○バグ。
自分の遺伝的形態は自分の意思では選択不可能なものである。
文系大衆観念的には、「オスはメスにモテようとして自らの形態を変化させている。」なんて言うんだけど、これは間違い。
メスの気分的なオスの外見形態による選別の結果、結果的にオスの形態が決定しているだけであって。オス自身の意識的選択によって形態が決定しているわけではないです。
そんでもって、メスによるオスの外見形態の好みに何か意味があるかと言うと、これが別に意味なんかないんですね。ヒトのメス(科学的言い回しなので悪意はないです。)がオスの外見的好み基準に選別した結果、DVに陥ったりするのも意味がありません。体臭による遺伝的異常の回避というのは生体にとっての意味はあるんでしょうけど、だからといって多数のメスから嫌われていたとしても人格自体の問題とは無関係なわけです。
メスによる気分的なオスの選別によって、遺伝的にどのような形態や本能が遺るのかは誰も保証はしてくれません。メスの個人的好みは神などの「誰か」の意識的な目的があって決定されているわけではありませんからね。
擬態などの外見上の形態変異についても、あくまで「より捕食を免れやすい。」形態に淘汰された結果であって、当人自身の意識的選択が介在する余地なんか全くないわけです。
鳥類における説明困難な形態変異についても、選択権のあるメスの形態は地味なのにも関わらず、選択されたオスだけが異常な装飾的形態を獲得してしまうのも、オス自身による意識的選択ではなく、メスの生理的好き嫌いによる選択の結果だからです。
生物の形態とか機能とか本能といったものは、あくまで偶発的な結果として生存していた結果でしかなく、結果的に生存してさえいれば「生物」なわけであって、生物自体には目的も意思も全く存在しないわけです。
予め組み込まれた本能も、意識的な統合的論理検証による選択が介在しなければ意思ではないのです。
生物学上では本能習性の「結果」に後から色々とこじつけをして科学的論証だと勘違いしているようですけど、断片的論証をどんなにたくさん集めて来ても科学的論証にはならないのです。
「生体によって好ましい。」とか「有利。」な本能習性をどんなに並べても、本能習性の全てが常に生体にとって好ましい結果しか導き出さないことの証明なんか全くないんですね。
そもそも「生体にとって。」というのは、個体においての結果でしかなくて、利己的行動によって環境との調和がとれなかったり、社会的に負担をかけてしまえば、種全体としての生存価には適さないわけです。
シエラレオネの少年ゲリラの狂暴性は、ゲリラ社会においては「生体にとって好ましい」行動であっても、社会全体から見れば全く持続可能性も安全性もないわけです。
イジメも全く同じで、学校内部における、子供だけの社会においてはイジメを行うとか無視するとか放置するのは「生体にとって好ましい」行動結果を導き出しても、実際には社会全体から見れば単なるカルト集団とかキチガイの集団でしかないわけです。
多数に迎合し、感情的な相手からの脅迫的強要に丸め込まれてしまうというのは、本能習性の奴隷であり全く個人の主体的目的意識が働いていないわけです。
「生体にとって好ましい」などという行動習性は、その場限りの利己的行動を指しているだけであって、何ら種全体における環境調和とは無関係な話なわけです。
何度も言ってますけど、「生体にとって好ましい」結果が常に選択されるように報酬系が決定されている保証なんかありませんから。本能習性が促す気分的快楽安心の結果に論理的保証なんか一切ないんです。
自然界における現在の生物相環境調和性というものは、何十億年もの試行錯誤の結果であって、誰かの目的意図によって調和しているのではなくて、環境調和が出来ない種が自然淘汰された結果に過ぎないのです。
どれがどんなに巧妙高度で「好ましい。」ことの断片的論証を積み重ねても、本能が促す行動の全てが常に「好ましい」結果を導き出す保証はないのです。
生物学者達は大抵都合の良い話だけを抽出し、都合の悪い話は「進化の袋小路」だとか「特定環境下における暴走」だと言い張って無視し、「なかったこと。」にしようとします。これは科学的な論理的検証がしたいのではなく、気分的バイアスを満足させるための屁理屈でしかないのです。
「ヒトという種の生物の優位性。」が論証できれば、あたかも自己自身の無意識性や気分的行動バイアスが正当化できるものであるという勝手な解釈が出来るものであると「思って。」いるわけですね。
つまり、本能が促す行動バイアスを正当化したいというバイアスによって、自己励起的な思考の「堂々巡り」に陥っているわけです。
パソコンとかに時折発生する「フリーズ」というのは、実は内部処理的には一つの処理ルーティン内部で「堂々巡り」に陥ることによって、外見上インターフェイスが効かなくなる現象を指します。(この話は生物学者には通じないでしょうね、分子生物学者もプログラミングは電子工学系にお任せな奴が多いらしいですし。)
思考が停止するというのは、予め組み込まれたプログラム(本能)のバグによって、特定のルーティン(固定観念/マインドセット)に処理(思考)を奪われ、新しい入力(認識)を受け付けなくなる現象だと言えるのです。
