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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

言語機能。

2012年08月12日 18時32分39秒 | 意識論関連

○言語機能。

 「言語は人間を人間たらしめている知能である。」というのは嘘である。

 シエラレオネの少年ゲリラであっても、ナチスの絶滅収容所の吏官であっても、無差別殺人犯であっても「正常に」話すことの出来るのが言語であり。言語は「ヒトという種において特有の能力」ではあっても「人間としての知能」の論証にはならない。

 「ヒト=人間」という短絡的決め付けに基づいているから、こうした根本的な間違いに誰も気付かないのである。

 言語は無意識機能であって、言語自体が論理的思考を促すわけではない。言語を用いた振り込め詐欺が被害者の脳に論理的思考を促すわけではないからだ。

 むしろ詐欺による意識誘導によって、論理的思考を阻害され、感情的恐怖や、恐怖に対する安心感を享受させるような行動へと「整理」させているのである。

 普通のヒトが普通に交わす会話において、論理検証を伴う科学的思考が行われることは極めて稀であり、大抵の場合は文系大衆観念的な気分的満足安心を相手を共有するだけである。

 理論的に間違った説を鵜呑みにする場合、言語機能自体に特に異常は見られない。平均的なヒトが平均的に獲得出来る言語機能というのは、大抵の場合固定観念的なマインドセットを鵜呑みにするだけで、自律的、意識的な論理検証判断が伴うわけではない。

 ヒトが人間たりうる所以とは、統合的な論理検証による自律的な社会的責任判断能力のことである。

 どんなに言葉巧みに相手を丸め込むことが出来るとしても、全く「人間」である論証にはならない。

 短絡的に言葉で丸め込む文系大衆観念的な解釈というのは、断片的で気分的安心満足が優先されるだけであって、何ら論理的思考を促さない。

 「考えさせられる。」などと言っている者の大半は、実際には何ら論理検証も何も行わずに、ただ悩ましい問題に対して「複雑な気分になった」だけであり。何ら具体的「考え」など一切成立していない。

 ヒトの多くは言語を用いた説明に対し、その論理的検証を一切働かせることなく、何となくの雰囲気的にニーチェだの養老などの支離滅裂な話を自分の気分にとって都合の良いように勝手な解釈をして満足するだけである。

 占いの類を自分にとって都合の良いように勝手に解釈するように、論理的な話であっても論理的理解をしている者は極めて稀である。

 ゲリラやヤクザが集団内部で話を丸めて気分的満足を得る時に、言語を用いることは容易に想像出来るであろう。カルト宗教の教祖の説法も言語である。東電内部での「教育」もまた言語を用いて行ったのである。その言語によって一体どのような論理的思考が促されたと言えるであろうか。否、全く論理的思考は働いておらず、むしろ身勝手な観念的解釈によって論理検証性は放棄されているのである。






○「言語は最も複雑。」であることの論証はない。

 「最も複雑。」なのは本能報酬系が促す行動の結果である。野生動物やヒトのキチガイが何をしでかすのかは誰にも予測がつかず、カオスであり、予測が極めて困難な複雑系なのである。



 ブローカ野の損傷で発話の障害が生じるが、発話言語機能の喪失が短絡的に人間性の喪失にはならないことからも、「言語=人間性」という方程式は根本的に間違いなのである。

 言語機能が正常な無差別殺人犯もいれば、言語障害があっても社会的責任判断が可能な人もいる以上、「言語=人間としての知能」の論証には全くならない。

 半側空間無視は右半球損傷で生じる 空間認識能力というのは高い次元での演算が必要だが、言語は基本一次元である。おいらは立体造形とかやることもあるので、どちらかというと右脳半球が優位なようで、物事を考える時にも同時に多次元的に思考が及ぶため、これを一次元メディアの文章で表すのが苦手でもある。説明が下手で理解が困難だと言うのであれば、どこがどのようにわからないのかを質問してくれば良い話であるが、生物学や脳科学者達は頭から無視することしか考えておらず、

 語用論的機能 抑揚やユーモア機能というのは右脳が司るらしいが、これも左脳の機械的条件反射性の左証であろう。おいらのユーモアセンスに共感性があるかどうかは別だが。

 脳神経科学における「意味」とは、動物的な報酬行動バイアスに依存した「意味」しか論じていない。それ以上の論理的意味については全く議論されておらず、バカげている。「名詞が何を指し示しているのか。」は「意味」ではなく、単なる認識識別区別分類結果を論じているだけであり。「名詞が何を指し示しているのか。」自体に意味などない。

 リンゴをリンゴと認識区別するだけならサルでも出来る。それを「意味」だと言い張るのは到底科学的論証とは言うことが出来ない。食べ物をそれと認識区別することを「意味」であると言い張るのは、現在の生物学上における生存価だけが絶対的価値として扱うからであって。これを「意味」であると言い張るのであれば、ゲリラが敵味方を認識区別することであっても「意味」であると言っているのと同義である。それはイジメを行う子供が、イジメる対象か、そうでないかを認識差別することも「意味」になってしまうのである。

 身勝手な観念的区別認識のことを「意味」であると言うのであれば、生存に適しさえすれば残虐行為も正当化されることになるのである。そんなものを「意味」だと言い張るのは頭が壊れているからであろう。

 区別には差別も含まれる。区別分類というのは、それによって気分的安心を得るためのものであって、「これはAである。」などと定義することによって、思考を整理するための本能的なものである。

 イジメる対象を「こいつはイジメるべき相手だ。」と分類認識することには論理的根拠はない。単なる個人的な観念による決め付けであり。区別分類というものはそれによって気分的安心や行動「整理」を促すものであって、論理検証という「考え」を放棄させるものでもある。

 脳とは思考を「整理」することで短絡的な行動に安心して邁進することが出来るのである。

 それに対して、本質的意識、論理検証性というものは「整理」されていない「思考」そのものであり。分類そのものを検証するものである。

 思考とは分類区別「された」ものを指すのではなく、分類区別を検証し、分類区別自体を「する」ための思考である。思考なくして意識ではなく、人間でもない。

 何も考えずに身勝手な観念的分類によって排除差別を行っていては人間とは言えないからである。

 何も検証せずに組織の利益を優先し原発を暴走させることも人間としては出来損ないである。

 何も考えずに悪者に罰を与えて再発防止を放棄することも、人間とは言えないのである。それは単なる生物種としての「ヒト」でしかないのである。

 分類に論理的根拠はない。これは認知神経科学的にも既知の事実である。

 イジメを行う子供であっても、シエラレオネの少年ゲリラであっても、論理的根拠のない分類は可能である。その程度の分類であればバカでもサルでも可能な動物的能力でしかなく、こうした分類自体に「意味」など存在しないのである。

 生体にとっての「意味」などというのは、事後的に生物学が勝手な観念「生存=絶対的価値」によってこじつけ、でっちあげただけであり、論理的根拠を持った「意味」でも何でもないのである。

 論理的根拠のない「意味」とは一体どういうことであろうか、全くキチガイの考えることは支離滅裂で訳がわからない。



 「研究段階」だとか「これからの研究テーマ」などという言い逃れには合理的根拠がなく、根本的な間違いは直ちに訂正すべきものであり、訂正をしないというのははぐらかそうとしているからである。

 根本的間違いを認めてしまうと権威体制が維持出来なくなるため、利己的動機によってはぐらかそうとしているのである。それ以外にはぐらかす理由はない。



Ende;

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