他人からの評価承認に依らずに自律的に社会的責任判断をして初めて一人前の「大人」とか「人間性」だと言えるわけですから。自分がいる組織集団の利益や個人的保身や承認評価を優先してしまうことは人間として間違いです。
もしかすると、今の法学部においては危険学とか失敗学の考え方は教えていないのかしら。だとしたら法学部のカリキュラムに問題があると思うなぁ。
刑法懲罰などを「目的」とした法律という道具や手段の使い方だけ覚えて、それを何にどう使うべきなのかを何も考えていないのであれば、冤罪だろうが法律の拡大解釈だろうが気にしなくなってしまう。それではナチスの絶滅収容所の吏官と同じ過ちに陥ることになってしまいます。
組織内部での評価承認基準だけしか意識が働いていないからこそ、アドルフ:アイヒマンは残虐な殺害計画書を作成することに邁進したわけで。こうした組織内部の評価基準に迎合してしまうことこそが、福島第一原発の津波に対する危険性放置の原因にもなったわけです。
法学部に限らず、それこそ大学に限らず中学生とか小学生レベルからでも危険学や失敗学の考え方に基づいた人間性の形成が必要なはずで。特定の技術者だけの倫理として扱うというのも間違いなんじゃないかと思う。
その辺、畑村洋太郎さんはどう考えているんだろうなぁ。
Ende;
もしかすると、今の法学部においては危険学とか失敗学の考え方は教えていないのかしら。だとしたら法学部のカリキュラムに問題があると思うなぁ。
刑法懲罰などを「目的」とした法律という道具や手段の使い方だけ覚えて、それを何にどう使うべきなのかを何も考えていないのであれば、冤罪だろうが法律の拡大解釈だろうが気にしなくなってしまう。それではナチスの絶滅収容所の吏官と同じ過ちに陥ることになってしまいます。
組織内部での評価承認基準だけしか意識が働いていないからこそ、アドルフ:アイヒマンは残虐な殺害計画書を作成することに邁進したわけで。こうした組織内部の評価基準に迎合してしまうことこそが、福島第一原発の津波に対する危険性放置の原因にもなったわけです。
法学部に限らず、それこそ大学に限らず中学生とか小学生レベルからでも危険学や失敗学の考え方に基づいた人間性の形成が必要なはずで。特定の技術者だけの倫理として扱うというのも間違いなんじゃないかと思う。
その辺、畑村洋太郎さんはどう考えているんだろうなぁ。
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