を理性的に意識することによって、それが単なる気分的な錯覚に由来するものである場合には効果を発揮することが出来るのである。
それに対して、現在の哲学界における、自分の気分を優先するような話のほとんど全ては、観念を利用して自己満足のまどろみに誘うだけのオカルト宗教でしかないのである。
文系の人間、或は文系的に理論的思考のできない生物学者達というのは、結果と目的を区別することを嫌い、あらゆる結果論だけに意義を求める非論理的な観念に執着する。社会生物学はもとより、進化論の基礎となる「生物の目的は、生存。」という観念が間違いであることに言及できれば、自ずと悪名高い優性学の間違いにも言及できるのである。
生物、それ自体に目的などない。結果的に生存していたものを、我々が「生物。」と分類しただけのことであり。分類されたものに目的が存在しなければならない論理的根拠などない。
目的とは、そもそも当人の認識可能な範囲内における行動整理の結果でなくては目的とは言うことができない。無意識に漫然と行った行動がどのような結果になろうとも、それは全て結果であって、目的とは言えないのである。
目的とは、意識上において認識可能な知識に基づき、理性によって統合的に判断された行動選択の結果である。
温室効果ガスの排出量を低減できなくても、おそらく今生きている人間にとっての損失にはならないであろう。ましてや先の短いジジイであれば、なをさらである。今まで温室効果ガスのことなど考えずに生活してきたからといって、漫然と温室効果ガスの削減に意識が働かないまま無意識に生活するというのは、そこに本質的意識が欠落しており、行動に影響を及ぼさないからである。
認識可能でありながら、認識することを拒絶するのは。無意識的に刷り込まれた「学習。」行動のままに、全く意識が働かないからに他ならない。
こうした無意識な行動しか促さない、単に既に存在しているだけの自己のことを私は、「既存在。」と呼び、それ以外の行動選択可能な意識的目的行動だけが、本質的な自己なのである。
自分のあらゆる行動について、「なぜ、この選択を行っているのか。」を考える必要がある。無意識に漫然と行動選択していても、それが本質的な自己の選択ではない場合がある。むしろ、本質的な自己選択などしていない場合の方がほとんどであろう。
こんなことを言うと、何をするにも自分の行動選択が信じられなくなって、自信喪失に陥り、何も出来なくなってしまう人もいるかも知れない。しかし、それは過剰反応である。一人の人間に出来ることなど、さしたるものではない。ほんの些細な行動選択であっても、より多くの人が行うことによって、社会の諸問題というのは解決可能にもなるのである。
誰も読者個人に「世の中を救って下さい。」とは言っていないのである。自分を救世主か何かと勘違いするから、地下鉄に毒ガスを撒いたりすることになるのである。大人が一年間飲み続けても医学的には問題がない放射能汚染に過剰反応して、ペットボトルの水を買い占めするようなヒステリックな行動を採らない、そうした些細な行動選択の一つ一つによって、社会というのは良い方向に進むことができる。効率的で住みやすい社会にすることができるのである。
一つ一つの行動選択に、もう少しだけ「配慮。」をして頂きたい。毎日コツコツと、地道に続けることが大切なのである。
マスコミや、世間多数や、権威の言うことを鵜呑みにするのではなく。論理的に理解できないものは、「わかりません。」で構わない。科学的思考というのは、わからないことはハッキリと「わかりません。」と宣言する態度が必要である。
論理的には理解できていないにも関わらず、「わかりません。」と明言することを恥ずかしいからといって、わかったような顔をしているから、本当は論理的には理解不可能な寝言を多くの人が理論だと思い込むことこそが、最も愚かなことであると認識すべきである。
そもそも、「恥ずかしい。」という感情は、多数他人との比較によって導き出される感情であり。多数の人が陥っている間違いであれば、多くの人はそれを恥ずかしいとすら思うことはないのである。
ヒトの大脳辺縁系というものは、原理的にそういうふうにできているものであることを、忘れるべきではない。
「多くのヒトが思わないことであるならば、それは自分も思わなくても良いのではないか。」そう「思う。」かも知れない。この「思い。」の中には一切「考え。」が成立していないのである。もう一度読み返せばわかる。
「思考。」という言葉には、「思い。」と「考え。」の両面がある。だが、本当に必要な「思い。」とは、理論的追求を行うための情熱としての「思い。」であって、固定観念としての勝手な「思い込み。」のことではない。それを勘違いしてはいけない。
