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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「嘘」と「間違い」の相違点

2022年01月05日 15時54分18秒 | 意識論関連

養老孟司はこう述べたことがある

「私は30年も安月給で働いたんですよ そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられないでしょうが」と

養老は親の言いなりに医者になることを強要されたが 「臨床が怖い」からと言って解剖学を選んだ(逃げた)ものの あくまで消極的選択でしかなかったために 望んでもいない大学勤めを事後正当化(認知的不協和を解消)する形で「そこには意味があったんだ」ということにしておかなければ気分的に「やってられない」と述べているのである

 

好きなことをするには学びが必要だが それは決して「やらなくてはいけない」ものではなく むしろ主体的に好きなことを楽しむための学びというものは率先して「やりたい」と思うものであって 「義務教育」の主旨とは「子供が学びたいことを学べるようにしなくてはならない大人側の義務」なのである

ところが 養老孟司は「読み書きソロバン」だとか「個性は身体だから安心して同じを求めれば良い」などという支離滅裂で意味不明な教育方針を主張しており 全くもって子供の主体性を重要視しない発言を散々繰り返してきたのだが 対談相手が落合陽一というリベラル派だと急に発言内容が一転し 話を丸めて迎合するのである

養老というのは相手に合わせて発言内容が二転三転する無責任な日和見主義者であり 発言内容には何ら責任を負うつもりがないペテン師である

「私は教科書に墨を塗らされた」といった屁理屈も 要するに自分の奴隷根性を事後正当化するためのものであって それが正しいのかどうかの「考え」も判断も一切せずに漫然とその場限りに相手と話を丸めて善人ぶっているだけのペテン師である

「スルメ見て イカがわかるか」と問われて「悔しい」と言い出したのも 結局は自発的にスルメ(死体)を見ていたわけではないからこそ 他人から「イカ(生体)がわかるか」と言われて悔しがるのである

自発的にスルメ(死体解剖)を選んでいれば 別に「イカ(生体)のことがわかるか」と問われても「悔しい」という感情は出てこない

なぜ「悔しい」と思ったのかと言えば 他人との比較競争的「勝ち負け」において「負けた」感を感じたからに過ぎない

個人が主体的に没頭している内容であれば 別に他人との比較競争をする必要はなく 純粋に邁進しておけば良い話であり たとえ世間的評価が得られなくても「諦める」という選択肢は出てこない

他人との比較に惑わされるのは 本質的な主体性がないからであり 他人からの評価承認にしか価値を見いだせないからである

近年は主体性を重んじる教育が重要視されてきたため 養老は迎合同調する形でリベラル派の落合陽一の前では主体性を重要視する必要性を説くものの 実際には養老というのは「だって皆さん同じを求めるでしょ」などと称して「個性は身体だから安心して同じを求めれば良い」などという多数派同調を散々正当化していたのである

 

主体的に人生を楽しめる純粋行為を知らない者の場合 他人との比較による「勝ち負け」にしか人生の意味を見出すことができないため 世間的に成功できなければ自暴自棄になって方向性のない社会への報復に駆られ 逆に養老のように世間的に成功しても結局は「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」などという卑屈な感情論(実証不能の観念)を振り回して支離滅裂な無責任発言を繰り返すのである

衆愚はこれを「謙虚」だと勝手に勘違いしているが 通り魔の自暴自棄まで「謙虚」だと言うわけにはいかないのである

年柄年中嘘ばかりをついているから自己肯定感が薄くなるのであって 正直に誠実に真実を追求していれば「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」などという観念は他人に主張するべきものではない

結局は 自発的純粋行為に価値を見いだせない者は他人からの評価承認欲求中毒に陥る他なく 評価承認欲求中毒者というのは主体性がないため自律もなく 世間的に成功しようがしまいが自律的な社会的責任判断選択には興味を持たないのである

 

養老は大学教員時代にハワイの大学から昆虫の研究者として誘われたことがあったというが これを「世間が許さなかった」と称して諦めている

これもまた 「世間が悪い」という奴隷根性による社会に対する方向性のない怨恨であり 言っている内容は「自暴自棄な通り魔」とさしたる違いはない

養老の著作の内容のほとんどは 「世間」という多数に同調迎合してきた人生を正当化する形で服従忖度することを「学習」することを他人にも強要するための論理的根拠のない主観的観念を正当化する内容であって これが同じ様に主体性のない衆愚にとって気分的安心満足感を与えることで人気を得たに他ならない

 


 ◇

もしかすると落合陽一は年齢が若いから養老の支離滅裂な言説による衆愚迎合人気を集めた著作を読んだことがないのかも知れない

厄介なことに養老は退官後に大好きな昆虫の研究に没頭し始めており 主体的純粋行為「も」大切だとは認識はしているのだが 一貫した論理的「考え」があるわけではないので話の内容に論理整合性はなく あくまでその場限りに相手に合わせて話を丸めるだけの「積極的同調者」に徹しているのであって いくら衆愚人気があると言っても発言内容には何の論理的根拠も伴っておらず 発言内容に責任を負うつもりもない

だから「私は教科書に墨を塗らされた」などという理不尽な過去を正当化したがるのである

 

人間としての目的意識に基づけば 過去に不理不尽な扱いを受けた経験から 「次世代には理不尽な経験をさせたくない」という目的意識に基づいた行動選択をすべきであって

養老のような無責任なバカは自分が受けた理不尽な扱いを平気で他人にも「連鎖」して平気で嘘をつくのである

養老の世代には特異に偏見が激しい傾向が見られるという研究報告もある

太平洋戦争と終戦による激しい教育現場の混乱の中で育った養老世代には 特有の思考の混乱による認知的な障害のようなものがあるのかも知れない

だからといって相手に合わせて支離滅裂で無責任な「その場限りの同調迎合」が許されるわけではない

発言内容に論理整合性がないというのは どちらかで「嘘をついている」のである

それは一貫して「間違っている」のとは明らかに異なるものである

 

 

Ende;


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