○サル回し。
チンパンジーの瞬間記憶能力というのは、エサを用いて脳の報酬系が促す条件反射による動物的な行動学習である。
文系大衆観念的には記憶容量や計算速度といった断片的能力の向上こそが知能であるとされているが、これは大衆観念に基づく錯覚に過ぎない。
偏差値が高い無差別殺人犯というのは、チンパンジーが充分なエサを獲得できなくなった時に暴れる、脳内麻薬の禁断症状である。
エサを用いた脳の報酬系によって促される行動というのは、気分的な行動バイアスを用いた意識誘導である。そのため本質的な自発性や主体的判断は失われ、自律的な社会的責任判断は出来なくなってしまうのである。
クボタ式「サル回し」学習や、それに類する学習手法というのは、物質的なエサは提供していないが、抽象的な偏った価値観を植え付け子供の意識を誘導することによって強引に特定能力を獲得させる手法であって、特定能力をどんなに獲得させても、これは人為的サウ゛ァンを作り出しているようなものであって、天性の才能とは言えない。
サウ゛ァン症候群の場合は当人の自発性があるので、環境他人から与えられるエサの禁断症状は出ないが。環境依存的に獲得させるクボタ式「サル回し」の場合は、いわば偏差値の高い無差別殺人犯の大量生産を促しているのと同じである。
しかし、脳科学者達は自分達が脳トレだのアハ体験だのといった断片的能力獲得を「頭が良くなる。」と言い張っていたことを事後正当化しているために、クボタ式「サル回し」を否定する訳にはいかなくなっており、その危険性を隠蔽黙殺しているのである。脳トレ類にはゲーム会社などのスポンサーの利益が介在するために、民放各社も情報隠蔽に加担しており、悪質である。
大衆観念的には子供が大人のように振る舞っておけば気分的に安心で満足であろうが、クボタ式「サル回し」によって促される行動というのは、極めて表面的で主体性ある自発的行動の結果ではない。
オウム教団によるマインドコントロールによって、教団にとって都合の良い、統率的で無批判な信者を作り出すことは非常に簡単なことである。クボタ式「サル回し」というのは子供のマインドコントロールによって表面的に「大人のご機嫌が良くなる行動」を強迫観念的に刷り込み学習しているだけであって、子供同士で自然発生する本能的イジメ行動を止めるような自律的判断能力を喪失させる極めて危険なものなのである。
バカな親なら表面的にご機嫌取りをしてもらえば簡単に「頭が良くなった。」と錯覚するであろうが、これはイヌがシツケ訓練によって扱い易いイヌになり、自分の気分が良くなったことを短絡的に「頭が良い。」と錯覚しているのと同じである。
ヒトの多くは脳の報酬系が満足し、自分の気分が良くなりさえすれば、相手の頭が良いものであると錯覚する性質があり。それゆえヒトにとって気分が良くなるようにシツケがされたイヌであっても「賢い」と形容するのである。
イヌは所詮イヌである、原発を暴走させた東電社員というのは、権威に対して従順さを発揮するだけで、自律的な社会的責任判断が喪失していたための結果であり。大衆観念的な規範意識という感情を用いた行動バイアスによる無意識的集団迎合性を「社会性」であると勝手に錯覚しているための結果でもある。
規範意識という大人から強制された抑圧のはけぐちとして、子供集団内部でのイジメという差別排除が醸成されているとも考えられ。子供自身の自律的判断による抑制が働かない程に大人が子供を無意識に抑圧してしまっているのである。
ヒトの多く、大衆の多くは本質的意識による自律的な社会的責任判断能力など、自分だけは必要のないものであると勝手に思い込むのであろう。故に放送大学では「技術者倫理」などという科目があり、あたかも技術者だけが自律的に社会的責任判断をしておけば良いものであると錯覚しているのである。
無意識的に目先の気分的安心を追求するだけで、合理性ある論理検証という本質的意識による自律的な社会的責任判断というのは、本来例外など認められるようなものではない。
どんなに過去に偏差値が高くても、本質的意識とは何かを認識したがらないというのは人間性自体の怠慢であり、人間として出来損ないである。
人間として出来損ないな社会集団であれば、あらゆる「人災」は原理的になくなることはない。バカの集団だからこそ問題がいつまでも解決出来ないのである。自分自身の頭の悪さを認識出来なければバカも「人災」も原理的に治らない、
ヒトの多くは気分的に恐くない危険に対しては意識から外し、無視し、「なかったこと」にしておきたがる傾向がある。逆に気分的に安心で満足であれば危険なことを統率暴走的に邁進することも少なくないのである。
気分感情だけで行動が決定しておいて、他人に責任云々を求める権利はない。他人に責任判断を求めるのであれば、まず自分自身が合理性ある論理検証をしなければならない。
多数派同調バイアスというのは、多数派に逆らうことが気分的に嫌であるという本能的な社会形成習性によって促される「結果」であり、こうしたバイアスによってヒトという種の生物は自律的な論理検証をしなくなる習性として現れるのである。
本能習性に無為無策に流されている自己の無意識性を放置しておいて「自由」もすったくれもあったものではない。
Ende;