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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

超越。

2013年08月29日 16時04分08秒 | 意識論関連
○phenotypic accommodation genetic accommodation。

 如何なる生物の「表現型」が出現しようとも、潜在的に先天的可能性が伴わない限り出現不可能である。

 生物の「表現型」というのは、遺伝要因と環境要因によって決定するものであって、「通常の環境」で発現しない「珍しい」表現型であるからといって、遺伝要素を超越して自分自身で自分の形態能力を変化させたことには全くならない。

 潜在的な「表現型」というものは、あらゆる環境状況下においてみなければ現状では誰もわからないものであり。未知の「表現型」が多数存在するとしても何ら不思議ではない。また、多数の潜在的「表現型」という能力の余裕を持っていることによって、結果的に進化変化の可能性を持ちうるのであり、「通常の環境」でしか見られない「表現型」だけが遺伝的に決定しているとは限らない。

 「通常の環境」では見られない「珍しい」表現型を発現したとしても、それが先天的遺伝要因を超越して個体自身の意識的選択によって発現させたものであるなどという話は。オカルト超能力に過ぎない。

 「表現」可能な範囲というものは、自ら選択不可能なものであり、先天的に選択可能な範囲内でしか選択することは出来ないものであって、先天的に可能な範囲そのものを逸脱して「表現型」を獲得することは出来ない。

 個体が先天的な可塑性自体を選択することは構造原理的に不可能なのであり、たとえ可塑性が自然選択による淘汰によって固定されることがあるとしても、淘汰という偶発性による選択を介している以上、もはや個体の意図目的選択が介在する余地は一切ない。

 たとえ進化変化が促進されたからといって、進化変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適する保証はなく。どこにも意図意識的選択の余地などない。




 前足を失ったヤギが二本脚で立ち上がることを、あたかも「先天的能力を超越した進化だ。」と言い張るのはキチガイ生物学者のオカルト話である。

 ヤギが二本脚で立ち上がることは、多数抽出的には「珍しい」ことではあろうが。これは潜在的に獲得可能性を持っていたからこその結果であり、ヤギが先天的に二本脚では絶対に立ち上がることが出来ないことの証明がある訳もなく、あくまで先天的に潜在していた能力である。

 どんなにたくさんの「二本脚では立ち上がらない。」事例を抽出枚挙しても、先天的に二本脚では立ち上がることが絶対に不可能であることの論証にはならない。カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン。」の例え話と同じで、どんなに「二本脚で立ち上がらないヤギをたくさん集めて来ても、ヤギは先天的に絶対に立ち上がらない。」ことの証明にはならないのである。

 後天的学習などで潜在的能力を発揮する可能性を多数持っていたとしても、用がなければ発揮する必要性もなく、潜在能力のままである。

 生物は潜在的に獲得可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、必要に応じて必要な能力を獲得する以上は無駄であり。潜在的にどのような能力をどの程度獲得するのかは、状況や環境の条件によって異なるのは当たり前である。

 通常4本脚で生活する生物が、後ろ脚だけで立ち上がることは実際にはそんなに珍しいことではなく、最近YouTubeでは猫が立ち上がる動画は大量に掲載されており、猫以外でも様々な4足歩行動物による立ち上がり事例というのは観測されている。

 特定個体が他の多数の個体が発揮しない「珍しい」能力を獲得したとしても、それが先天的遺伝要素自体を能動的に変化させることにはならず、結局は環境依存的に淘汰されることでしか進化変化は生じず、決して能動的変化を意識的に選択したことにはならない。

