○苦い。
ヒトの多くは本能的に、より目先の利己的利益を優先しがちな性質がある。そのため自分や自分が所属する集団にとって利己的利益が得られそうな場合には、簡単に社会全体の持続可能性や安全性を蔑ろにする傾向がある。
これは行動が脳の報酬系が促す気分的バイアスによる条件反射的無意識選択しか出来ないためであって、ヒトというのは本能的には意識が狭窄になるような仕組みが組み込まれているのである。
クボタ式「サル回し」で満足する親というのも、子供が強迫観念的に親大人に服従迎合することや特定能力を獲得したことに満足しているだけであって。子供自身の本質的自発性による自律的人間性が欠落する危険性を無視しているのである。
ヒトの多くは無意識本能的に行動していても概ね安全である。しかし、特殊な状況や環境に置かれた場合には無意識的な本能的行動だけでは本能が促す危険性を抑制することは出来ないのである。
あらゆる「人災」や犯罪というものは、当人に自律的な社会的責任を取る意欲や意思が欠落しているためであり、結果的にも統合的な論理検証性も欠落することに陥るのである。
他者や世間からエサを提供されることと引き換えに獲得するあらゆる特定能力というものは、目先の気分的満足を追求するような意識の狭窄性を醸成するものであり。幼少期からクボタ式「サル回し」という脳の報酬系の機械学習性を用いた特定能力「学習」をさせておけば、自律的には何も考えない典型的バカが出来上がるのである。
現在の大人の多くが、規範意識という多数他者への迎合服従こそが人間性であると錯覚しているため。いわば「バカを連鎖」する形で子供にもバカげた無意識的刷り込み学習をしなければ不安に陥るため、強迫観念的に規範意識の刷り込み学習に執着してしまうのである。
大人自身が多数他人や権威への服従迎合(規範意識という無意識)によってのみ反社会的行動が抑制されている場合、子供の反社会的行動を抑制するためには多数他人や権威への服従迎合でしか実現出来ないものであると錯覚することになるのである。
気分によってでしか行動が決定しないのであれば、論理検証的な自律行動は選択されることはない。科学的安全性の検証よりも、多数や現状権威者への服従による気分的行動バイアスでしか行動が決定しないからである。
本論が世間的に周知されないのは、気分的に嫌な話を含むからであり。嫌な話を意識から外し、無視し、「なかったこと」ことにするのは本能的行動バイアスによる必然的結果でもある。
「良薬口に苦し。」とも言うように、薬というものは必ずしも快楽を与えるようなものではない。逆に快楽を与える麻薬であれば、簡単に中毒に陥るものなのである。
現在の脳科学界というのは、脳トレだのアハ体験だのクボタ式「サル回し」さえやっておけば大衆のご機嫌を取ることが出来、テレビの視聴率やスポンサーの売上だけが優先されるという「組織の利益を優先し、安全性を蔑ろ」にしているのである。
現在の脳科学界というのは生物学における、報酬系によって本能的に獲得する動物的行動学習こそが知能の全てであるというとんでもない大間違いに基づいた知能論を展開しており、極めて非科学的なのである。
報酬系によって本能的に獲得する能力を知能とするのであれば、振り込め詐欺であろうと、無差別殺人能力であろうと、原発の危険性を放置してまで組織の利益を優先することも「知能」であるということになる。こうした利己的行動というものこそが、生物学上の絶対的正義、「生体にとって有利」な行動学習だからである。
社会や地球環境を喰い尽くしてでも目先の「生体にとって有利」な行動を採っておいて、持続可能性も安全性もすったくれもあったものではない。
そもそも本能の全てが生体にとって常に有利な行動を必ず促す論理的保証があるわけではなく、高血圧患者が塩分を欲したり、麻薬中毒患者が麻薬を欲するように、本能的習性の全ては「結果」以上の何も及ぼすことはないのである。
あらゆる本能的な「結果」を踏まえ、社会全体の安全性や持続可能性を確立するのかを統合的に検証するのが本質的意識である。
ところがヒトの多くは目先の欲望の意識を奪われ、簡単に自分や子孫が生活維持していかなければならない社会全体の持続可能性や安全性を見失うのである。
自分の論理的思考の欠落を棚上げにしておいて、気分が悪くなったことだけを理由に他人を無神経呼ばわりするのは支離滅裂である。
ヒトの多くは自分の気分が悪くなる話に対し、自分の気分が良くなるように相手の悪口ばかりを考えることによって事後正当化し、自分自身の過ちから意識を引き剥がし無視するのである。
自分の気分が良くなるためには異常に頭が働くが、自分自身の頭の悪さは一切認識することはないため、論理的思考は全く働かないのである。
バカがバカたりうる所以とは、自分自身の頭の悪さを自分自身で論理的に認識しないからである。
○小さな子供。
小さな子供に規範意識を植え付けることは致し方ないことである。小さな子供に対して社会全体の持続可能性や安全性について説明しても理解させることが困難であるため、報酬と罰、すなはち「アメとムチ」による気分的行動バイアス利用した暫定的統率を行わざるを得ないからである。
しかし、報酬と罰という気分的な快楽や恐怖を用いた刷り込み学習的な規範意識というものは、個人の自律的な社会的責任判断能力を喪失させ、無為無策に多数派迎合することによる、集団洗脳状態を招く危険性がある。
短絡的に子供を服従させることを主眼とせず、自発的に物事を判断できる大人へと育てるためには、単なる他人との競争ではなく、主体性ある個人の純粋行為というものが欠かせないのだ。
小柴昌俊が勧める「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」という話は、主体的純粋行為というものは他人からの評価報酬によって見つけられるようなものではなく、主体的純粋行為というものは主体的に自分自身の意思によって見つけ出さなければならないものなのである。
他人の顔色ばかり窺っているというのは、謙虚なのではなくて、他人からの評価を欲する卑屈さから生ずる行動なのである。多くの親達は自分自身の卑屈さを正当化するための屁理屈ばかりに意識を奪われ、主体性ある自発的思考というものの価値を蔑ろにするため、多くのヒトから自律判断が失われることに陥るのである。
バカの連鎖を止めるためにも脳科学や生物学の怠慢を放置すべきではない。
Ende;