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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

矛盾。

2011年03月29日 21時12分11秒 | 意識論関連
 これから誰かが、誰も思いつかないような新しい業績を発想するとして。それ自体を計算予測することが可能であろうか。

 話を過去に遡って考えてみよう。アインシュタインが相対性理論を発想する以前に、それを予測することは可能であろうか。

 もし、それが可能であるならば。相対性理論自体までも予め予測していなければならない。

 それなら、アインシュタインが発想する前に、既に予測の段階で発想されているということである。

 それは既に予測の範囲を超えている。


 人工知能というものを考えたとき。ヒトが何かを発想するメカニズムを真似ることができれば、計算によって、あらゆる発想は「予測。」されうることになる。

 いわば「知能爆発。」とでもいうべき現象が生じれば、ヒトがあれこれ考えなくても機械が全て計算で出してくれる。

 その時、ヒトが行うべきことは、機械の予測に基づき、実証実験を行うことと。機械が導き出す予測候補の選択であろう。

 機械が導き出す予測の候補は、あくまで候補でしかない。どのような予測結果になるのが望ましいのかは、結局ヒトが選択しなければならない。

 機械が導き出すのは予測だけであり、機械に「正当。」な判断などできないからである。

 「正当。」な判断というものは、結局は人間におけるものでしかない。それこそ地球環境だけを優先すれば、ヒトなどいない方が良いという結論になりかねないからである。

 機械に「正当性。」を判断させても、そこから出てくるのは「機械の正当性。」だけであり、「人間の正当性。」ではない。

 機械である以上、どこまで行っても道具でしかないのである。

 お伽話ですけどね。


 多数の凡人とは異なる発想をするということは、思考の探索性が一般人と異なり深いということである。逆にいうと、凡人が凡人たる所以とは、凡人同士で同じ考えにしか行き着かないということでもある。

 ヒトという種の生物の習性傾向性という、無意識的な「思い込み。」しかできないから、凡人は凡人なのである。

 学校で教わる、過去の偉人の業績を、どんなにたくさん「知って。」いるとしても、それらは自分自身で思い付いた業績ではない。従って、どんなに教わったことを正確に述べることが出来たとしても、それ自体は業績にはならない。

 それこそ、プラトンだのニーチェだの、養老だのといった、単なる有名人の発言の論理整合性が検証できないまま、ただ鵜呑みにしているだけであれば、むしろバカでしかない。

 自分から思いついた話と、他人が思いついたことを知っているだけとは、全く異なることである。

 「当たり前だろ。」そう思ったかな。実は養老はこれを「同じ脳の状態。」と称して同じだと「論証。」している。これを自分から気付いた人が一体何人いるであろう。


 思考の「深度。」は、その集中力に比例する。集中力は自発性に依存し、自発性は意思に依存する。個人の意思とは、本質的意識と同義である。

 環境から与えられる評価報酬という抽象化された「エサ。」に対して機械手続き的条件反射によって、いわば無意識に「学習。」されただけの本質的自発性を欠いた学力では、特定の事柄に対する思考の深度は、与えられる環境に依存する。

 与えられた環境に依存する能力である限り。そこから環境以上の思考深度は得られない。


 有名人の格言風味な言葉を引用すると、知的な風情が漂って、大衆の脳が酔うらしいので、ここでアインシュタインでも引用してみよう。

 「事実を学ぶのはあまり重要ではない。そのために大学は必要ない。本から学べば良い。一般教養大学の教育の価値は、事実を多く学ぶことではなく、教科書からは学べないことを考えるよう頭を鍛えることである。」

 個人的には「頭を鍛える。」という言い回しが嫌いであるが。要するに、「自分から考えるようにならないと、大学の意味はない。」ということであろう。

 「頭を鍛える。」というと、与えられた事柄に対してだけ思考するような盲目性が伴うことが多いので。一般教養(リベラルアーツ)としてのリベラル性、自由度を失うことになり、どうも好きになれない。

 まあ、翻訳の関係もあって、原文の意図がどういうものかは私は知らないので、アインシュタインの意図まではよくわからない。


 一般的な脳の構造を数理モデルで再現しても、そのモデルから導き出される発想とは、結局凡人の発想しかでてこない。

 機械に自発性、すなはち純粋な好奇心が再現できないと、そういうことにしかならない。

 しかし、ヒトであっても自律判断が困難である以上。機械に自律が可能である可能性は低い。何せ、機械としての正当性しか追求できないからである。

 現在の人工知能研究では、基本的に、特定の「目的。」に向かって行動が「整理。」されるように、行動結果に対するバイアスをかけることによって「学習。」させる。この形式というのは無意識的な学習であり、また、何にバイアスをかけるかを予め決めておかなかればならないという、環境依存性から脱することは、構造的にできない。

 何にバイアスをかけるか、それはイヌのシツケでいうところの「いつエサを与えるか。」に相当するものである。

 こうした無意識性学習機能しか持たない人工知能からは、知能爆発的な現象は期待できない。しかし、航空機の姿勢制御などへの応用性はあるので、研究する価値は充分にある。

 思考深度というのは、単なる行動収束とは異なるものである。例えば麻薬常習者が麻薬を求めるような行動とは全く異なる行動であり。試行錯誤を伴うような思考探索性によって導かれるものである。

 それを機械に行わせることが可能であるかどうかはわからない。

 ヒトであっても、特定の個体にしかできないようなものであるから、極めて特殊な個体の個性に関わるものなのかも知れない。そう考えると、突然変異的な淘汰と同じで、より多くの無駄な研究への没頭がなければ、天才的研究成果は出て来ないのかも知れない。

 ただ、少なくとも結果的に無駄なだけであって、自発的でなければならないのは同じことである。

 国立大学の共通一次試験をクリアする機械は、結構簡単に作れるだろう。しかし、誰も発想できなかったことに「気付く。」ような機械は現段階では存在しない。


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