 潜在的に珍しい能力を獲得したからといって、それが短絡的に「個体の意思的選択」によるものであるとは言えない。

 「行動進化」などという言葉も作り出されているが、遺伝的要素に影響がない以上、遺伝的には進化しておらず、生物「種」としての進化にはなっておらず、偶発的必然結果でこそあれ、その偶発性に当人の意図選択が介在する余地はなく、あくまで環境依存的結果論の一部に過ぎない。それはすなはち、環境依存的な自然淘汰の一部に過ぎないのである。

 phenotypic accommodationというのは先天的能力の淘汰過程の一形態に過ぎず、何ら個体の意図的進化選択の論証には全くならない。

 如何なる進化変化も、結果的に自然淘汰を介している以上、そこには個体の意図意識的選択が介在する余地はない。

 ヤギの欲望であれ、ヒトの欲望であれ、先天的に決定している大脳辺縁系が促す行動バイアス自体には、社会持続可能性や安全性の保証など全くないのである。ヒトの大脳辺縁系というのは神が創り賜うた絶対優位性など存在せず、単に祖先のサルから受け継いだだけの本能習性という「結果」以上の意味は存在しない。




 たとえば、チーターがどんなに速く走ったとしても、それは先天的に獲得可能であったからこその結果であって、所詮は先天的獲得可能性の上での淘汰の結果であり、どんなに外見上「突出」した能力であっても先天的獲得可能性の範囲から逸脱することにはならない。外見上の「突出」性に意識を奪われ、論理的根拠を無視した観念に囚われておいて、科学もすったくれもあったものではない。

 そもそも先天的であれ遺伝要素の変異のほとんどは生存に適さず、どんなに後天的に「珍しい」能力を獲得しても能動的に自己の遺伝要素を選択することには構造原理的にはならず。「生存戦略」などという観念の正当化にもならない。

 phenotypic accommodationによる遺伝要素を超越した進化仮説というのは従来の生物学上の「生存戦略」という観念を温存し、従来の生物学の体制を維持するための言い逃れや思考撹乱に過ぎない。本来構造原理的に解りきっている話を「わからない。」と言い張るのは、単に論理検証が出来ないただのバカである。

 どんなに進化生物学者達の間で盛んに取り沙汰されても、論理的根拠がない以上科学的論証には全くならず。所謂「ハーメルンの笛吹。」につられているバカ生物学者達による大衆観念的「バカ騒ぎ」に過ぎない。




 振り込め詐欺師が、どんなに突出した詐欺能力を後天的に獲得したとしても。これをヒトという種の生物の「進化」として短絡的に解釈するのは、あまりに断片的論証に過ぎず、ヒトという種の行動進化としても認めるわけにはいかない。なぜなら行動変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適するわけではなく、たとえ偶発的に適したとしても偶発性に依存している点において意図意識的選択が介在していないからである。

 後天的にどんなに特殊で珍しく突出した能力を獲得したとしても、その能力の全てが種の保存や生存に絶対的に適することの論証にはならず。あくまでその場限りの個体生存価の論証くらいにしかならない。

 個体生存価だけを断片的に取り上げている限り、種全体の環境調和性を無視した論証に過ぎず、本質的には「生存価」にすら適することの証明にもなっていないのである。

 食物連鎖の頂点に属する生物の多くが無駄な繁殖力を持たないのも、無駄に繁殖すれば環境との調和が取れずに結果的に淘汰された結果である。断片的に「特定能力さえ高ければ生物として高等だ。」などと言い張るのは、あまりにバカげた大衆観念であり、科学的論証をパスした、科学としての社会的役割や責任を放棄した「バカの論証」である。

 それとも進化生物学者達は自分自身の遺伝要素を素手で自由に変化させられるとでも言うのであろうか。そんなオカルトを鵜呑みにしている時点で、もはや科学の領域を激しく逸脱している。

 自分の遺伝要素は誰も自分では選択不可能なものであり、自然選択の「結果」以上の何物でもない。




 生物学上の進化というものは、あくまで変化の結果論以上の意味を持たず。どんなに観念的で断片的な論証を繰り返しても、意識的目的選択性を抽出することは構造原理的に不可能なのであり。「生存戦略」という観念の正当化は研究費の浪費という迷惑行為の温存にしか供さない。

