養老の著作を読み返して見たが、基本的に論理的根拠のない仮説に基づき、自分の観念を正当化する形式である。
一般大衆的には、あたかも論理的根拠のように見えることであっても。実際には根拠ではなく、仮説であったり、或はそれ自体が観念であることも少なくない。
いくつか前の記事でも書いたが、嘘つきというのは嘘だけを言う訳ではない。ポパーを取り上げ「反証主義。」だとか言っているが。「皆さん、そうでしょ。」的な論証は少なくない。
あたかも科学的な論証のような風味を醸しているだけであって、実際には論理整合性の欠けた実証不能の観念でしかないのである。
養老の言っていることは、兎に角「徒に胡乱。」であるため。多くのヒトは読み進めるうちに理論的な検証性を失ってしまい、「何となく、わかったような気分。」に陥るらしいのである。むしろ「わからなかった。」ことが恥ずかしいとか勝手に思い込み、外見上の「自意識。」によって、いわば認知症の初期症状のごとく「取り繕って。」いるだけなのではないだろうか。
養老の「理論。」からは、実際には何ら実用的な具体策などは一切出てこない。北大の澤口俊之が唯脳論の解説をしていたが、結局彼も理解できなかったことを述べている。
理論が理解できない場合、それが単純に理論的に難解であるために理解できない場合というのがあるが。養老の「理論。」は初めから論理整合性が欠落しているのであるから、これは理解できないのは必然である。
EQという基準がある。これは理論的な根拠を伴うものではなく、IQと同じで単なる基準でしかない。「適切な感情を発する。」などとして、対象者を数値化、ランク付けしているだけであり。「適切な感情。」の基準自体に理論的根拠がないのである。
ヒトは、感情それ自体によって行動の全てが決定するわけではない。本質的意識によって自律的に感情抑制をすることによって。また、それを行い続けることによって、より自律的に感情を抑制できるようにもなるのである。
それこそ、本当に耐えられない感情であるならば、他の行動へと「逃避。」あるいは「昇華。」させることも可能である。連続殺人型と言われる大脳辺縁系の活動の活発なヒトであれば、芸術などの「気晴らし。」自体を生業とすることが「向いている。」とも言われる。こういうタイプのヒトは、他人からの評価に敏感であるため、多数他人からの評価を受けることに対しての執着があり。それが結果的に社会的成功につながることが多いようである。
本質的意識を喚起すると、一時的には精神的恐慌をきたすこともある。だが、それは今まで何も考えず、無意識に環境に流されるままに生きて来た、意識の怠慢に由来するものである。
養老などのペテンに騙されても、考え自体が一変することはなく。むしろ固定観念のまどろみに誘われるのがオチである。そもそも誰も理解してなどいないのであるから、思考に影響などあるわけがない。むしろ、ゾロアスター教と同じように読み手の都合の良いような勝手な解釈が可能であるため、固定観念のまどろみに浸って満足できるのである。
断片的に養老を正当化することは可能である。嘘つきというのは本当のことも言うからである。
唯脳論というのは、生物学では常識とされた「社会生物学。」ソシアルバイオロジーに基づいたものである。何でもこの社会生物学というのは、発表当初は袋だたきにあっていたらしいのだが。まともに反論できる人間がいなかったために、なし崩し的に常識化してしまっていたらしい。
東京大学生物学部が、「動物の行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという戯言を公表している以上、もはや社会生物学は否定されたのである。
にも関わらず、私の話を誰も取り上げないというのは、意図的な無視以外の何物でもない。生物学の呪縛を解いたのであるから、それこそナンタラ賞の類を貰ってもおかしくはないと思うのだが。あらゆる学界が沈黙してしまった。
沈黙したということも、反応のひとつではあろうから、それなりに浸透しているのかも知れないが。後になって急に取り上げられても、もはや誰も信用できない。
ブログ版の意識論を発表する何年も前から、各界にCD-R版を送付してあり。その中において、「私の指摘、受け売りによって、ジジイの吊るし上げをすることは許さない。」と書いているので、たとえ今更養老の反論ができたとしても、全く価値がない。
私は多数からの同意とか、内容を共有する味方が欲しいわけではない。論理的に理解しろと述べているだけである。
むしろ反論があるならコメント欄に書き込んで構わない。単純にわからないことがあれば質問も受け付ける。特に専門知識などなくて構わない、私自身大脳生理学的なことに関しては素人同然である。「恥ずかしい。」などという恐怖心に惑わされず、議論を戦わすだけの批判精神を忘れたから、ペテンを鵜呑みにしてしまったのである。