純粋理性とは、それ自体は人畜無害な論理性である。論理的な根拠に基づいて、その間違いが有害であると認識できた場合において、徹底した精密検証を行う情熱というもの自体は理性ではなく、情熱、感情である。しかし、思考の基となるものはあくまで理論的な精密検証性であって、アプリオリな思い込みに基づくものであってはならない。
科学的「思考。」において主となるのは「考え。」でなければならず。これが逆転してしまうから科学ではなくなるのである。
勝手な思い込みに対して、その事後正当化としての屁理屈をでっちあげればオカルトである。生物学における「生物の目的は、生存。」といったものも、こうしたオカルトの範疇に入るのである。単に生存だけを目的とするのであれば、ウイルス類やゴキブリでも充分目的を達することは可能であり。そこに公益倫理的な自律判断など、全く無意味である。
生物進化における変異のほとんど全ては生存に適さない。それでもあらゆる変異によって、偶発的に環境に適応した個体が生ずることがある。その生存とはあくまで「結果。」論であって、個体の意思とは無関係である。にも関わらず生物学者達は、それを「生存戦略。」などと言い張る。どのような変異を生ずるのかすら、そこには何の意図も存在しないにも関わらず、それを「戦略。」などと言い張るのは、全くもってオカルトとしか言いようがない。
学力が高いだけで、自律的には何も判断したがらない現在の生物学界の怠慢は。そもそも目的意識自体が無意識的な条件反射的なものでしかなかったからであろう。彼等にとって、生物学の進歩には興味がなく。ただ、漫然と従来の体制を維持することによって、自らの無能を隠蔽できれば満足なのである。
こうした利己的な行動選択を行う人間が、人間としての価値を持ちうるのか、公費を用いて糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を作ることが、国立大学の役割であるのか。本来なら考えるまでもない話なのだが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない。」的に、漫然と実証不能の観念を唱え続けているのである。
これは天下り役人の行動原理と同じで、自分達が今まで漫然と無批判に年功序列体制に服従し続けてきたことを、事後正当化するために体制維持に執着するのである。養老孟司が言う、「そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」とは、そういう意味である。養老の場合、医学部であったためにそれを大学では確立できなかった、だから文系の人間達を丸めこんで、あちこちの出版社に体制を作り出したのである。文系の人間なら理論的な理解など要らないからである。
実に巧妙な言論統制システムの構築である。大学だけならこんなシステムは構築できなかったであろう。養老はそれで自分は頭が良いと思っているのである。
養老が宮崎駿とか糸井重里といった文系の人間にばかり執着するのは、理論的に考えることのできる学者達では、自分の観念に丸め込むことができないことを知っているからである。
ああ、なんだか「本質的自己とは何か。」についての話から逸脱してしまった。そもそも、そんなに話すこと自体はあんまりないので、単に理解できるかどうかは読者の問題であって、私がどんなに説明しても、理解するための「エサ。」があるわけでもなし。本当に自発的に知りたいと思うのであれば、わからない部分はコメントにでも書いてくれ。おそらく何も反応はないであろう、それならお前らバカなんだろうな。
本質的自己選択というものがなければ、それ以外のあらゆる行動というものは全て本質的には自己選択ではない。あまりに自明な理屈ではある。
この話に触れると、時折パニック障害のような情緒不安定に陥る人もいるので、学者とか専門家の学生以外にはあまりお勧めできない。
当ブログのタイトルの「書き逃げ。」とは、ソネットブログに書いたままほったらかしになっている「意識論。」などのブログに由来する。この論文のようなものを読んだ人の中に、一体どれ程の精神不安定を及ぼしたのかがわからないので、私としてはどうしたものか、判断がつかない。
とりあえず、この記事では本質的な自己とは何かについて論じてみるが。お勧めはできないので、予めご了承願う。
§:本質的自己
今、現在存在する自分とは何か。自分では選択していない遺伝的な構造に由来する本能や感情は、構造原理的に自己ということはできない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳の構造は自分では選択していないのである。
従って、本能や欲望、感情といったものの全ては、それだけでは自己選択ということが出来ない。
