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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

未失の故意。(訂正:「未必」だった)

2013年08月29日 16時05分35秒 | 意識論関連

○行動バイアスと意思。

 先天的本能欲望に基づいた行動バイアスを、意識的行動選択として扱うべきではない。

 先天的本能欲望が促す行動バイアスは、数億年の生物進化の結果としては、概ね個体の生存や種の保存に適した洗練はされているものの。その行動バイアスがもたらす結果の全てが論理的に絶対に常に個体の生存や種の保存に適する論証はなく。生命史の中で度々起こっている大絶滅からも、先天的本能欲望が促す行動バイアスというものには何の保証もされていないのである。

 「目的」選択としての意識とは、あくまでヒトが可能な範囲において論理検証した上での統合的判断であって。大抵の場合、可能でありながらも本能気分的に「やりたくない。」ために、ヒトの多くは本質的意識を持ち得ない。

 ヒトという種の生物の脳は、自律的に論理検証を追求するようには出来ておらず。大抵は目先の欲望気分でしか行動が決定することはなく、むしろ先天的には論理検証性が阻害されるようにしか出来ていないのである。

 先天的に論理検証を嫌う習性が多くのヒトには存在するからといって、後天的にも論理検証性を拒絶しないようには絶対に出来ないことの証明も存在しないのである。

 本能欲望でしか行動が決定しないというのは、本質的な個人の主体的意志選択による「考え」が働いていないからであり。どんなに学力学歴が高くても自律的に社会的責任判断を行わないヒトが多いのは、個人の本質的主体性を無視しているからである。

 入試学力ビジネスにとっては、生徒の学力成績や大学合格率は組織の利益と直結しており、生徒個人の本質的主体性に基づく自律的な社会的責任判断力の有無などどうでも良いのである。それが社会的に無責任であることを、多くのヒトは認識していない。

 簡潔に言えば、「組織の利益にさえなれば、社会安全性など知ったことではない。」という意味である。

 これは東電の原発危険性放置の構造と全く同じである。

 現在の進化生物学が、「先天的本能欲望気分による行動バイアス」と「本質的な意識的選択としての意志」を混同することも。自分達の組織体制を維持することで既得権益を守ろうとしているだけであり、構造的には全く同じものである。

 ヒトですら自己の行動バイアスから逃れられずに同じような「人災」を繰り返しているにも関わらず、ヒト以外の生物の先天的本能による行動バイアスを、どうして「意思」であると言えるのであろう。

 最も根源的な「意思」や「意識」といったものの定義を間違えたまま、生物進化における意識的目的選択についての論証を繰り返しても、論理検証思考を撹乱することはあれ、有効な真理を抽出することには全く至らず、極めて不毛で無責任であると言える。

 その場限りの「やる気」を環境依存的にそそのかしておいて。あたかも生徒の自主性を引き出したかのように錯覚するのも、社会的無責任であることに違いはない。







 のべつまくなしその場限りの気分本能によって行動変化を繰り返した結果、それが自然淘汰によって洗練されたとしても。あくまで自然淘汰によって洗練される「結果」であって、行動変化自体には個体の主体的「目的」行動選択は全く介在しないばかりでなく、その洗練の「結果」についても、何の安全性や持続可能の保証も存在しないのである。

 自然淘汰という「結果」に依らず、個人が主体的に目的行動選択を行うことで「意志」や「意識」と定義可能なのであって。その場限りの行動変化や特定能力の獲得というのは個体の意識的目的行動選択であるとは言えないのである。







Ende;


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