 こんな話は本来生物学者自身が自律的に検証すべきことであって、自律的に何も検証しないからこそ不毛な無駄遣いがなくならないのであり、結果的であれ体制腐敗を招いているのである。

 体制腐敗や洗脳といったものは、無意識の産物であり。論理検証性の欠落に起因するものである。当人達が「自分達は腐敗なぞしていない。」とどんなに強く主張したとしても、そんなものは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」と言い張っているのと同じである。

 科学とは、本来論理検証性によって論理的根拠のない観念からの脱構築性を持っているからこその存在価値であり。論理的検証性を持たない現在の生物学には社会的な存在価値が全くないのである。




 どんなにチンパンジーに珍しい芸をさせたとしても、東電社員達が原発の危険性を放置した原因の解明には全くつながらないのは明白である。その場限りにのらりくらりと言い逃れを繰り返す現在の進化生物学というのは、自分達の体制維持だけを目的とした詐欺行為の温存に他ならない。

 むしろ、現在の進化生物学界のこうした論理検証性の欠落による組織腐敗性こそが、東電原発の危険性放置の原因と同根であると言える。

 「意識=気分感情の強度」という文科系大衆観念的錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、本質的意識である「統合的な論理検証性」を喪失するのである。

 理性とは、純粋には人畜無害のただの論理性に過ぎない。論理性は何も「欲求」することはなく、なにがしか「欲求」するのは本能感情である。一個のヒトの中には様々な価値観や感情があり、大脳辺縁系はその感情の強度だけで行動が決定するように出来ている。人間性とは、先天的に組み込まれた本能的行動バイアスである感情強度に流されることなく、論理検証的に最も大切であると選択した価値観に基づいて行動することである。

 人格とは、性格だの外見的キャラクターを指すのではなく、自律的に社会的責任判断を行うかどうかを指すのである。先天的、或は環境依存的な行動バイアスとしての性格自体は、人格そのものを証明しない。

 どんなに外見上冷静そうに見えようが、品行方正そうに見えようが、「見える。」などという観念には意味がない。なぜなら文科系大衆観念に基づいたアプリオリな錯覚に過ぎない場合がほとんどだからである。特に権威性に対してはヒトの多くは権威性バイアスがかかり、アイヒマン実験などに簡単に引っ掛かる習性がある。故の振り込め詐欺でもある。

 プラトンだのニーチェが論理的根拠がない不毛な文科系大衆観念に過ぎないことを一切論じない現在の学術「哲学者」というのは、実際には気分感情を満足させるだけで何も「考え」検証することをしない大衆迎合的ペテン師集団に過ぎない。生物学上の「社会性」には人間としての自律的な社会的責任判断が伴わないことや、司法刑罰というものには犯罪の根源的原因究明性が欠如していることにも全く言及していないのが現在の哲学界の実態である。当然生物学が実証不能の観念を振り回していようとも、何の検証も批判もしない。危険工学的にヒトの危険性というものにも全く言及せず、論理的根拠のない観念を組織内部の多数で共有して安心満足しているだけのオカルト集団に過ぎないことを、同じ文科系マスコミは一切指摘することも出来ない。

 「髪の毛を染めたから、ヒトも変態する。」的な全く不毛な観念で大衆の脳を撹乱させておいて、哲学としての社会的役割を果たせる訳がない。何が本当の哲学なのかを論理的に検証しないことには、哲学としての社会的役割は失われたままであり、当然社会安全性や持続可能性といった議論に対しても撹乱するだけで一向に進展を促さない。

 社会安全性や持続可能性についての議論を撹乱しておいて、何ら有効な意見を持たない現在の哲学界というものは。体制維持のためだけの組織腐敗による税金の無駄遣いのみならず、社会にとって最も重要な議論を撹乱する犯罪行為でもある。

 理工学系の研究者の多くは、哲学や生物学の非論理性に呆れて何も言及したがらないが。「呆れる。」という気分感情で無責任性を放置することもまた、無責任に加担しているのと同罪である。



Ende;

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