ここまでは一部の生物学者も理解したらしいのだが。ここから先、自分が育った社会環境や時代に由来する固定観念的なあらゆる価値観もまた、自己選択ではないという話には、多くの学者もついて来ることができないらしい。
「潜在知。」などという、個人的、主観的な価値観、好き嫌いは。一面的には「個性。」ではあるのだが、それを「知能。」の一部であるとするのは大間違いである。
成育環境に由来する個人の無意識的な価値観に個体差が存在したとしても、それは「個性。」ではあっても、自己自身で意識的に選択されたものではない。
たとえば、虐待をされて育った人が、虐待を連鎖する行動とは。成育環境によって無意識な深層心理に刷り込まれた個人的な好き嫌いによって促される情動行動が原因である。
成育環境によって、無意識的に学習「された。」ものの全ては、自己自身によって意識的に選択された行動とは言えないのである。
過去に学習「された。」あらゆる情動行動の全ては、それだけでは本質的な自己選択ではない。
「それだけ。」では本質的には「自己選択。」ではないのである。
そこに何が介在すれば、本質的自己選択であると言えるのか。それが統合的な認識から導き出される、理性による行動選択である。
ただ、完全なる統合的な認識などというものは存在しない。個人の認識可能な知識に絶対などというものは存在し得ないからである。従って、自分が知り得る範囲内、理解可能な範囲内においての統合的な認識における判断で構わない。しかし、認識可能であるにも関わらず、それを意識から外して無視していたり。あるいは認識不可能であるにも関わらず、あたかも認識できたような錯覚に陥って勝手な判断をする場合。それらは個人の認識可能な範囲を逸脱した認識に基づくものであり。これは本質的には理性的判断自体が伴わない。
認識可能、理解可能な範囲内におけるあらゆるものを。全て客観的に認識するためには。そこに一切の感情や価値観によるバイアスを放棄した上での、冷静で広い視野を持った自己分析が必要である。
恐らく、これが一番難しいのかも知れない。
いわば、心理臨床的な自己治療の範囲になるのかも知れない。だが、生活習慣病の治療などにおいての治療と一緒で、「コレステロールの過剰摂取が循環器系に悪影響を及ぼす。」などの知識であれば、それは臨床医でなくとも知っておくべき内容であるのと同様。カルト宗教だの詐欺だのに引っ掛からないための感情コントロールの基礎として、本質的な自己自身の理性的な選択、判断というものは知っておくべき、身につけておくべきである。
日本人というのは、とかく他人任せにばかり執着し、自律的に判断するということが大嫌いな民族性がある。「お役所仕事。」的な、上司に対する従順性と責任逃ればかりを考えていれば、封建的な縦割り制度に陥るのである。それが規則上において責任がないとしても、結果的に社会が崩壊してしまえば、社会の一員としての責任を放棄していたツケは払わなければならないのである。
社会というものは、神から与えられたものではないので、間違いがあるのなら自分達で正さなければならないものなのである。封建的な年功序列制度に従順なだけの自律判断の欠落したヒトしかいないのであれば、社会は指導者任せにしかならない。それなら安物の新興宗教と変わらないのである。
血液製剤の権威の言うなりになった厚生省の役人を糾弾しておきながら、一方では支離滅裂な東大名誉教授には何の批判もできないマスコミというのは。やっていることに論理的整合性が欠落している。こうした支離滅裂な行動というものは、マスコミに限らず、日本に限らず、多くのヒトに見られる行動選択である。
単に振り込め詐欺に引っ掛かった程度であっても、暴力団の資金源になってしまっているのであれば、それは暴力団に協力したのと結果的には同じことであり。個人の損失だけで収まる話ではない。
多くのヒトが頭が悪いままでは社会全体の損失になるのである。騙したつもりになっている者であっても、結局は社会全体が疲弊すれば、程度の差はあれ、誰しもが将来負担被ることになるのである。
行動責任の重さというのは、人によってまちまちである。原子炉の運転に関わる人と、町のパン屋では違って当然である。しかし、パン屋にはパン屋なりの責任というものはある。重大な責任を負う技術者だけが倫理的判断を求められるのではなく、人にはそれぞれの立場なりの行動選択責任というものがあるのだ。厚生省の役人には行動責任を求めておきながら、マスコミの方は無責任な世間的ウケ狙いに邁進して良い理由など存在しない。
世間多数からの要望なり、視聴率や販売部数を稼ぐことだけが本当の意味における「社会からの要請。」ではない。たとえ多数からの批判をされても、社会にとって必要な事柄、行動というのは存在する。公益倫理的な自律判断を行ったからといって、それが必ずしも報われるとは限らない。それでも、社会全体にとって必要な行動であるならば、それは自律的に選択しなければならない。人は必ずいつか死ぬのである、死に臨して目先の利益に何の意味があろうか。心安らかに死に臨むためには、本当に社会全体にとって必要な、公益的な倫理判断というものを自律的に選択することというのは、結局自分自身の人生にとって最も大切な選択なのである。