私の言うことは、決して理論的に難解であるとは思えない。むしろ単純過ぎるゆえの拒絶反応なのかも知れない。
一般大衆的には、あたかも論理的根拠のように見えることであっても。実際には根拠ではなく、仮説であったり、或はそれ自体が観念であることも少なくない。
いくつか前の記事でも書いたが、嘘つきというのは嘘だけを言う訳ではない。ポパーを取り上げ「反証主義。」だとか言っているが。「皆さん、そうでしょ。」的な論証は少なくない。
あたかも科学的な論証のような風味を醸しているだけであって、実際には論理整合性の欠けた実証不能の観念でしかないのである。
養老の言っていることは、兎に角「徒に胡乱。」であるため。多くのヒトは読み進めるうちに理論的な検証性を失ってしまい、「何となく、わかったような気分。」に陥るらしいのである。むしろ「わからなかった。」ことが恥ずかしいとか勝手に思い込み、外見上の「自意識。」によって、いわば認知症の初期症状のごとく「取り繕って。」いるだけなのではないだろうか。
養老の「理論。」からは、実際には何ら実用的な具体策などは一切出てこない。北大の澤口俊之が唯脳論の解説をしていたが、結局彼も理解できなかったことを述べている。
理論が理解できない場合、それが単純に理論的に難解であるために理解できない場合というのがあるが。養老の「理論。」は初めから論理整合性が欠落しているのであるから、これは理解できないのは必然である。
EQという基準がある。これは理論的な根拠を伴うものではなく、IQと同じで単なる基準でしかない。「適切な感情を発する。」などとして、対象者を数値化、ランク付けしているだけであり。「適切な感情。」の基準自体に理論的根拠がないのである。
ヒトは、感情それ自体によって行動の全てが決定するわけではない。本質的意識によって自律的に感情抑制をすることによって。また、それを行い続けることによって、より自律的に感情を抑制できるようにもなるのである。
それこそ、本当に耐えられない感情であるならば、他の行動へと「逃避。」あるいは「昇華。」させることも可能である。連続殺人型と言われる大脳辺縁系の活動の活発なヒトであれば、芸術などの「気晴らし。」自体を生業とすることが「向いている。」とも言われる。こういうタイプのヒトは、他人からの評価に敏感であるため、多数他人からの評価を受けることに対しての執着があり。それが結果的に社会的成功につながることが多いようである。
本質的意識を喚起すると、一時的には精神的恐慌をきたすこともある。だが、それは今まで何も考えず、無意識に環境に流されるままに生きて来た、意識の怠慢に由来するものである。
養老などのペテンに騙されても、考え自体が一変することはなく。むしろ固定観念のまどろみに誘われるのがオチである。そもそも誰も理解してなどいないのであるから、思考に影響などあるわけがない。むしろ、ゾロアスター教と同じように読み手の都合の良いような勝手な解釈が可能であるため、固定観念のまどろみに浸って満足できるのである。
断片的に養老を正当化することは可能である。嘘つきというのは本当のことも言うからである。
唯脳論というのは、生物学では常識とされた「社会生物学。」ソシアルバイオロジーに基づいたものである。何でもこの社会生物学というのは、発表当初は袋だたきにあっていたらしいのだが。まともに反論できる人間がいなかったために、なし崩し的に常識化してしまっていたらしい。
東京大学生物学部が、「動物の行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという戯言を公表している以上、もはや社会生物学は否定されたのである。
にも関わらず、私の話を誰も取り上げないというのは、意図的な無視以外の何物でもない。生物学の呪縛を解いたのであるから、それこそナンタラ賞の類を貰ってもおかしくはないと思うのだが。あらゆる学界が沈黙してしまった。
沈黙したということも、反応のひとつではあろうから、それなりに浸透しているのかも知れないが。後になって急に取り上げられても、もはや誰も信用できない。
ブログ版の意識論を発表する何年も前から、各界にCD-R版を送付してあり。その中において、「私の指摘、受け売りによって、ジジイの吊るし上げをすることは許さない。」と書いているので、たとえ今更養老の反論ができたとしても、全く価値がない。
私は多数からの同意とか、内容を共有する味方が欲しいわけではない。論理的に理解しろと述べているだけである。
むしろ反論があるならコメント欄に書き込んで構わない。単純にわからないことがあれば質問も受け付ける。特に専門知識などなくて構わない、私自身大脳生理学的なことに関しては素人同然である。「恥ずかしい。」などという恐怖心に惑わされず、議論を戦わすだけの批判精神を忘れたから、ペテンを鵜呑みにしてしまったのである。
私の言うことは、決して理論的に難解であるとは思えない。むしろ単純過ぎるゆえの拒絶反応なのかも知れない。