生物系学者とかオウム信者というのは、パソコンで言うところのフリーズ状態に陥っているために、自発的には論理検証が全く出来なくなっているわけです。そもそも生物学系に進む学者のほとんど全員は、理工系の論理思考が出来ないような科学者としてはポンコツな奴の逃げ道でしかありません。
一般に言う「フリーズ」状態というのは、電子工学的には「暴走」と言います。外部からの制御が全く効かなくなってしまって、無意味な処理を電源を落とすまで永遠に繰り返している状態を指すのです。
本能に結果的に組み込まれてしまったバグは、誰の責任でしょうか。
誰かが責任をとってくれるんでしょうか。
あなたの脳に組み込まれた本能が促す行動バイアスの結果というのは、あなた以外に誰が責任を取ると言うのでしょうか。
気分的に「ムシャクシャしたから。」などという本能的行動バイアスによって無差別殺人を犯したヒトの行動は、誰が責任をとってくれるのでしょうか。
また、無差別殺人犯を死刑にするだけで、個人の自律判断がなぜ喪失したのかを論理的に検証せず再発防止策を全く採らない責任は誰がとってくれるのでしょうか。
ヒトというのは初期的には全て「子供」ですから、親大人権威というものに対しては無意識的条件反射で服従してしまいがちです。その結果、誰も自発的には責任を取ろうとしない無責任社会が出来上がるわけです。
無意識的条件反射行動というのは、時に意識機能を妨害することがあります。
色の名称の文字を、その名称とは無関係な色で表したフリップを用意し。色だけを答えてもらう実験というのがあります。ところが文字というのは反射的に「読んで」しまうように刷り込まれてしまっているために、どうしてもうっかり文字の方を「読んで」しまい、文字の色とは異なる答えをしてしまいがちな傾向があります。
特に速度を要求されると間違い易い傾向があり、ゆっくり時間をかけて読めばほとんど間違いはなくなります。
速度を要求されると無意識的条件反射が優先してしまい、意識的に深く検証することが出来なくなってしまうわけです。
生物学者達には時間ならタップリと用意されているにも関わらず、無意識的に刷り込まれてしまった固定観念/マインドセットに意識を奪われてしまうことによって、論理検証が働かないというのは、要するに自発的な真理への探究心が全く働いておらず、教えられたことを鵜呑みにする以外全く出来ないからです。
科学的論理検証による真理の探究がしたくて生物学者になったのではなく、単に多数他人や権威からの評価報酬だけが目的のヒトにとっては、真理なんぞどうでも良くて、目先の気分的安心だけが優先されてしまうのです。
東大大学院情報学環教授の佐倉統は、「学会内部で大勢を占めていない。」などという多数決を科学的論証だと勘違いしているバカですから、生物学の権威なんぞ全くクソの役にも立たないデクノボウの集まりでしかありません。
自発的に真理を探求する意思がないということは、自律的にも社会的責任を負うつもりもないということであって、ヒトという種の生物が持つ危険性をも無視し、意識から外し、生物学組織にとって都合の良い大衆迎合しかしないのは当人達に本質的な自発性が欠落している結果なのです。
「ヒトという種の生物が、なぜ自分の自律的な社会的責任を放棄するのか。」すなはち、「ヒトはなぜ人間としての行動判断を取ろうとしなくなるのか。」についての研究考察なしに、「ヒトが人間たりうる所以。」を論証することは原理的に不可能です。
ところが生物学者達はヒトという種の危険性を取り扱うことを拒絶します。それは世間的にウケが悪いからであって、大衆世間の評価だけが目的で生物学をやっているための結果です。
大衆世間的には、「ヒトという種の生物は、こんなに素晴らしいものですよ。」的な断片的論証をしておけば簡単に科学的証明であると勘違いし、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の危険性から意識を外し、無視し、「なかったこと。」にすることで安心満足するだけであって、こうした安心満足によって誰も論理検証もしなくなるわけです。
誰も統合的論理検証をしない集団というのは、洗脳集団です。何も考えず、何も疑わず、権威とか多数が促す論理的根拠のない観念を鵜呑みにして安心満足していれば、これは誰にも暴走を止めることはできず、破綻に陥るまで放置されるのです。
東大学長が新入生へのスピーチとして「全てを疑え。」と述べたのは、学術的権威としての社会的役割とは、無意識的で無検証な暴走に陥らないように大衆を導く責務があるからです。
それを生物学や脳科学は放棄しているわけです。
脳科学者にとって、原発が暴走しようとも、イジメが狂暴化しようとも、誰が犠牲になろうと「どうでも良い。」と思っているわけです。そんな大衆ウケの悪い話よか、アハ体験とか脳トレーニングとかを大衆にやらせて、「頭が良くなりますよ。」とか「これをやっておかないと認知症になりますよ。」的な洗脳をしておいた方が金になるので、社会全体における脳科学の役割を放棄しているわけです。
そもそも、生物学上における「結果」と、意識的選択による「目的」の区別がついていない時点で科学者としてはポンコツ以外の何物でもないのです。