目先の利益を優先し、結果的に社会全体の損失になるような選択を行えば。それは自分自身の良心を傷付けることになり、最終的には自己嫌悪にさいなまされ、後ろめたい気分を抱えたまま死に臨むことになる。養老孟司はそれを「健康。」と言った。
生物としては、それを「健康。」であるとしても構わないであろう。だが、人間の精神としては充分不健康である。生物種としての「ヒト。」として健康であるか、それとも「一人の人間。」として健康であるか、本来選択の余地など始めからない。
逆に、自己選択とは無関係の事柄に対して観念的に責任を感じてしまう場合というのもある。これもまた、理論的な「考え。」が伴わないことから生じる気分的な条件反射によるものであり、こうした観念的な自己嫌悪というものは理論的に「考え。」ていれば回避できるものでもある。
心理臨床における認知行動療法というものも、自己自身の観念的自己嫌悪というものの原因を理性的に意識することによって、それが単なる気分的な錯覚に由来するものである場合には効果を発揮することが出来るのである。
それに対して、現在の哲学界における、自分の気分を優先するような話のほとんど全ては、観念を利用して自己満足のまどろみに誘うだけのオカルト宗教でしかないのである。
文系の人間、或は文系的に理論的思考のできない生物学者達というのは、結果と目的を区別することを嫌い、あらゆる結果論だけに意義を求める非論理的な観念に執着する。社会生物学はもとより、進化論の基礎となる「生物の目的は、生存。」という観念が間違いであることに言及できれば、自ずと悪名高い優性学の間違いにも言及できるのである。
生物、それ自体に目的などない。結果的に生存していたものを、我々が「生物。」と分類しただけのことであり。分類されたものに目的が存在しなければならない論理的根拠などない。
目的とは、そもそも当人の認識可能な範囲内における行動整理の結果でなくては目的とは言うことができない。無意識に漫然と行った行動がどのような結果になろうとも、それは全て結果であって、目的とは言えないのである。
目的とは、意識上において認識可能な知識に基づき、理性によって統合的に判断された行動選択の結果である。
温室効果ガスの排出量を低減できなくても、おそらく今生きている人間にとっての損失にはならないであろう。ましてや先の短いジジイであれば、なをさらである。今まで温室効果ガスのことなど考えずに生活してきたからといって、漫然と温室効果ガスの削減に意識が働かないまま無意識に生活するというのは、そこに本質的意識が欠落しており、行動に影響を及ぼさないからである。
認識可能でありながら、認識することを拒絶するのは。無意識的に刷り込まれた「学習。」行動のままに、全く意識が働かないからに他ならない。
こうした無意識な行動しか促さない、単に既に存在しているだけの自己のことを私は、「既存在。」と呼び、それ以外の行動選択可能な意識的目的行動だけが、本質的な自己なのである。
自分のあらゆる行動について、「なぜ、この選択を行っているのか。」を考える必要がある。無意識に漫然と行動選択していても、それが本質的な自己の選択ではない場合がある。むしろ、本質的な自己選択などしていない場合の方がほとんどであろう。
こんなことを言うと、何をするにも自分の行動選択が信じられなくなって、自信喪失に陥り、何も出来なくなってしまう人もいるかも知れない。しかし、それは過剰反応である。一人の人間に出来ることなど、さしたるものではない。ほんの些細な行動選択であっても、より多くの人が行うことによって、社会の諸問題というのは解決可能にもなるのである。
誰も読者個人に「世の中を救って下さい。」とは言っていないのである。自分を救世主か何かと勘違いするから、地下鉄に毒ガスを撒いたりすることになるのである。大人が一年間飲み続けても医学的には問題がない放射能汚染に過剰反応して、ペットボトルの水を買い占めするようなヒステリックな行動を採らない、そうした些細な行動選択の一つ一つによって、社会というのは良い方向に進むことができる。効率的で住みやすい社会にすることができるのである。
一つ一つの行動選択に、もう少しだけ「配慮。」をして頂きたい。毎日コツコツと、地道に続けることが大切なのである。
マスコミや、世間多数や、権威の言うことを鵜呑みにするのではなく。論理的に理解できないものは、「わかりません。」で構わない。科学的思考というのは、わからないことはハッキリと「わかりません。」と宣言する態度が必要である。
