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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ケーキ。

2011年03月28日 13時06分30秒 | 意識論関連
 元暴走族だったというケーキ職人がいるという。

 暴走族でありながら、ケーキを作るのが好きというのは。外見的にはキャラクターがちぐはぐで、何となく格好悪い。そのため、長い間、彼はケーキ作りが好きだということを隠していたという。

 ある日、ふと、暴走族仲間に「俺、実はケーキ作るの好きなんだ。」と、打ち明けたところ、偶然にも相手もケーキ作りが好きだったという。

 結局、その仲間と一緒にケーキ作りを始めてからは、暴走族とは無縁になってしまったという。現在、プロのパティシエとして働いているという。


 大脳辺縁系の活動が活発な者というのは、どうしても本能的に他人からの見た目、一般に言う「自意識。」の促す強迫観念によって、外見上の同一性に執着してしまうため。他人から「格好悪い。」とか「そんなことして、何になる。」とか言われると、脊髄反射的に自分の個人的に好きなこと、純粋行為から遠ざかってしまうのである。

 脊髄反射とは熱いものに触れたときとかに、「あちっ。」っと手を離す行動のようなものである。

 多数他人からの評価に、自分の行動が流されてしまうというのは。生物学上の「社会性。」であるところの社会形成習性に因るものである。つまり、本能的に多数とか他人の顔色をうかがってしまう習性があるのだ。

 「暴走族がケーキ作り。」このことに対する一般大衆的な評価は「格好悪い。」ではないだろうか。しかし、ケーキを作ることによって迷惑行為をやめることができたのであるから、むしろ社会的には歓迎すべきことである。

 大衆観念というのは、どうしても表面的な「格好。」にばかり目がいってしまい。本質的な社会性には意識が働かない。「人は、見た目が9割。」なのである。


 便所掃除をさせて更正させた例もあるが、これは便所掃除を一緒にやらせている社長さんの人格に依存したものであり。何らかの理由でこの社長さんがいなくなれば、簡単に暴走族に逆戻りであろう。

 実際、更正したといいながら、外見的には悪人を装っていなければならないというのは。本質的には更正していないのである。「今更格好悪くて、やめられない。」のである。

 タマゴ屋とかいう弁当屋も同じ構造である。結局は社長の采配が上手なだけであり、服従対象として「安心。」なだけである。

 偶然服従対象が人格者であった場合にのみ、その社会形成習性は「社会的。」であるが。この「社会性。」とは統率者の人格に依存したものでしかないので、「甘え。」が転移しただけのことであることに変わりはない。

 「折角更正したんだから、今更蒸し返すんじゃねえよ。」と思うかも知れないが、本質的な自律ができなければ、当人が不幸な人生を歩むことになるので、ここはあえて隠さず公表するべきである。水道水に放射性物質が含まれている可能性を公表するのと同じで、パニックになるから隠蔽するという卑怯なことはするべきではない。

 自分が何をしていると楽しいと思えるのか。満足できるのか。それは他人の誰も保障などしてはくれない。少しくらい可愛い顔の少女に「格好悪い。」と言われようとも、「上等。」くらいに無視する気概が欲しいものである。

 そもそも、あなた自身が他人の評価を行う時に、相手の人生についての保障などしないではないか。そんなに深く考えて他人を評価しているだろうか。

 つまり、多数他人にとって、あなたの人生など、どうでもよい他人事に過ぎない。それなら多数他人の上っ面な評価に惑わされることに意味があるだろうか。

 「一人で学食で飯が食えない大学生。」同様、なぜか「考え。」が浅いのである。

 なぜか、それは他人から評価報酬的な「エサ。」を与えられないと自発的には何も考えることができないように育ってきてしまっているからである。

 自分からは考えていないのである。

 こうした自発的思考というものは、マイケル:サンデルの講義を受けても出来ないものであろう。サンデルの講義は、一種のゲームでしかない。特殊な条件による「縛り。」の下に考えを求められているだけであり。その「縛り。」方が学生の脳を酔わせるだけのものでしかないからである。

 構造的に自発的思考を促すようにできていない。

 しかし、本質的自発性を持った、純粋行為には。創意工夫といったものが必ず伴う。伴わない場合には、それはむしろ環境に流されているだけの行為である可能性が高い。

 格好良さに憧れて路上でスケボーをやっている少年を時折見かけるが。外見上の格好良さを求めている限り、それは迷惑行為にしかならない。だから上達もしない。当然、誰からも評価されることはない。

 本当にあなたがやっていて楽しいことが何かは、当人にもなかなか判別できないものである。他人からなら、なをさらである。

 ゲーセンで格闘ゲームを散々やったが、勝てなくてムシャクシャしたから自動車のワイパーを折りまくったバカがいた。こいつは格闘ゲーム自体が楽しいのではなく。格闘ゲームで目立っている他人に憧れているだけである。途中で気付け、バカが。

 どんなにA-ha体験ゲームをやっても、「気付く。」ことの全てが鍛えられるわけではない。そもそも、ゲーム類というのは、どんなにやっても、そのゲームに対する能力向上は見られても、それ以外の能力は一切向上することはない。

 それは実は学力においても同様である。どんなに教えられたことを正確にこなしたとしても、それ以外の事柄に対して、たとえば論理的な精密検証性や、それに伴う批判精神も養われることはない。

 それは東大生物学部を見れば明らかである。

 養老孟司が名誉教授であるから、キチガイしかいないのも必然である。






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