ですから、「皆さんの知らないところでは研究しています。」なんていうのは、実は大嘘なんですね。根本的間違いすら訂正出来ないバカの集団ですから、「ヒトという種の生物が持つ危険性。」なんて全く研究していないんです。
それでも大衆マスコミ上では、論理的根拠のない「生存戦略。」なんていう観念が鵜呑みにされていますから、完全に甘やかされていて誰も自律的には自己検証なんぞしないわけです。
生存価だけを論ずれば、ヒトという種の生物である必要性なんかありませんから、「人類は絶滅する。」なんていう勝手な決め付けをしておいても許される集団なんです。現在の生物学っていうのはね。
「情にほだされる」というのは、言い換えれば「情に流されている」だけであって、単なる「甘やかし」に過ぎません。逆に感情的な懲罰を与えるのも感情による行動バイアスに過ぎないのです。
「情に流されること=人間味」だなどと言うのは、どう考えても文系大衆観念に過ぎず、何ら論理的根拠はないのです。
ヒト特有の傾向性をどんなに多数で共有しても、「ヒトが人間たりうる論証」に何かなりません。
重要なのは、間違いを犯した時に、「なぜ間違いに陥ったのか。」を論理的に検証し、根本的原因を究明し、再発防止のための対策に活かし、人類全体で「教訓」という知的共有財産として遺し伝えることです。
分数の割り算だとか、偏差値が他国と比較してどうだとか、そんなことよか「自律的にイジメが止められる。」子供を育てることの方が先決です。そのためには統合的な論理検証をさせるよう指導することが必要であって、悪者探しをすることではありません。警察が介入すると悪者探しにしかならず、全く再発防止にはならなくなることが懸念されます。
教育者達は自分達の評価報酬という利己的欲望が優先しており、子供にとって最も大切な優先順位が崩壊しているのです。だからイジメが放置されるのです。
社会制度や法律を守ること、集団規範に迎合服従することばかりに意識を奪われ、自律的な社会的責任判断を全く行わないのですから、イジメが放置されるのは必然的結果です。
文系大衆観念によって統合的な論理検証を放棄していることは、人間として「あってはならないこと。」であり論理的には許されることではないのです。多数で統合的論理検証を放棄しておけば気分的には安心満足出来るでしょう、その思考停止こそがヒトの本能に結果的に組み込まれている「バグ(欠陥)」なのです。
幼少期の偏差値では、その子供が将来どのような結果をもたらすのかを予測することは出来ません。無差別殺人犯の多くは子供時代の偏差値が高い傾向があり、これは学力成績という抽象化された「エサ」に対する短絡的反射の結果である可能性は非常に高いのです。「エサ」というのは本能という報酬系の反射であって、気分的な快楽の追求でしかありません。
しかし、自発的な純粋行為というのは環境に左右されることなく、他人から与えられる「エサ」がなくても自律的に持続可能な快楽です。
自己内部における精神的持続可能性なくして、社会全体の持続可能性なんぞ求めるようには原理的にならないのです。
本当に純粋行為に価値を持つ人というのは、多数他人からの評価報酬がなくても自律的に社会責任判断を行うことが出来るようになります。
逆にいえば多数他人からの評価報酬さえあれば持続可能性がなくても構わないと思っているからこそ自爆攻撃だの特攻といった自暴自棄な行為が行われることになるのです。
当人的には「お国のため。」だとか「社会貢献」だとか「人類の救済。」だと勝手に思い込んでいるのでしょうけど、そんなSQ的な評価の高さというのは目先の多数迎合という気分的安心を追求しているだけの、身勝手な思い込みに過ぎないのです。
無差別殺人であっても、当人的には「世の中を変えてやる。」という社会貢献のつもりかも知れません。自分の頭の悪さを棚上げにして、「多数他人が全て悪いんだ。」と思っているからこそ無差別殺人も正当化できるのでしょう。
東電社員達も、幹部達が悪いから原発が暴走したんだと「思って。」いるんでしょうね。
それは暴力で物事を解決したがるバカガキ達が言い出す「大人が悪い、世間社会が悪い」だの「マトモに向き合ってくれる大人がいない。」といった屁理屈と全く同じ、子供じみた言い訳に過ぎないのです。
自分では自分の行動が抑制できないから、誰か他人から抑制してもらおうとするために、抑圧統制してくれる誰か他人への依存心、依頼心だけに思考が整理狭窄化されているため、自律的には自分自身を抑制することが出来なくなっているのです。
自分で自分の行動に責任を負わずに、社会の持続可能性を確保するためには、特定の「誰か。」に全ての行動責任を丸投げしておけば済むと思っているのでしょう。だからヤクザ暴力団というのは恐怖を感じる相手に服従し、統率的協調行動を採ることが出来るのです。
どんなに命懸けで鉄砲玉になろうと、命懸けで毒ガステロを実行しようとも、これらは身体的には辛くても、精神的な怠慢に過ぎないのです。
養老孟司は「安心して心を一つに。」などと思考停止を促します。それが文系大衆観念的には快楽で安心で満足な精神的怠慢を促すため、養老とかオウム教団とかのカルトは人気があるのです。
養老を東大名誉教授にした責任を誰が取るんでしょうね。多分うやむやにしてごまかすだけなんでしょうね。
Ende;