論理的には理解できていないにも関わらず、「わかりません。」と明言することを恥ずかしいからといって、わかったような顔をしているから、本当は論理的には理解不可能な寝言を多くの人が理論だと思い込むことこそが、最も愚かなことであると認識すべきである。
そもそも、「恥ずかしい。」という感情は、多数他人との比較によって導き出される感情であり。多数の人が陥っている間違いであれば、多くの人はそれを恥ずかしいとすら思うことはないのである。
ヒトの大脳辺縁系というものは、原理的にそういうふうにできているものであることを、忘れるべきではない。
「多くのヒトが思わないことであるならば、それは自分も思わなくても良いのではないか。」そう「思う。」かも知れない。この「思い。」の中には一切「考え。」が成立していないのである。もう一度読み返せばわかる。
「思考。」という言葉には、「思い。」と「考え。」の両面がある。だが、本当に必要な「思い。」とは、理論的追求を行うための情熱としての「思い。」であって、固定観念としての勝手な「思い込み。」のことではない。それを勘違いしてはいけない。
純粋理性とは、それ自体は人畜無害な論理性である。論理的な根拠に基づいて、その間違いが有害であると認識できた場合において、徹底した精密検証を行う情熱というもの自体は理性ではなく、情熱、感情である。しかし、思考の基となるものはあくまで理論的な精密検証性であって、アプリオリな思い込みに基づくものであってはならない。
科学的「思考。」において主となるのは「考え。」でなければならず。これが逆転してしまうから科学ではなくなるのである。
勝手な思い込みに対して、その事後正当化としての屁理屈をでっちあげればオカルトである。生物学における「生物の目的は、生存。」といったものも、こうしたオカルトの範疇に入るのである。単に生存だけを目的とするのであれば、ウイルス類やゴキブリでも充分目的を達することは可能であり。そこに公益倫理的な自律判断など、全く無意味である。
生物進化における変異のほとんど全ては生存に適さない。それでもあらゆる変異によって、偶発的に環境に適応した個体が生ずることがある。その生存とはあくまで「結果。」論であって、個体の意思とは無関係である。にも関わらず生物学者達は、それを「生存戦略。」などと言い張る。どのような変異を生ずるのかすら、そこには何の意図も存在しないにも関わらず、それを「戦略。」などと言い張るのは、全くもってオカルトとしか言いようがない。
学力が高いだけで、自律的には何も判断したがらない現在の生物学界の怠慢は。そもそも目的意識自体が無意識的な条件反射的なものでしかなかったからであろう。彼等にとって、生物学の進歩には興味がなく。ただ、漫然と従来の体制を維持することによって、自らの無能を隠蔽できれば満足なのである。
こうした利己的な行動選択を行う人間が、人間としての価値を持ちうるのか、公費を用いて糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を作ることが、国立大学の役割であるのか。本来なら考えるまでもない話なのだが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない。」的に、漫然と実証不能の観念を唱え続けているのである。
これは天下り役人の行動原理と同じで、自分達が今まで漫然と無批判に年功序列体制に服従し続けてきたことを、事後正当化するために体制維持に執着するのである。養老孟司が言う、「そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」とは、そういう意味である。養老の場合、医学部であったためにそれを大学では確立できなかった、だから文系の人間達を丸めこんで、あちこちの出版社に体制を作り出したのである。文系の人間なら理論的な理解など要らないからである。
実に巧妙な言論統制システムの構築である。大学だけならこんなシステムは構築できなかったであろう。養老はそれで自分は頭が良いと思っているのである。
養老が宮崎駿とか糸井重里といった文系の人間にばかり執着するのは、理論的に考えることのできる学者達では、自分の観念に丸め込むことができないことを知っているからである。
ああ、なんだか「本質的自己とは何か。」についての話から逸脱してしまった。そもそも、そんなに話すこと自体はあんまりないので、単に理解できるかどうかは読者の問題であって、私がどんなに説明しても、理解するための「エサ。」があるわけでもなし。本当に自発的に知りたいと思うのであれば、わからない部分はコメントにでも書いてくれ。おそらく何も反応はないであろう、それならお前らバカなんだろうな。